システム~卵と壁2

過去日記(非公開)のコピペ作業(笑)2009年3月24日付。「卵の側に立つ」

卵の側に立つ

前日記のつづき。
「Always on the side of the egg」
イスラエル最高の文学賞エルサレム賞を受賞した作家村上春樹氏が、去る2月15日に現地でスピーチした原文のタイトル。地元紙で掲載された原文のタイトルなので村上氏本人の原稿に、このようなタイトルが冠されていたかどうかは不明だけれど、イスラエルの新聞記者にとって、また日本のメディアにとって「常に卵の側に立つ」という一言が、象徴的な言葉として受け取られたことは疑いようのない事実のようだ。まあ、僕自身は日本の報道しか見ていないので、相対的で複合的な視点から物を言えない立場にあるわけだけど、基本的に村上氏のスピーチは、「卵と壁」、つまり卵=市民、壁=国家というメタファー的表現で、イスラエルによるガザ地区への攻撃を批判したものという形のみで報道されたものが、ほとんどだったように思う。実際、「常に卵の側に立つ」と言う言葉は「高くそびえる堅固な壁と、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵の側に立つ」という一文の中で使用され、その後、卵は非武装の一般市民、壁は兵器の数々の比喩であると説明してるので、ガザ地区への攻撃を非難したスピーチである、ということに間違いはないし、メディアの情報は正しいと言えるだろう。だが(というかメディアの特性上よくあることだけれど)全文のスピーチをじっくり読んでみると、彼が語りたかったことが、それだけでないことが、見えてくる。メディアの恣意によって都合よく編集されたメッセージだったことが、わかるのである。

という訳で以下全文和訳。と言っても、かなり長いので、2回に分けて書くことにした。ネットって不思議なもので長い文章や時間のかかる情報に対しては不寛容であるらしい(笑)ちなみに和訳は、ネット検索からの引用と複数の雑誌と実際の原文目視をミックスして書いてあるので、準引用くらいな感じでお願いしたい。

Always on the side of the egg「常に卵の側に立つ」

こんばんは。今日、私は小説家として、つまり嘘を紡ぐプロという立場でエルサレムに来ました。
 
 もちろん、小説家だけが嘘をつくわけではありません。よく知られているように政治家も嘘をつきます。外交官や軍幹部らもそれぞれがそれぞれの嘘をつきますし、中古車のセールスマン、肉屋、建築業者だって嘘をつきます。しかし、小説家の嘘には他の人たちの嘘とは違うところがあります。(それは、どこでしょう?)それは、小説家が嘘を言っても非道徳的だと声高に批判されることがないところです。それどころか、その嘘が大きければ大きいほど、うまい嘘であればあるほど、そして巧妙に作ってあればあるほど、一般読者からも批評家からも称賛が寄せられてしまう。なぜ、そうなのでしょうか?

私の答えはこうです。巧みな嘘をつくことによって、つまり、本当らしく思われる作り話をこしらえることによって、小説家は真実を新しい場所に引っぱり出し、新たな光でそれを照らすことができるのです。たいていの場合、真実をそのままの形で捉え、正確に記述することはまず不可能です。だからこそ、小説家は真実を隠れた場所からおびき出し、架空の場所に移し、物語の形に置き換えることによって、その尻尾を掴もうとするわけです。しかしながら、これを成功させるには、私たちの中のどこに真実が存在するのかを明確にしなければなりません。これが、よい嘘を作るための大切な条件になります。

 しかし、今日、私は嘘をつくつもりはありません。できるだけ正直であろうと努めるつもりです。嘘をつかない日というのが、私にも年に数日はあって、今日はたまたまその日に当たっているようだからです。

 それでは、本当のことをお話ししましょう。実は、かなりの数の人たちから、エルサレム賞受賞式に出席しないように、と言われました。出席すれば、私の本の不買運動(ボイコット)を起こすという警告すら受けました。これはもちろん、ガザ地区での激しい戦闘のためでした。国連の報告によれば、封鎖されたガザ地区で1000人以上が命を落とし、その多くが非武装の一般市民、つまり子どもやお年寄りであったとのことです。

 受賞の知らせを受けて以来、私は何度も自問自答しました。このような時期にイスラエルへ来て、文学賞を受けることが果たして正しい行為なのかどうか、授賞式に出席することで戦闘している一方だけを支持しているという印象を与えてしまわないかどうか、圧倒的な軍事力の行使を行った国家の政策を是認することにならないかどうか、と。
私はもちろん、このような印象を与えたくありません。私はいかなる戦争にも反対ですし、どの国家も支持しません。もちろん、私の本がボイコットされるのも見たくはありません。

