もう、いい

(※『かがみの孤城』を読んで)


一ページ目に、見覚えがあった。
''たとえば、夢見る時がある。
転入生がやってくる。''

私も同じようなことを思った時期があった。
''転入生が来てほしい''
小学6年生の私が未来の自分に宛てて書いた手紙を10年越しに発掘して、その中にこの文を見つけた。小学5、6年生の時、学校に通うのが苦しかった。クラスに友達は出来なかったし、先生に理不尽な怒られ方をした気はするし、自分の悪口をよく聞いた。それを思い出したから、一ページ目から「これは私の物語かもしれない」と思って読み始めた。
 この本の中には、いつか私が言葉にして説明できなかった気持ちや、今一つ分からなかった同い年の子達と大人の立場や、あの時感じた温度とか緊張とかそういうものがそのままあって、読むのが苦しくて、おもしろくて、悲しくて、たまに自分が恥ずかしくなって、何より理解された気がして嬉しかった。

 最初に読んだとき、城の中の7人が自分達の暮らす時代がずれていると気付くのにどうしてこんなに時間がかかったのだろうと不思議に感じた。''オオカミさま''の言う通りヒントは沢山あったし、もう一歩で気が付きそうな場面もいくつかあった。例えば、昨日見たテレビの話を誰もしなかったのだろうか?カレンダーやスマホやポケベルを、誰かがうっかり持ち込んだりしたことは無かったのだろうか?
 それが気になって読み返してみてみると、7人はあまり自分の日常世界での身の回りの話を城に持ち込もうとしていなかった。突っ込んでほしくない部分をそれぞれが持っていたからというのもあるのかもしれないけれど、それ以上に、当たり前に相手と共有出来ていると思い込んでいるものが大きかったのかもしれない。言わなくても分かってもらえていると思っている部分もあったのかもしれない。
 そう思ってから気が付いた。そういえば、私も身近な人たちに話した記憶がなかった。

朝、校門に入る一歩に勇気が要ったことを。

面白半分で向けられた悪意の一つ一つに、心が擦れるような感覚がしたことを。

卒業までの日数をカレンダーでカウントダウンしながらなんとか通っていたことを。

あの当時、私の膝がどれだけ震えていたかを。

 分かってくれよと思っていたくせに、そんな話を今まで誰にもして来なかった。出来るだけ普通の顔をして、平気に通っているふりをして、1日でも途切れてしまったらもう戻れないと思って休まず通い切った。誰も分かってくれないと、いじけて、不貞腐れて、「もう、いいや」と諦めていたから、手紙を自分宛にしか書けなかった。でもそれは私の思い込みで、本当は言えば分かってくれる人は居たのかもしれない。伝える努力をしてみれば違う未来もあったのかもしれない。今ならそう思う。けれど当時は、「学校で上手くいってない子」だと親や先生や他のクラスの友達に思われるのが恥ずかしくて、怖かった。「上手くいってない子」に対して世間はあんまり、優しくない。あの時そう思っていたし、今でもそう思う。
「ひとりぼっちの子にも原因があるんじゃないのか?」
あんなことをするから、言うから、こんな性格だから…とその人の中に問題を見つけようとする。私も、そんなものあてにならないと思っていたはずだったのに、この本を読みながら、ウレシノのあからさまな態度にハラハラしたり、「マサムネの斜に構えた所が」とか「こころの控えめな所が」とか、私も無意識の内に彼らの中に原因を探してしまっていてやっぱり自分もそういうことを思ってしまうんだなと自覚して嫌になった。
 それでも、私はあの時話す勇気を持てなかったことを後悔していない。それは喜多嶋先生の言葉を借りれば、あの時の私が''闘って''いたからだと思う。城に集まった7人ほど真正面から向き合ったり出来なかったし、学校を休む勇気も持てなかったし、笑って誤魔化してばかりで沢山逃げてもいたけれどそれでも、私も確かに闘っていた。闘うことになんの意味があるのか、価値があるのか、あの時は分からなかったけれど今、ようやく少しわかったような気がする。私があの教室に戻って同じ経験をしても、今の私なら大して傷付かない。それは、私が傷付くと嫌な思いをする人達が周りにいることが分かって、あの時闘って獲得した少しの強さがあって、そして、自分の気持ちを理解してくれる人がこの世界のどこかに存在することが分かったからだと思う。

 この感想文の募集を見つけて何気なく既に投稿されていた感想文を読んで、うっかり泣きそうになって困った。顔も名前も知らないし、年齢も生きている場所も違うはずで、きっと会うことも出来ないけれど、これを書いた人達なら、こころが打ち明けたときのアキやフウカのように私の話を受け止めてくれる、分かってくれる、と勝手に思った。この人達になら、信頼して話すことができる。そう思える相手がこの世界に存在する。あの教室に居なかったけれど、きっと、会って話をする日は来ないけれど、どこかには存在している。それだけで、今の私も、転入生が来ないと失望していたあの頃の私も、きっとひとりじゃない。
こころが叫んだ、
「私たちは、会えるよ!」
という言葉通り、私も今になってようやく会えたと思った。
世界中の誰にも到底理解出来ないだろう、なんて思い込んでいた傲慢な気持ちを否定してくれる本が、人が、この世界にはちゃんと存在した。
だから、もう、いい。
いじけた諦めなんかではなくて今度は本心からそう思える。
 
 多分今まではなんとなく、いつか大人やあの子達から、心を奪い返すことが出来るんじゃないかと思っていた。それでもあれは卑怯だったと認めさせる日が、あの時言い返せなかった言葉を言える日が、いつか来ると。でもそんな日は、来ない。あの時言い返せなかったことはあの時言い返せなかったのならのなら時効だし、傷付いた気持ちを修復出来るのは結局自分自身でしかない。それに、どの登場人物に対しても誠実過ぎる程誠実なこの本を読んでしまった後では、あの日あんなに嫌な人間に見えた人達をもう恨んだりは出来そうにない。分かる必要は無いのだろうけれど、私だけじゃなくて、誰だって自分のことでいっぱいいっぱいだったのだと思う。そう思えたから、もう 誰のことも責めたりしない、と覚悟を決めようと思う。

 小学6年生の私からの手紙に、今の私はこの本以上の返事は思いつきそうにない。この本を送ったら私は心強く思っただろうし、独りじゃないと思えただろうし、「誰も私をわかっていない」なんて、いじけずに済んだだろう。
 でも、この本が側にあったら12歳の私は未来の自分に手紙を書いてくれたただろうか。自分より自分の思ったことを言葉にしてくれる本に出会ってしまったら私はこの手紙は書く必要がなくなってしまったかもしれない。
 この手紙があったから、一ページ目で「ああ、この本は自分宛てに書かれた本だ」と、図々しい思い込みをすることができた。この本に10年前に会っていたらそんな気持ちは味わえないことになる。それは困る。
 ラッキーなことに、過去には郵便は送れない。
 独り占めしているみたいで少し後ろめたいような気もするけれど、出来ないものは仕方ない。
 この本に今出会えて良かったと思った。

#かがみの孤城感想文

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