紡ぐもの
本当は、コメントをしようと思ったのだけど、私は長文野郎なので、この記事を通じてコメントすることにした。
これを小春さんがご覧になるかは、分からないけれど、少し記事に起こしたくなった。
私は、「らしさ」という言葉を遣うとき、人は変化するものなのに過去の平均値を当てはめるのは気が引ける。
型を自分の中で作って相手に当てはめるような気もして気が引けるとも、思ってしまう質(たち)だ。
(かといって、人がその言葉を使うことに気にも留めず、この思いの共有を求めたりもしない。)
どんな一面があれ、私らが見ているのは、ほんの極一部でしかないのだから、何を思い何を書こうとも、それは紛れもなく小春さんの中から紡がれたもの。
ゆえに、小春さんらしさというものは、小春さんが紡ぎ出す限り、それは結局、小春さんらしいものなのだ。
たとえ、数年前に紡ぐものも、今、紡ぐものも。
前と今とで何かが違っても、小春さんも日々変化するし、私らも日々変化している。
実は自分が変化したから、相手が変化して見えるということもあるのかもしれない。
私自身も、これを書いて何になるのか、相手はどう思うのか、相手は嬉しいのか(相手に何か嬉しいプレゼントになるのか)などを考えながら、少しの迷いと不安の中で文字を起こしいる。
言葉は相手へのプレゼントであることが大半だ。
筆を執ること、頭の中のことをあえて文字にすること、素敵なことだと思う。
「昨日の自分には戻れないのに」という言葉に深い共感を覚えた。
たしかに、昨日の自分には戻れない。
昨日の自分の感覚や考え方などは今日の自分や明日の自分は持っていないと思った方が良い。
過去に、AmebloやTumblr、サーバを借りてやっていたHPなど(あらゆる言論サービスに手を染めた)で、過去の自分の文章を校正し直したくなるという経験をしたことからも、それはいえる。
記憶は記録ともいうが、その逆の記録は記憶ともいえる。
人は2度死ぬとはよく言ったものだが、その意味でも記録は大切なもの。
小春さんの紡ぐ文章も歌詞も楽曲もイラスト…いろいろなものに隙あらば触れていきたい。
そこに正解も不正解もない。
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