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業後

雨は、只、降るばかり。梅雨の曇り空はもう二週間も晴れず、硬く渋る夏の兆しを籠らせ続けている。
晴美との下校時の競争は、宏久がいつからか勝手に行っていることで、晴美自身そんな事に巻き込まれていることは知る由も無い。晴美に宏久はいつも追いつけずにいた。彼女よりも早く廊下へ飛び出し、まだ帰宅する生徒の足が少ない空の階段を駆け下り、下駄箱で素早く靴を履き、校庭を抜け、自転車置き場へ向かい、全校生徒で一番に通学路を駆けても、だいたい道の中間に達する頃に涼しい顔をした晴美が、真白な自転車ですいすいと悠々と彼のそばを抜けて行くのである。初めの頃、つまり宏久がまだ晴美を認知する前は、凛々しく澄んだ風のように過よぎる彼女に好意にも似た、憧れを抱いたものであったが、何度と追い越されてゆく内に、今となっては嘲られているようで気分が悪かった。
下校時間が近づいても、雨が止むことはなかった。今日は合羽を着るという一手間がある、と宏久は掃除の時間中、廊下の窓に垂れる雨粒や地面に突き刺さってゆく、いくつもの水滴の残像を眺めながら考えた。合羽は男女で構造が異なる。上半身はジャケット、下半身はズボンの男子に対し、女子のは丈が膝下までの外套コート状のものである。これによっては、男女で合羽を着る手間が変わってゆくのである。晴美は羽織って釦を止めるだけでいいのだ。あゝ、なんて楽なんだ。宏久は合羽が疎ましく思えた。着る手間が勿体ないと、悪態をついた。大体、この時期に合羽を着たら、余計蒸し暑く、中で汗を滝のようにかいてしまう。着ようが着まいが、ずぶ濡れみたいなものである。宏久は汗でシャツが張り付いてくる、夏の合羽が嫌いで仕方なかった。
―そうだ。なら着なきゃいい。
夏服のまま雨の中を切り裂いてゆくようにペダルを漕いで進んでしまえばいい。なぜこんな事に思いつかなかっただろう、と宏久は、窓を拭くのに手にしていた、ごわごわとして乾いた雑巾を放り投げた。それを見て、彼の担任が教室から一喝した。怒鳴り声に乗じて、隣の特進クラスの女子の何人かが、開け放たれた窓から廊下へ顔を出すほどであった。その中の奥にこちらに目もくれず、せっせと塵取りと箒で埃を集める晴美が見え、何故か宏久は不快感を覚えた。
終業は遅れた。晴れの日に校庭掃除をする生徒が、雨で教室掃除に回されたのにサボタージュしたから、らしい。その中の何人かは宏久がクラスの中であまりよくは思っていない連中であった。誰かが落としたままの使いかけの消しゴムと、教室掃除担当の生徒から拝借したT字の箒で、彼等はホッケーをしていた。彼等の蛮行を聞きつけてか普段は滅多に掃除の時間に顔を出さない担任が現れ、叱りつけたらしかった。宏久は、連中のことを親の仇かというほど憎たらしく思いながら、いつ済むかわからないこのひと時を窓に映る雨空を見上げて過ごした。担任はちまちまと今日の掃除の時間にあったくだらない一件について説教を垂れた。およそ数人程の無自覚な生徒の為にみんなの放課後の時間がこんな説教に使われてしまうことを最高学年という立場である身で恥ずかしく思わんとアカンぞ、ましてやもう少しで社会にでる身、こんな小学生みたいなことで叱られとってどうすんだ、と担任の話は続いた。宏久は彼の言葉によって、苛立ちと背筋に氷の群れを注がれるような気分の悪さをだんだんと覚えた。ひらめきによって思わず雑巾を放ってしまったことが、この担任にとってはおよそ数人程の無自覚な生徒のひとりとして、位置付けられているのではないかと思ったからである。そしてそれが、晴美との競争への普段にはない焦燥感を煽っていった。
濃い溜息をついて、宏久は廊下を小走りで駆けた。しかしその足取りは確かで、まだ可能性は捨てきれず、さっきまでの焦燥感が彼を牽引しているらしかった。雨はいまだにしつこく残り、むしろ掃除の頃より酷くなっている。渡り廊下の窓を見ながら、雨の程度を見て宏久は階段にさしかかった。下級生の一団の流れが、渋滞して鬱陶しくゆっくり進んでいた。なんとかその流れに加わると、一向に進まずチンタラと下りながらキャアキャアと与太話を繰り返す女生徒が二人、三人で通れる幅を塞いでいた。わざわざ手を繋いで鞄を持っているため追い越せず、宏久の苛立ちが増した。後ろから突き落としてしまいたいと彼は思った。短い悲鳴をあげ、彼女たちの先を行く生徒に落ちて、その次も倒れて前の者へ落ちていき眼下の踊り場に肉塊が積み上がり、階段がすっきりする様を想像すると、いくらか不敵な笑みが漏れ、愉快さが起こった。
