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#1 Sと私

「離婚はしません」

まるで、夕飯は用意しなくていいと言っているかのように、いつもの無表情で告げると Sは仕事へ出かけた。

私の勇気を振り絞ったあげくの答えが、こうもあっけないものとは、ほとんど予想通りだ。私にはわかっていた。 


Sとはお互いの職場の上司の紹介で知り合った。お見合いのようなものだった。

ハンサムだが面白みのなさそうな人だ、と思った。

だが私には彼を拒否する理由はなかった。結婚するつもりだった相手にひどい失恋をしたばかりだった。面白みはなくても、真面目で優秀な国家公務員を結婚相手に選ぶことが、失恋相手への当てつけだったと今は否定できない。

Sとは、幾度かデートのようなことをしていくうちに、少しずつ打ち解けた。私の方が2歳年上だったので受け身な彼をリードする形になったが、それはそれで新鮮だった。仕事では将来を嘱望される検事様なのに、私生活では趣味も交友関係もなく、暇さえあれば持ち帰った仕事をしていた。エリートとはこういうものかと思い、私は彼の部屋に花を飾り、食事を作った。休みの日には私に時間を割いてくれるので一緒に過ごした。

2人でいる時は、ほぼ一方的に私が喋り、彼はもっぱら相槌をうつばかりだった。ただ質問をすれば、彼は適当な答えを返すことはなかった。しばらく考えてからゆっくり返事をしてくれた。

「どうして会ってくれるんですか」

「会わない理由がないです」

納得いかないと眉根を寄せて拗ねてみせた私の顔を見て、彼はどう思っただろうか。

そんな会話をかわし共に時間を過ごすうち、無表情の彼の、私への視線がだんだんと意味を持つようになっていった。彼が私という人間に馴染んでいくのがわかった。冗談を言うと微笑んでくれるようになったころ、子供の頃に脳の手術をして、普通の人と違う所があるという話をしてくれた。

人よりも感情が薄い。誰かと生きていくことが難しいかもしれない。

そんなことをぽつりぽつりと話してくれた。

Sは表情こそ乏しいが、その話をする時の眼差しには、不安が溢れそうになっていた。子供のような目だった。苦しかった頃の話を聞いている私の目から涙がこぼれた。私を信じてくれている。この人を守らなければならない。そんなふうに思った。


「Sさんと私、一緒に暮らすのは嫌ですか?」

「来るのが大変ですか?」

「…私がもう来なくなったらどう思いますか」

しばらく私を見てから、目をぐるりと回してこう言った

「僕が行きます」

私は嬉しくて、本当ですか?私に会いたいですか?と笑いながら言ったのを覚えている。そのあと彼が、はい、と言ってくれたことも。彼の感情はちゃんとそこにあると、はっきり思った。


恋愛を経ない結婚だったとしても、一緒に住むようになってしばらくは、初々しい時間が流れた。私は互いの呼び方に照れたり、たくさん食べてくれるSのために毎日の食事作りに意欲的になった。Sは相変わらず表情は乏しいながらも、時折ぎこちない情熱を見せてくれた。その時は私が優しく手ほどきをした。彼は素直に言うことを聞く優秀な生徒だった。

彼のキスは慎ましい。淡い雪のように、触れると消えてしまいそうな感触。私はじっとそれに慣れる必要があった。気が急いて追いかけると、彼はそれをよけてかわす。感情をぶつけ合うのを恐れていたのは彼だった。私との間に見えない膜のようなものがあり、私は懸命にそれをはがそうとするけれど、いくら掴んでも手応えはない。

それに気づかないふりをするのが、私たちの夫婦の形なのだと思った。

「私のことをどう思ってますか」

「大切なんだろうと思います」

「思う? 自分でわからないの?」

彼は答えなかった。きっと本当にわからないのだ。彼は嘘をつけない。

Sの勤務地は2年ごとに変わるため、結婚してしばらくあとに転居があった。誰も知人のいない場所に住むのは孤独だと訴え、私の念願だった犬を飼うことになった。Sも犬を可愛がり、休日は2人で散歩をした。淡々とした穏やかな日常が続くと思っていた。


ことの始まりはよくある話だ。時間を持て余した妻が別の男性と出会うという陳腐なメロドラマ。犬の散歩がきっかけだった。

優しい言葉をかけてくれ、笑わせてくれる人だった。

お互い犬を連れて午前中と夕方、毎日のように公園で待ち合わせをした。温かな目をしたその人と過ごす時間が私の心の中を占めていった。

Sには友達ができたとは伝えたし、それが男性だとも付け加えたが、反応は大したものではなかった。もともと私のやることにあまり興味を示さない。私が話をすれば聞くが、相槌を打つのも億劫なのかもしれない。世の中に、妻とは食事や身の回りの世話をする人間だと思う夫は多いだろうし、彼もその1人だとしても文句は言えない。


