信じる者は救われる

信じる者は救われる。
これを聞いてみんなはどう思うか。

本当に信じる者は救われると思ってる人もいれば、他人を100回疑っても足りないと思う人もいるだろう。

因みにわたしは後者である。

これは祖父からの教えもあるが、わたし自身誰かを信じて裏切られた記憶しかないからだ。それも男に。

女にしろ男にしろ自分の人生で1、2年深く関わっただけの他人に大きな期待をするものでもないのだ。それは自分でも分かっている。

何故、裏切られても誰かを信じてしまうのか。
幼い頃に見たアニメのヒロインはボロボロになった体で「信じる力が強さに変わる!」と言って仔羊のように震える膝で立ち上がる仲間と力を合わせて敵を倒していた。信じる力を信じる人間は救われるし強い。わたしもそう信じていた。

その強さは、本物?強がってるだけじゃないの?その人に使った時間が無駄だと思いたくないだけじゃないの?

わたしはそれで堕ちるところまで堕ちた。ある男を信じたために純粋無垢な少女が風俗嬢となった。

決して風俗嬢になることを「堕ちる」と言っているわけではない。男のために金を稼ぐようになることを「堕ちる」と言っている。飴と鞭を上手に使い分け、鞭を恐れて機嫌取りをする。でも飴はとてつもなく甘くて離れられなくなり、気づいたら自分の周りには誰もいない。もう洗脳と言っても良いかもしれない。

頬を引っ叩かれ腹を蹴られ胸ぐらを掴まれ恐喝され引き摺り回され身体を好きなように遊ばれても忘れられない。今でも夢に出てくるくらいなのだ。憎しみと未練がごちゃ混ぜになって、わたしの語彙力では表せない気持ちになる。どうしようもなく好きだったのだ、どう頑張ってもわたしに興味を持たないその男が。どれだけぞんざいな扱いを受けても彼の甘い言葉を信じ続けて、その恋は灰になった。

周りの者は依存だと言うだろう、誰がどう見ても遊ばれてると思うだろう。金蔓だと思うだろう。疑ってるのにその人がいなくなるのがこわくて何もできない弱くて哀れな女だと言うだろう。でも、それは彼氏に愛されて幸せな者や自分をしっかり持っている人間の言葉でわたしには何も響かない。

親からの愛情も知らないのに、愛され方も愛し方も分からないのだから。でも、20数年生きてきて愛情表現は人それぞれだと分かった。だけど、全てが嘘だったと分かったときは?

わたしはわたしなりに誰かを信じ、愛を貫き通そうとしたのに。全て一瞬で崩れ落ちた。まるで砂のお城だ。

この経験以来誰かを完全に信じることができない。裏切られたと分かった瞬間の体の内側が冷えて麻痺する感覚がとても恐怖だ。あの感覚は、二度と味わいたくないのだ。


わたしは、疑いながら人と接する方が安心できるのだろう。疑いと言う名のバリアをして、傷が深くならないようにしている。疑うことは自己防衛なのかもしれない。完全に相手を信じる無防備な状態にはこわくてなれない。きっとずたずたに引き裂かれてしまうから。

だからわたしは、疑うことで救われているのだと思う。

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