システム~卵と壁3
過去日記(非公開)のコピペ作業(笑)2009年3月26日付「卵の側に立つ2」
笑顔は隠蔽。笑顔は詐欺。笑顔は偽善。いや、これだけでは足りない。
笑顔を必要とするのは人間だけだ。笑顔の代償は限りなく果てしない。笑顔の影で喪失したものの深さは人類の歴史を何万回繰り返しても埋められるものではないのかもしれない。笑顔を浮かべること、笑顔を誰かと交わすこと、そのことでしか超えられない秘密、暴かれてはならない秘密を、僕らは、たくさん抱え込んでいるに違いない。
笑顔って何なのか?笑顔から浮かぶ、あの不思議さは何なのか?
村上春樹は笑顔が苦手らしい。写真に撮られる時は、決まってブスっとした表情を浮かべてしまうらしい。エルサレム賞授賞式でも彼が笑顔を浮かべることはなかった。見た映像はほんの一部でしかないので断言はできないけれど、彼の顔に笑顔という名の表情が表現されることはなかったように記憶している。
全訳続き。準引用。
ただ、ぜひお伝えしたい非常に個人的なメッセージがひとつあります。それは、私が小説を書いている時に、いつも心に留めていることです。紙に書いて壁に貼ろうとまで思ったことはないのですが、私の心の壁に刻まれているものです。それはこういうことです。
「高くそびえる堅固な壁と、それにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵側に立つ」ということです。
そうです。その壁がどんなに正しかったとしても、また卵がどんなに間違っていたとしても、私は卵の側に立ちます。何が正しく何が間違っているのかは、誰か他の人が判断すればいい。時間か歴史が証明してくれるかもしれない。しかし、もしどのような理由であれ、壁側に立って作品を書く小説家がいたといたら、その作品に何の価値があるのでしょうか?
この比喩が意味することは何でしょう?それはある場合では、単純で明白です。爆撃機、戦車、ロケット弾それに白リン弾が、その高く堅い壁です。これらによって押しつぶされ、身を焼かれ、銃撃される非武装の一般市民が卵です。これがこの比喩の一つめの意味です。
しかし、それだけではありません。もっと深い意味があるのです。こんなふうに考えてみてください。私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。私たち一人ひとりが、壊れやすい殻に包まれた、世界でただひとつのかけがえのない魂なのです。わたしもそうですし、皆さん一人ひとりもそうなのです。そして、私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅い壁に直面しているのです。もちろん、この壁には名前があります。「システム」です。「システム」は私たちを守ってくれるはずのものですが、時に暴走し、私たちを殺したり、他の人々を冷酷かつ効率的、組織的に殺させ始めたりするのです。
私が小説を書く理由はただ一つしかありません。それは、個人の魂が持つ尊厳さを浮き彫りにし、それに光を当てることです。「システム」の網の目に私たちの魂がからめ捕られ、傷つけられることを防ぐために、「システム」に対する警戒警報を鳴らし、注意を向けさせることです。私は、生と死の物語、愛の物語、読んだ人が泣いたり、恐怖に震えたり笑い転げたりするような物語を書くことによって、個人の魂のかけがえのなさを明確にしようと試み続けることが、小説家の仕事であると心から信じています。そのために、私たち小説家は日々、真剣に作り話を紡ぎ上げているのです。
私の父は昨年、90歳で亡くなりました。元教師で、ときどき、僧侶の仕事をしていました。父は京都の大学院生だったとき、徴兵され、中国の戦場に送られました。戦後に生まれた(1949年)私は子供の頃、父が毎日の朝食前に、家の仏前で、深く長い祈りを捧げる姿を、よく見ていたものでした。ある時、理由を尋ねると、父は、戦争で亡くなった人たちのために祈っているのだ、と言いました。敵であろうと味方であろうと関係なく、「すべて」の戦死者のために祈っているんだよ、と言いました。仏前で正座している父の背中をを見つめていると、そこには死の影が漂っているように感じられました。
父は死に、父の記憶も一緒に消えてしまいました。私が決して知りえることのない記憶です。しかし、父にまとわりつき背中に漂っていた、あの死の存在感は、私の記憶に残っています。父から受け継いだ数少ない、そしてもっとも大切なもののひとつです。
