夢見草
不意に思い立って、町外れの山奥の古い精神病院へ、叔父へ会いに行くことにした。
何となく車を出す気にならず、電車とバスを乗り継いでゆっくりと向かう事にした。
電車のどの車両もがらんとしていた、その後乗り継いだバスも、乗客は僕しかおらず、車窓からは、桜の花が満開に咲き誇っているのが見えた。
病院へ近づけば近づくほど、桜の数は増えていき、桜の下の死人やら、桜の下で気が触れて愛する人を絞殺した男の物語なんかを、ぼんやりと思い出していた。
バス内の無機質なアナウンスで、降りなければならないことに気が付き、小さい頃、不必要に押したがって騒いだ降車ボタンを、唯押さなけれならないから押した。
赤く光るそれを眺めながら、以前会った時の、叔父の顔を思い出そうとするも、もうすぐ会えるのだから、思い出す必要性もないと気付いて、やめた。
バスは、病院の目の前の停留所で留まり、こんな所で降りるのか、という心中が読み取れる様な、訝しげな眼をした運転手に見送られながら下車をする。
木造の古い病院は以前来た時より、少しばかり改装されて綺麗になっていた。
待合室の椅子の群れを抜けて、受付で、叔父の名前と、面会の旨を告げる。
入院病棟へ向かい、病室番号とネームプレートを確認しながら叔父の名前を探した。
ようやっと、叔父の名前が書かれた部屋を見つけると、数回ノックをして、そっと開けた。
叔父は突然の来訪者にびっくりしたようだったが、すぐに琥珀色の目を細めて、嬉しそうに、よく来てくれたねと言った。
叔父がこの病院へ収容されたのは、何処か狂っていたからではない。まとも、だったのだ。
この社会を生きるには、この世界を生きるには、余りにも、まともすぎたのだ。
久々見た叔父の顔は、相も変わらず少年の様な純粋さと、ある種の気品に溢れていた。
「桜が、綺麗で、それで、叔父さんに会いたくなって…」
何故か言い訳の様に口籠ってしまった。
「そうか」
叔父は微笑みながら
「病院の敷地内にも、桜の木があるんだ。少しだけ、散歩でもしようか」
僕は快諾し、嬉しそうにベッドから起き上がる叔父を見ていた。
父と叔父は十も歳が離れているのだが、それにしても叔父は異様に若く見えた。
青い血管が少し浮くような、ボーンチャイナの質感を思わせる白い肌、琥珀の目、何よりも、浮世離れした雰囲気や表情がそう見せるのだろう。
叔父の入院する開放病棟の看護師に、少しだけ外に出ることを伝えると、
「今日は暖かいですけど、もうすぐ日が落ちますからそれまでに戻ってきてくださいね」
と柔らかい口調で返ってきた。
アールヌーボー風の古いベンチ、所々枯れた芝生を踏みつけながら、お互い押し黙ったまま、病院の敷地内を歩く。
そうして、敷地の端まで来ると、数本の桜の木が零れ落ちそうな程、沢山の花を咲かせていた。
太い幹をもってしても、枝の見えない程に繁った薄紅色は、余りにも重たそうに思えた。
「桜満開の木の下で、人は狂うと何かであったね」叔父が不意に口を開いた。
「坂口安吾ですよ」
「ああ、そうだった、そうだった。でもね、それは違うんだ、満開の桜より散り際の桜がいっとう恐ろしい」
叔父は何故か幸せそうに、笑いながら言った。叔父は、一本だけ、花の盛りを終えかけている桜の木の下にいた。
彼の上に、絶えず、大量の花弁が降り注いでいた。
日が落ちかけ薄暗くなってきた空と、絶えず舞い落ちる、薄い、淡い、花弁の雨が美しく、暫く僕は、それを見上げていた。
そうして、叔父に話しかけようと、
「ねぇ」
と呼び掛けて、視線を落とすと、叔父の姿は、そこにも無かった。彼の居たはずの場所にかすかに龍涎香の様な香りが漂っていた。
辺りを見渡そうが、呼びかけようが、もうこの世の何処にも、彼はいないのだと、何故か、わかった。
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