ある日何の音沙汰もなく、温かな目をしたあの男友達が姿を見せなくなった。メールをしても返事がない。そんなことは初めてだったので、心配になって家の方まで行ってみることにした。両親と一緒に住んで事業をしていると聞いていた。聞き覚えのある犬の鳴き声がして、ちょうど中から老婦人が出てくる。目元が似ているので母親に違いないと思い声をかけた。

とても慌てた声で、息子はいま検察庁にいる、よくわからないが連れて行かれたまま帰らない、何か容疑をかけられたのだろうか、と話してくれた。

Sの務める検察だ。

男友達へ電話をかけつづけ、メールをした。何があったの?心配だから返事して。

何日かして、返信があった。俺は大丈夫。もう連絡しないで。さよなら


ある考えが、ずっと胸につかえていて苦しいまま、これ以上過ごせなかった。Sに切り出した。◯◯さんを知っている?あなたのいる検察に拘束されていたのは本当?

「僕が担当しました」

恐れていた通りだった。偶然容疑者リストに名前が上がり、よりによってSが捜査をしたというのだ。なんということはない傷害容疑だが、取調べをして何日か拘束した。容疑が不十分だったので釈放した。…私の友達だって知っていた?ーーーはい。

「あなたのことをいろいろ聞きました」

不思議なことに、私の知っているSとは違う人間がそこにいるような気がした。彼の声が明らかに怒気を含んでいることに気づいた。耳慣れないその響きにとっさに怯えを感じるが、一瞬のことだった。私の心臓の鼓動が早くなり、見慣れない感情が首をもたげる。

「何度も彼に電話をかけていましたね」見たの?

「はい」

「自分はこの女性の夫だと言いました」

目を逸らして、力のない声でSは続けた。

「あなたは僕の妻でしょう。どうして…」どうして、何なんですか?

最後まで言わせたかった。どうして、他の男性と手を握ったり、キスをしたり、ホテルに行ったりするんですか、と言ってほしかった。

一度彼の担当する公判を傍聴したことがある。結婚するずっと前のことだ。流暢に言葉を操り、見事に弁護側の論点を覆す弁論に誰もが息をのんでいた。あの時の輝やかしい姿の検事のように、強い言葉で責めてくれたらいいのに。目の前で所在なげに立つ気の毒な男性は、言葉もなく私を見ている。


正直に全てを話すのが最良の策ではないときもある。しかし嘘のないSに、嘘で答えるわけにはいかない。傷つく顔は見たくなかったのに、守りたいと思ったのに。守れなくてごめんなさい。裏切られてどんな目で私を見るだろう。その目を見る勇気がなかった。

「離婚してください」

「離婚は、しません」

どんな罰がくだされるのか、待つしかなかった。


その日から私たちの関係は変化した。私とSの間にあった薄い膜は氷のように張りつめ、触ると棘のように刺した。構わず私は手を伸ばす。声をあげ、今まで言ったことのない言葉を投げ続けた。言ってはいけない言葉を。Sの中で眠る感情を呼び起こしたかった。それが怒りでも悲しみでもなんでもよかった。

Sは逃げずに受け止めようとしてくれた。ただ、目は私の方を見ているが、まったく表情は読み取れない。唇をかみ何かに耐えている。私は彼の中にある静かな湖に次々と石を投げて波だてる。そんな日が続いた。


「あなたには私を幸せにできない。頭がいいのにどうしてまだわからないの?心がないから?」

2人とも何もかもに疲れきっていた。

その日、いつものように俯いたまま聞いていたSは、おもむろに向かい合うと不意に私の顔を両手で挟んで唇を押し当ててきた。そのまま強い力で押され、壁に私の後頭部がぶつかって鈍い音がした。Sはぶるぶる震えている。くちづけをやめないまま押さえつけてくる両手から、悲しみが私に流れ込んできた。

「やめて」嘘だ。やめないで。彼の目を正面から見ると、真っ黒な湖が広がっていた。彼は顔を離すと声にならない声で言った。

「もう黙ってください」

彼の湿った頬に触れると、Sは弾かれたように顔を背けた。力任せに私を後ろ向きにして壁に押し当てた。髪の毛を掴まれ強くひっぱられる。悲鳴がもれる。いつものようにうなじから背中にキスをされ愛撫が始まるが、いつもの優しさとは違う激しさで、彼は私に痛みを与える。私はそれに耐える。肌が色づき脈うちはじめる。けれども私の体の芯は、悲しみのため冷えている。今そこに触れてくれるだろうか。そうしたら、あなたにもわかるだろう。

冷たいところには何もない。空っぽで、心がないのは私の方なのだと。




おわり
























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