 しかしながら、慎重に考慮した結果、最終的に出席の判断をしました。この判断の理由の一つは、実に多くの人が行かないようにと私にアドバイスをしたことです。(ここで会場に笑いが起こる)おそらく、他の多くの小説家と同じように、私は人に言われたことと正反対のことをする傾向があるのです。「行ってはいけない」「そんなことはやめなさい」と言われると、特に「警告」を受けると、そこに行きたくなるし、やってみたくなるのです。これは小説家としての私の「気質」かもしれません。小説家は特殊な種族で、自分の目で見ていないもの、自分の手で触っていないものは、心から信じることができないのです。

だからこそ、私はここにやって参りました。近寄らずにいるよりも、ここに来ることを選びました。見ないでいるよりも自分の目で見ることを選びました。皆さんに何も話さないより、話すことを選んだのです。
とはいえ、政治的なメッセージを伝えに来たわけではありません。正邪の判断をすることはもちろん小説家にとって、もっとも重要な任務のひとつです。しかし、こうした判断を他者に伝えるために、どんな形をとるか、それは個々の書き手に委ねられてます。
私自身は物語という形にするのを好みます。超現実的な傾向のある物語です。ですから、今日皆さんの前で直接、政治的メッセージを送るつもりはありません。

つづく。


この前半部分で重要なパートだと僕が思うのは以下の部分。
~とはいえ、政治的なメッセージを伝えに来たわけではありません。正邪の判断をすることはもちろん小説家にとって、もっとも重要な任務のひとつです。しかし、こうした判断を他者に伝えるために、どんな形をとるか、それは個々の書き手に委ねられてます。
私自身は物語という形にするのを好みます。超現実的な傾向のある物語です。ですから、今日皆さんの前で直接、政治的メッセージを送るつもりはありません~

実を言うと、この部分をほとんどのメディア媒体が省略していた。全文と謳っておきながら、この部分が抜け落ちていたものすら、あった。そう、ここで村上氏ははっきりと、政治的なメッセージを伝えにきたわけではないと言っているのに関わらず、日本のメディアは、村上氏が公の場で政治的発言を、しかも戦争非難をしたと騒いだのだ。まあ、心情は、わからなくはない。メディアは、と言うか僕ら一般大衆は、英雄の登場や英雄的発言をどこかで求めてるものだし、時代が閉塞していけばいくほど、英雄願望への熱気はバブリーな夢の如く膨らんでしまうものだから、情報操作も仕方ないのかもしれない。実際、僕らの側だって普段から、この情報操作を無意識レベルで遂行しているし、村上氏がイスラエル首相の前(スピーチは首相の目前で行われた)でイスラエル批判をしたという物語をどこかで求めていた可能性は、あるのだから。
それに、メディアはよく批判されたり馬鹿にされたりしてるけど、実際は一般大衆の潜在願望と密接にリンクしているような気がする。つまり大衆の求めないものはメディアも求めないのではないかと思うのだ。確かに、メディアの情報操作は監視しなければならないものだけれど、大衆の潜在願望が村上氏のスピーチを政治的なものに純化させた要因のひとつという言い方はできるのではないだろうか?

ちょっと話が脱線した。要は、このスピーチに政治的意図はないと言うことを、他の誰でもない村上氏自身が話していたということは絶対に見逃してはならない事実だということです。

次に、ここの部分。
~受賞の知らせを受けて以来、私は何度も自問自答しました。このような時期にイスラエルへ来て、文学賞を受けることが果たして正しい行為なのかどうか、授賞式に出席することで戦闘している一方だけを支持しているという印象を与えてしまわないかどうか、圧倒的な軍事力の行使を行った国家の政策を是認することにならないかどうか、と。
私はもちろん、このような印象を与えたくありません。私はいかなる戦争にも反対ですし、どの国家も支持しません。もちろん、私の本がボイコットされるのも見たくはありません~

ここの部分を読んでもらえばわかるように、村上氏はイスラエル側でもガザ地区側でもない。戦争や紛争には反対してるけど、その矛先がイスラエルのみに向いていないことが、ここを読めば明確にわかる。彼が、単純なガザ地区攻撃非難をしに来たわけでないことは、この後のスピーチを読めば、わかると思います。という訳で、続きは次回。たぶん、近いうちに(笑)

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