友引人形 (1)
千夏(ちなつ)さんは、娘のチカちゃんを出産したときお祝いにと義母から一体の人形を貰った。
「子供がいつか遊ぶために……って」
それは、産まれたての赤ん坊には些か早いお祝い。
抱っこすると目が開いて寝かせると目を閉じる仕掛け人形だった。
フランス人形のような見た目のそれは、少し古ぼけていて新品ではなかった。
「これ、なんですか?って聞いたら、昔大事にしてたお古なのよって……」
義母はどちらかといえば何でも新品で揃えるタイプの人で少し奇妙には感じたという。
「……ありがとうございます……」
正直、受け取りたくはなかったが隣で夫が呑気に「よかったな」と笑っていたのでとりあえず受け取るだけ受け取る事にした。
手に取ると薄らと埃臭さが立ち上ってくるような人形だった。
千夏さんは家に帰ると早々に押し入れではなくさらにその上の天袋へと人形を袋に入れたまま押し込めた。
「それからその人形のことはすっかり忘れてしまって……。育児が大変すぎてね、何年忘れてたんだっけ。……たぶん、チカが4歳になるくらいまで……」
娘のチカちゃんが4つになった頃。
急に子供部屋で遊んでいた娘が「おかあさん!」と駆けてきた。
どうしたの?と振り向くとチカちゃんが胸にあの人形を抱えているのが見えた。
「この人形、どうしたの?」
「ばあばがくれた」
「いつ?」
「ばあばが前にあげたって言ってた」
「ええ……?」
「ばあば」
チカちゃんは笑顔で人形を差し出した。
古ぼけた人形の目がぱっちりと開き千夏さんを見つめて微笑んでいた。
「その時、私、確か天袋にしまったはずなのに……って思ったんですけど。でももしかしたら天袋に押し込んだのは記憶違いで押し入れにしまったのかもしれない……って思ったんですよね。だって、チカが持ってきたのだとしたら天袋なんて絶対に届かないじゃないですか」
この人形、天袋にしまったはずだけれど……思い違いで押し入れの中にしまいこんでいたのかもしれない。
それに、義母はよくチカにおもちゃを買って与えていたから見たことない玩具は義母からの新しい贈り物だと思ったのかもしれない。
そう思う事で千夏さんはその場を収める事にした。
夫は義母から人形を貰った事などすっかり忘れて「何だ、この汚い人形?埃臭い。こんな物をチカに渡すなんて」と愚痴のように溢していたが、数年前に義母から貰った物だと告げた瞬間「大切にしなさい」と手のひらを返すような事を言いだした。
天袋に仕舞ったはずなのに、という話をしたかったのだが、夫にその話をする機会は来なかった。
「人形を見つけた頃からチカの様子がおかしくなってしまって。変な事言うようになったんです」
この日からチカちゃんは人形の事を「ばあば」と呼ぶようになった。
どうしてかはわからないが「ばあばと遊ぶ」と言って人形と一緒に遊ぶ。
千夏さんは「ばあばの人形」という事なのだろうと思う事にしてはじめは気に留めていなかったという。
ただチカちゃんが“ばあば”と人形を呼んで遊ぶようになってから千夏さんは家の中に人影を見たり人の気配を感じるようになっていった。
夫にその事をやんわり伝えてみたりもしたが、電気が切れかけているんじゃないか、ただの影だろうと相手にしてもらえない。
ただ確かにその時千夏さんは視線を感じていたし、人の気配も感じていたという。
「スライドドア越しにスゥ……って人が通ったような、背後を覗き込まれるような、そういう気配を感じたりして……それから、その気配を感じた時はきまって埃っぽい臭いがするの。そんなだったから、自分の家なのに居心地が悪くてずっと神経が尖っていたのね」
そのうち人の気配らしきものからいっそう強い突き刺すような視線を感じるようになった事で千夏さんの精神が限界点に達したのだという。
「なんだか、爪楊枝とか針でチクチクと刺されるような、痛みもある気がしてしまうくらいの嫌な視線……気配……。それがある先に、チカがいうには“ばあば”がいるの」
主にこの嫌な視線は千夏さんに向けられていた。
チカちゃんがその嫌な視線がやってくる先、何もない空間に向かって「ばあば!」と声をあげたのを聞いて気が遠くなるような思いをいつもしていた。
むわり、と千夏さんの鼻に咽せ帰るような埃っぽい臭いが届く。
夫も、帰宅するやいなや「埃臭い」と口にする事が増えた。
