人の権利は絶対に護る

人は、生まれながらにして、さまざまな権利を持っている。
これを放棄するという選択肢も、これを行使するという選択肢も認められている。
権利を制限できるのは、あらゆる場合において、正当な理由が示されるときに限られる。

人が人を変えることは可能だが、必ずしも全てにおいて、そうではない。
そうであるならば、端から人は人を変えることはできず、変えることができるのは自分だと考えた方が、ずっと楽だろうし、向上も見込める。

本来、組織に入る自由もあれば、出る自由もある。
そこに、たとえば、債務や利害関係、過去の行動歴などの特定の条件があるとき、はじめて制限がかかる。
その制限というのは、あらかじめ内容が明らかにされ、はじめに示される相当の期間で実行されることが大切だ。
それが生来受ける権利を制限することの重大さを表す。

人と組織を繋ぐものは、善意からくる責任感ではない。
人と人とのしがらみでもない。
だからといって、出る理由が貫徹されないのは好ましくない。
それは、本来、入るのにも出るのにも理由はいらないにしても、人の関わることであるから、最低限の納得と誠実さは必要だ。

権利と義務は表裏の関係にあることは疑う余地もない。
権利に裏付けられる義務というのもある。
ただ、これを盾として義務を誇張することはいただけない。
必ずしも義務は義務として成立に得ないこともあるからだ。
それでも、義務の理由として掲げることはやむを得ない場面もあるだろう。

その上で、権利は権利として自分で守らねばいけない。
これは憲法の精神でもある。
権利の上に眠るトラということもあるが、権利があるのに権利を行使しなければ、その権利は力を失うという概念がある。
この例として、登録商標が一般名詞になったというものがある。
他方、近年、その権利が厳格に行使され、その権利に関わるものが守られているという事例もある。

権利を語る上で、多くの場合、「権利は護られるべき」という論調がある。
このとき、多くの場合で「自由」が意識されており、財産権に注目されない傾向にあるだろう。
たとえば、著作権をみても、「最近は著作権に厳しいね」というような論調もある。
著作権も大切な権利の1つであり、万人が等しく得られる権利だ。
無縁な人は、基本、誰一人としていない。
自分を利するものを権利とみて、自分の障害となるものを権利としての性格を捉えない傾向にありそうだ。
ましてや、著作権は罰則を強めたり、より権利の範囲や種類を加えることはあっても、急に厳しい基準を定めることは想定できない。
どちらかといえば、それまで権利を行使してこなかったところを、行使し始めたとみるのが自然だ。
したがって、「最近は著作権が厳しくなった(ので生きづらい世の中になった)」という論調は誤りだ。

労働に関する権利も、使用者も労働者も理解する必要がある。

権利と一口に言っても、さまざまな種類がある。
そして、その種類によって、捉え方も違ってくる。
権利の建付けを考えると、その大切な内容が見えてくるのではないか。

サポートいただけると励みになります!