今日、皆さんにお話ししたいことは一つだけです。それは、私たちは、国籍や人種、宗教を超えて、みな一人の人間であるということです。「システム」という名の堅固な壁に対峙する壊れやすい卵だということです。そして、どこからどう見ても、卵である私たちが壁に勝つ可能性はほとんどないということです。壁はあまりに高く、堅固で、そして冷たい。ほとんど勝ち目はありません。けれども、だけれども、もし、私たちに勝つ望みがあるとすれば、それは自分、そして他の人々の魂が何をもってしても代えがたい唯一無二の存在であると私たち自身が信じることからでしか、そして魂どうしが身を寄せ合って生まれるぬくもりによってからでしかないのではないでしょうか。
ちょっと立ち止まって考えてみて下さい。私たちはみな、はっきり自分の中に、生きた魂を持っています。「システム」にそんなものはありません。「システム」に私たちを利用させてはなりません。「システム」が暴走することを許してはなりません。「システム」が私たちをつくったのではなく、私たちが「システム」をつくったのですから。
以上が、私の言いたいすべてです。
エルサレム賞の受賞に感謝します。私の本が世界の多くの国々で読まれていることに感謝します。イスラエルの読者の方々にも、お礼申し上げます。私がここに来たもっとも大きな理由は皆さんの存在です。私たちが何か意義のあることを共有できたらと願っています。最後に、今日、ここでお話しする機会を与えてくださったことに感謝します。
以上。準引用。
最後に補足。全訳と書いておいて何だけど、実はこれも完全な全訳とは言い切れない所があることを言っておきたい。所詮、非力な自分が頼りにしたテキストは某雑誌に掲載されたイスラエルの地元紙「ハアレツ」による原文の原稿であって、これが本当に正確なものであるかどうかを確認する術がなかったというのが大きな理由だ。実際、原文にはない翻訳がネット検索の中に存在していたりして、混乱したこともあった。なので、これはあくまで私的に編集された私小説ならぬ私全訳(笑)ということで勘弁して頂きたい。あと、日本語的に不自然な翻訳が多かったので細かい部分で少し改ざんしてることも言っておかなければならない。訳者の主観で表現のニュアンスが微妙に違うのは面白い発見だったけれど、これは裏を返せば、この翻訳にも僕の主観が、色濃く反映されているということなので、それも含めて村上春樹氏のスピーチを楽しんでもらえれば幸いと思います。
さて全訳を読んでみてどうだっただろうか?メディアの報道や一瞬で流れ去るネットのニュースでは伝えきれないメッセージが、ここにあることだけは理解してもらえただろうか?いや、違うな。そんなことは、みんなわかっている。そんなことは皆、知っているのだ。報道やニュースの情報が氷山の一角で事実の表彰をなぞっているに過ぎないことは誰もかれもが知っていることなのだ。
質問を変えよう。じゃ何故、僕らはニュースを情報として処理してしまえるのか?その奥にもっと深い事実があることを知りながら、何故僕らはメディアに翻弄されてしまうのだろうか?実は、この答えのヒントが、このスピーチの中にあるのではないかと感じている。そして、その答えを真摯に追求することが、そのまま自分や他者の魂を本当にかげがえのないものとして感じるための闘いになるに違いないと考えている。
本当は個人的な感想をつらつら書こうかと思っていたんだけど、このスピーチを実際、自分の手で書いていたら、そんなことはどうでもよくなった。自分の意見を表明して自分の所在を明らかにするよりも、これを読んでいろんなことを感じてくれたに違いないあなた(実際読んでくれたのかはわからないけれど)の存在を無条件に受け入れることのほうが、余程、難しく、また「システム」への対峙になるに違いないと思ったから。
最後になるけれど、村上春樹は動物の近くにいると何故か顔に笑顔が浮かぶらしい。そんなエッセイを、どこかで読んだことが、ある。
僕はいつも思うのだけれど、動物だけではないだろうか?人間が生んだ「システム」という高い壁をあっさり乗り越えて、いや、そんなもの最初からなかったかのような顔をして、僕らの存在を無条件に認め受け入れてくれる存在は.....笑顔の意味は残酷だけれど、それをも動物は呑みこんで僕らと相対峙してくれるてるような気が、する。