だがここで、思わぬ者を宏久は見つけてしまった。三列先に、この流れに彼同様に溺れる晴美を見つけたのだ。あゝ、なんたる好機。宏久は飛び上がりそうだった。飛び上がって宙を滑り、下駄箱へ抜けて行ってしまいたくなった。まだ終わっていない、そう宏久は希望を持てた。晴美が速いのは自転車であり、まだ校内であれば、脅威ではない。掃除をきちんとする真面目そうな彼女が、この局面で人を追い越すことはないだろう。この雨だ。きっと、あのいつもの水色のスニーカーではなく藍色の長靴を履くのに時間をかけ、尚且つ律儀に天にお見せするかのように傘をさすに違いない。たかが二十数メートル程度の距離を、走れば一瞬であるのに彼女は嗜むように、雨を味わうように自転車置き場へ向かうのであろう。勝てる。普段通りにやれば、逃げ切れる。地の利を得るんだ。宏久は意を決し、跳ね、浮きはしなかったが、人の間を急用があるように縫い始めた。突然、鞄とつないだ手を突き破られ、女生徒の二人が短い高い音を上げ、鞄がぶつかった野球部員がグローブを落としながら怒鳴り、焦点の合ってない目をした下級生が段を踏み外した。すぐに晴美を追い越した。踊り場を過ぎたところで、折り返す形の先に晴美の顔を宏久は一瞥した。相も変わらず、澄ました顔だった。その、何もかも見透かした面が、腹立たしく、憎たらしく、愛しいんだよ、と宏久は目で云い、それを残したままに、余韻を薫らせたまま、下駄箱へ急いだ。
―来いよ、追って来いよ晴美、いつもみたいに俺を追い越してみろよ。
宏久は得意げに靴を履き替えた。しゃがまず、器用に脚だけで履いた。
晴美が来てないか、振り向いた。障害物の下級生が、乱立する竹林のように残っていた。晴美がその林から抜け出て来たので、宏久はすぐに昇降口を出た。じとり、じとり、と降り続ける雨が、夏服の宏久をいち早く濡らした。後ろの下駄箱で長靴に履き替える晴美を意識しながら、迷いもなく、雨の中を宏久は駆けた。湿った空気やぬるい雨を浴びながら進む。水たまりに足を踏み入れてしまうと、宏久は気にも留めない、どうせ今から散々濡れてしまうのだから。自転車置き場には、先駆者たちの着替えで埋め尽くされていた。暑苦しい光景である。宇宙服のような厚かましさがあって、宏久は纏めてスペースシャトルに乗り込んで飛んで行ってしまえ、と唾棄した。俺はそんなくだらないものは着ない、と勢いよく錠を解き、自転車を出して跨った。雄々しく、宏久はくどい雨の群れを裂いて行くように突き進んでいった。合羽を着る下級生たちは、屋根で雨をかわしたまま、彼を不思議そうに見ていた。
宏久が門を出る時、昇降口から傘をさした晴美が、予想通りの足取りで出てくるのが、見て取れた。彼は急いだ。漕げば漕ぐほど、宏久にぶち当たる雨粒は増していった。通学路を走る先に出た生徒の自転車は疎らで、誰もが揃って合羽を着て、慎重な速度で走っていた。宏久はその中では異端で、荒々しい雄牛のように駆けた。雨のせいで滑りやすく、当てつける無数の雨粒で視界も悪い中、彼は御構い無しに進んで行く。学校から五つ目の信号機の交差点、丁度、いつも晴美が宏久を追い越す地点で、彼は再び振り向いた。晴美の姿はおろか、追い越した自転車さえ見当たらなかった。彼は勝利を確信し、それを噛み締めた。いつも颯爽と追い越し、去って行く晴美に、ついに勝てるのだ。何か捨て台詞のようなものでも一言吐いておきたい気持ちになった。捨て台詞でなしに、勝利宣言のような、他愛もない世間話をするだけでも、優越感に相応し、彼の自己満足に直結するであろう。だが驚くでなかれ、いつも呆気なく追い越される有様で、尚且つ彼女の涼々とした雰囲気に一種の嫌悪とそれに反した感情を持ち合わす宏久は、晴美と会話を交わしたことが、一度もないのである。宏久の知る晴美のことは、特進クラスの女子で、真面目で、自転車が早い、ということだけなのである。
ずぶ濡れになりながらも、宏久は愉快で、頬を緩ませていた。降り荒れる雨が、奔馬ように火照る体をゆっくり冷ましていく。初対面の赤面を引き起こすであろう緊張や、気まずく沈黙を含有した会話への恐怖が、今の彼には微塵もなかった。どんとこい晴美。宏久に今あるのは、この一度きりの勝利による優越感である。
だが時々彼が振り向いても、一向に晴美らしい人影は、見えてこなかった。走る間に失せていた焦燥感が再び彼に根を張った。彼はハンドルのブレーキを指で軽く叩き鳴らしながら、あの信号機のある交差点で待った。何人か、追い越した自転車が、今度は彼を追い越して行く。しかし、晴美は現れなかった。宏久はくしゃみをした。
彼の中を支配していた優越感は迫害され、台頭した焦燥感が統治し、そして陰鬱な諦めに似た一つの予想が立ち上がった。頑固な油汚れのようにこびりついた。
―そもそも、晴美は今日、自転車で登校したのだろうか。今頃、親の迎えで、とっくに家に居るのではないだろうか。
宏久は大きなくしゃみをして、喪失感の中で、敗北をしたことに気づいた。
空が壊れ、雨は、終わりが見えない程に、振り続けている。夏の兆しがいくらか苛立ちを含んで増した。

(了)

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