52Hz
かれこれ二十年、好き勝手に小説を書いている。
昔は新人賞に投稿などもしていたが、最近は短編を好き勝手に書き散らしている。
同好の士と集まって、緩いグループができていた。
同時に、かれこれ二十年はメンヘラである。
人生の半分以上、精神状態が不安定ならそれがもう日常である。
毎朝死にたいと思いながら会社に向かい、理由を付けてホームから飛び出さず、体を引きずって帰ってくる。
一番酷い時よりは落ち着いたが、それでもまだ薬が要る。
自傷しなくなっただけ進歩したと思う。
メンヘラという自覚はあるので、あとは他所様に迷惑をかけないように生きるだけだが、これが存外、疲れる。
なにせ『ふつうのひと』の言うことはころころ変わる。
『ふつうのひと』達は不文律が多すぎて、そこからはみ出せば後ろ指を指される。
『ふつうのひと』達は、毎日死にたいと思わないらしい。
でも、私はそれだけで生きている程突き抜けていなかったから、 そんな、『ふつう』の端っこからはみ出しすぎないように、そうやって生きるしかないのだ。
疲れて、息苦しくて、死にたくなるほど小説が掛けた。
周りの文字書きもそんなもので、だから、創作屋というのは、自壊しながら走り続ける、そういうものなんだと思っていた。
けど、違ったらしい。
同好の士の八割は、「病むと創作活動ができなくなる」と言った。
驚いた。随分『ふつうのひと』のようなことを言うのだな、と思った。
けどきっと、はみ出していたのはこっちの方なのだな、とすぐに思った。
よく、感想がもらえないから筆を折る、という話を聞いていた。
年に一つか二つ、思い出したように貰える感想を食べて二十年が経っていた。
貰えたら嬉しいが、こなくても仕方ない。
末端の文字書きなんてそんなものだと思っていた。同好の士の間で、感想のやりとりなんて殆どなかったから。
『ふつう』の枠内に入れなかったけど、そこの枠内には入れていると思っていた。
けど、どうやら違ったらしい。
それには一抹の寂しさと、奇妙な納得感がある。
だから皆、あんなに形にしなくても平気なんだなぁ。
別に小説が掛けなくなっても死なないだろう。
そんな生き物ではついぞなかった。
でもなんとなく収まりが悪くて、だからまだ書いている。
それにたまに疲れることがあるが、それも仕方ないのだろう。
なにせ『ふつう』の範疇に入れなかったのだ。なら、本当に終わるその瞬間まで普通を装うか、いっそ離れてしまうしかない。
離れるのは寂しかったから、選べなかった。
ならこの息苦しさも、許容し、慣れるしかないものだ。
そうやって言い聞かせて、また、深海に沈むような気がした。
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