対岸の火事せず
自分に無関係で、何ら苦痛もないこと。
「対岸の火事」は、しばしば「明日は我が身」という意味も含ませて使われるように感じる。
これでは少し具合が悪いので、ここでは、明日は我が身という含みも持たせるために、「対岸の火事せず」と言うことにしよう。
というか、往々にして「ではない」などの否定形とセットで使われている。
対岸の火事せず。
72年前、広島に人類史上はじめて人に対して使われたものがある。
72年前の今日、長崎にも同系のものの爆発が起こされた。
当時は、ラジオ放送と新聞、電話に情報網が限られていたことだろう。
広島で恐ろしい何かが使われたらしい。
そう見た日本中の人々は、対岸の火事と感じたのか、はたまた対岸の火事せずと恐怖に感じたのか。
なにぶん、全容が分からないのだから、余計に恐ろしい思いをしたことに違いはない。
10年前、福島などで起きたことも、海外から見れば、福島全域が壊滅、もっといえば日本全土が甚大な被害とも思った人も居たかもしれない。
ただ、当時と今とでは、どの程度の被害であったかを伝える術が格段に違う。
当時も写真や新聞があったのだから、紙面の写真から被害を知ることはできただろう。
そうとはいえ、写真のみでは、どの程度の範囲で、いかほどの被害があったのかは、想像するに難しい。
「広島壊滅」という見出しをつけた新聞もあったくらいだ。
たとえ、日本全土が対岸の火事せずと恐れと緊張に包まれたとして、備えるべきはいかばかりか。
長崎でも同じような爆発が起こされたとき、どう思ったのだろうか。
H.Jacobson博士は、談話としてワシントンポストに「75 年は草木も生えぬ」という言説を掲載した。
この言説は、日本にも伝わり、今もなお、この言説をもとに広島の復興が語られている。
当時、この情報を目や耳にしたとき、人々はどう思ったのだろうか。
およそ2年間、世界に恐れと緊張を与える事態に見舞われている。
当時も今も似たような状況にある。
いや、正しくは「あった」だろうか。
格段に情報網が発達し、わっしわし情報がある。
文字情報もあれば、数値情報もあれば、映像もある。
発信元が国・地方公共団体もあれば、報道もあれば、個人もある。
遡れば、いずれも情報によって引き起こされた事柄だ。
情報に次ぐ情報の中で、どの情報を信じるかで結果が変わってくるのかもしれない。
情報があふれる時代。
それは強み。
その強みをどう活かせるか。
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