“きっとあの人形が悪いんだ”という事には前々から勘付いていたが確証は勿論あるわけがない。
それでも千夏さんにとってはもう限界で、精神的に追い詰められる日が続いた。
「子供部屋で寝てるチカの隣にあの人形があったんだけれど、もう片付けてしまおうと思ったんです。捨てるのはもう少し後、チカにお気に入りの人形を買って代わりを見つけてからこっそり処分しようと思ったんです」
この人形は仕掛け人形で寝かせると目が閉じて眠るようになっている。
千夏さんがすり足で眠っているチカさんの側に寄ると、の臭いの立ち込める人形を手に取ってすぐに居間へ引き返した。
「あれ、って思ったんです」
仕掛け人形の目が身体を起こしているのに開いていない。
「腕を持ってぶらんってぶら下げる形で持っていたのに目が開いていなくて。え?って思って。壊れちゃったのかなって思ったんですけど。とにかくもう段ボールか何かに入れてしまおうとテーブルに人形を置いて箱を取りに行ったんです。その時にも目は閉じたままで」
千夏さんはチカさんの目が覚めてしまうよりもはやく段ボールの中に人形を仕舞い込もうとした。
通販サイトから届いた荷物を急いで開封して、手頃な段ボールを持って居間へと戻る。
「さあ、しまうぞ、って。人形を掴んで、箱に」
眠っている顔の人形を手にして段ボールに入れた。
箱が少し小さかったのか、スカートの部分がなかなかうまく入れ込めずにくしゃくしゃにして押し込んだ。
咽せこむほどの埃がスカートから立ち上って思わずくしゃみと咳をした千夏さんが顔を上げると、人形の目があった。
「えっ」
ぱちり。
ぱちり。
ぱちり。
――――人形が、ゆっくりと瞬きをした。
「……!!!!」
千夏さんは声も出ないほど驚いたが、咄嗟にその右目を手元にあったボールペンで突き刺した。
「どうしてそうしたかわからないんです。動転して、咄嗟に刺してしまって……」
人形の目はプラスチックで出来ていて硬い。
しかし、思い切り突き刺したからちょうどボールペンの先の部分が目に突き刺さった。
「ぎゃぁあああぁああ!あぁああああん!!!!」
「……チカ!?」
ボールペンが突き刺さった瞬間、子供部屋からチカちゃんの絶叫が聞こえた。
こんな声は初めて聞いたと思う程の絶叫に近い叫びと泣き声。
「チカ!!!どうしたの!」
「あああああ!ああああああ!!!」
子供部屋についた千夏さんは愕然とした。
チカちゃんは自分の右目に指を差し込んでいた。
だくだくと血が流れ顔の半分が赤い。
「どうしてこんな事!!!!」
叫んだ千夏さんはすぐにチカちゃんを抱えて携帯電話を取り出し119を押した。
事情を説明するとすぐに救急車が出動したが、千夏さんがどう働きかけでもチカちゃんが右目から指を引き抜く事はなく、最終的に到着した救急隊員に腕を無理矢理掴まれ力づくで指を右目から引き抜く事になった。
救急車に一緒に乗り込み病院へ向かったが、車内はやたら埃臭かった。
「救急車からあの人形の臭いがしたの」
病院に到着するとすぐに処置室へ向かう事になった。
命に別状はなかったが今後視力がどうなるかはわからないと絶望的な話を医者から聞かされて千夏さんは声が枯れるほど泣きじゃくったと言う。
「その時、何でか夫にも連絡がつかなくて」
何度も何度も携帯電話に連絡をしていたのに、肝心の夫に連絡がつかなかった。
苛立ちよりもどこか漠然とした不安が心の中に広がっていた。
夫と連絡がついたのは、それから1時間ほど後の事。
着信が入ったのをすかさず取ると、酷く狼狽えた夫の声が耳に届いた。
「電話取れなくてごめん、あの、お袋が……って、夫が言うんです。私もチカが大変だからって、それどころじゃなくて……」
千夏さんは泣きながら夫にチカちゃんが右目を自分の手で潰してしまった事を伝えた。
電話口の向こうで夫が息を呑んだ音が聞こえた。
「そしたら夫が「お袋が目をまち針で刺したんだ」って言うんです。自分の手で刺してたのをお義父さんが見つけたの。それで病院に行っていて連絡が取れなかったんだって」
消毒液と薬の苦っぽい香りに包まれた病院の待合室で、千夏さんは埃の臭いを感じた。
夫はすぐにそちらに向かうから、と言って電話を切った。
千夏さんはこの時、やっとあの人形について夫と話し合おうと心に決めた。
「夫に全部話して、義母ともちゃんと話さなきゃって思ったんです」