彼の目
彼の目が綺麗だったので、私の人生の中の一晩をあげる事にした。
なし崩しでもなく、向こうからの強引な誘い、でもなく、私自身の自由意志に基づいて、私の愛する私の時間を彼にあげる事にした。
時間に執着する私にとって、それはその瞬間だけでも彼を愛する事と同等だった。
彼にも私にもさして思い入れの無い街を歩いて、何杯かのアルコォルを呑んだ。
空気中の金魚達が微睡出す頃合いに、アルコォルで痺れ出した脳と酔いのせいか距離感の近くなる彼を見ながら、パーソナルスペースの重要さと、私にとってある種のガイドラインになる距離に入られても不快で無い事を再確認する。
取り留めのないようで重要な話をいくつかして、重要な様でどうでもいい話をまた、いくつかした。
空気中の金魚達はすっかり眠りにつき、大きな鱗のアロワナがゆっくりと街を漂い始めていた。
雑多な街でたまたま見つけた静かなバー、時間の流れを見やすくて幸い。
取り敢えず、小さい頃ママに言われた通り、相手の目を見ながら会話をする。
目を見ながらの会話は、幼少期と別の意味をもっていた、幼少期は誠実さを表す為、今は動物的本能から来る威嚇行動。
目の奥と腹の中を探りながら会話をする。
声のトーンや喋り方は子守唄みたいな人、目の奥の仄暗さもなければ濃いブラウンの虹彩に綺麗に黒い縁取りがあるのが気に入った。
私と同じ目の色彩、私が唯一私の中で好きな場所と同じ造形。
それだけの為に私の時間をあげることにした。
彼の泊まっているホテルに潜り込んで、また取り留めのない話と私にとっては重要な、確認事項のような話をする。
人生捨て去ろうと思っていた間際だったから、こういうちゃんとした手順を踏むのが久しぶりで、どうしたらいいかわからないまま、空気中のアロワナの鱗が光るのを見ていた。
窓の外は今にも雨が降り出しそうで、明日を夢想し憂鬱になる。
煙草の煙と言葉の羅列でも、空気が誤魔化せなくなったタイミングでそういう行為をする。
終わってからまた、彼の目を見るとやっぱり理想的な造形であったから、時間と体力を使う価値があったなと思う。
他の人間からこの目を独占出来るなら、伸縮する人生の時間を今後も定期的に彼に使おうかとも思った。
部屋を舞うオオミズアオに瞼を無理矢理覆ってもらって、どうにかこうにか眠りにつく夜と、陰気な雨の音で目覚める朝が終わって、
取り敢えずまた会うことを、口約束で交わしてさよならをする。
あの美しい彼の目と暫くのさよならする。
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