無自覚な思考停止を自覚できた話
高知から福岡に越してきて2年。
田舎の中でも変わっていると言われがちな高知から、今をときめく地方都市である福岡へ。
様々な変化があるけれど、当たり前すぎる生活の一部が変わることが一番実感する。そのうちの一つの話。
漬物や梅干しと同じ感覚で明太子を食べるようになった。
福岡の当たり前かどうかはわからないけれど、我が家では梅や漬物と一緒に当たり前に出るものの一つだ。
高知の実家では、お土産や頂き物でしか手に入らない特別なものだった。年に1・2回程度じゃなかろうか。実家にとって珍しい明太子、喜びのあまり、それぞれが半分サイズはぺろりとそれぞれ食べてしまう。
「明太子いただいたよ!」「やったー明太子ー!」
食卓に、明太子どーん。
それが私にとっての明太子の姿だった。
❄︎
「明太子、輪切りにしてほしい」
先日、ふいに夫に言われた。
そういえば、福岡の居酒屋さんで明太子を頼むと輪切りで出てくるね。高知には明太子の出る居酒屋とかないし、実家で輪切りなんてみたことなかったけど、確かに輪切りの方が食べやすいね。
と、話したあと、ふと思った。
今みたいにちょこちょこ食べるなら輪切りがいいけど、実家みたいに一度に大量に消費するなら、別に輪切りにしなくても気にしない。
お皿から自分の茶碗に持っていく時のサイズによって、そもそも切るべきか、切るサイズも変わってくる。それを何も考えずに明太子はどーんだと当たり前のように出していた。
少し考えれば輪切りにした方がいい明太子をどーんと出していた。その時のもやっとした何かを後でじっくり解いてみて、ショックをうけた。
不意に出た言葉、「高知で明太子出る居酒屋ないし実家でもずっとこれだったから」という言い訳がましい反応も恥ずかしい。辛い。
❄︎
なんでこうするのだろう?
こうしたほうがいいんじゃないかな。
一つ一つに疑問を持ち思考をし決断するのは、とても体力がいる。
人間が決断する回数には制限があるという話もある。
そう、思考停止すると楽だ。
私は思考停止することを学び過ぎてしまったように思う。言い訳がましい反応をしてしまったのは、自分が楽をしている自覚が無意識にあり、それに罪悪感を抱いているからだ。
考えてはいるんですよ?思考停止はしてるわけじゃないんです、これはしょうがないよね〜気づかなくても!って。
❄︎
つい思考停止してしまう。
私が自覚するよりもはるかにたくさん思考停止してしまっている。
今回気付けたことが特別な一回だ。
夫が放った「輪切りにしてほしい」そんな些細な言葉が、私の思考停止の自覚を促した。言い訳がましい言葉を放ったあとの何気ない罪悪感を紐解いたから見えてきたこの自覚。
自己肯定感の不足を自覚したため自己肯定感を育てたい自分としては、少しはまだ思考できているからこそ気づけた自覚だ!えらいよくやったぞ!と言ってやりたいところだが、
心の底から、
本当に何も考えずに生きてしまっているんだね。
と声が聞こえるのがわかる。
思考をあまりしなくなってから、ちょっと頭を使うと疲れる現象は結構前から自覚している。(無自覚な停止ではなく、自覚的な停止)
脳も筋トレが必要。
思考が下手くそになってることは自覚していたものの、日常的なちょっとした思考にも影響が及んでると今回自覚したので、もう少し意識的に思考をして筋トレをしようと思う。
小さい頃から文章コンプレックスな私は、長い文章を書くためには頭捻らざるを得ないので、これもきっと筋トレになっているはず。
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