執事 ファン・シモクのクリスマス
「てっぺんまで全部写してよ?
あのきれいな天窓も入れてね!」
高級ホテルのロビー。
吹き抜けになった広い空間には巨大なクリスマスツリーと、その横でポーズをとる女性がいる。
大声で指示する彼女を、スーツ姿の男性が携帯電話のカメラで撮ろうとしている。
両膝を床につき、這いつくばらんばかりになってベストショットをフレームに収めようとする姿に、通行人たちは気の毒そうな一瞥をくれる。
撮り終わった男性は女性の方に近づくと、しゃがんで携帯を上にをかざしながら言った。
「お嬢様と天窓は、同時にはうまくうつりません」
遠近感が、とか発色が、と、どうこう言う男性から携帯を受け取ると、女性は満足げにうなずいて歩き出した。
男性はそのあとを追う。
電話が鳴る。通話を終えると女性は独りごちた。
「今から捜査会議だって…明日じゃなかった?まいったなあ」
男性が、たくさん抱えたショッピングバッグの荷物の中から、ブリーフケースを手際よく取り出し女性に差し出した。
「報告書は完成してあります」
女性が目を丸くして問いかけようとすると男性が返した。
「前回より短くまとめておきました。お嬢様の報告として不自然でないように」
女性はありがたくも呆れて、複雑な表情を浮かべて言った。
「お嬢様はやめて」
「はい、ハン・ヨジン警部」
ファン・シモクがヨジンの屋敷の執事として採用されたのは、彼女が学生のころだった。
口数が少なくぶっきらぼうだが、媚びない態度とそつのない仕事ぶりが、ハン家に評価された。また法務や経営への才覚も示し、今ではファミリービジネスの仕事も任されるようになっているが、もともとの担当はヨジンの世話係である。
ヨジンはもう自分のことは自分でできる年齢だったし、家を空けることも多かった。シモクの仕事は今日のような荷物持ちや、都合よく迎えに来てくれる運転手などの雑務が主だったが、ヨジンが警察官になってからは、そのサポートもたびたびしてくれるようになった。
特に警部に昇進して以来、書類仕事が増え、本人の希望である現場捜査との両立が難しくなってきたため、ヨジンは正直助かっていた。どうしても仕方がない時だけ頼っているつもりだったが、いざ仕事をさせてみるとシモクは優秀で、自分が馬鹿みたいに思える時もあった。
「ファン執事はそんなに優秀なのに、どうして執事なんてしているの?」
そう聞くといつもポーカーフェイスではぐらかされた。
街は華やかなクリスマスのデコレーションに包まれている。
「もうクリスマスイブかあ。明日だっけ?」
「はい」
「今年も忙しい年末がくるよ。悪い奴もクリスマスくらいお休みしたらいいのに」
「明日はお休みをいただきます」
「そうなの、珍しいね。
誰かと過ごすとか?もしかしてクリスマス合コン?いいなあ!」
「合コン…行きたいですか?」
「行きたいよ。素敵な男子たちにちやほやされたいよ、私だって。署の男どもには怖がられてばかりだし…」
「はい」
シモクの機械的な相槌は今日も安定している。妙な安心感をいつもヨジンはおぼえる。
イブ当日は金曜日だった。シモクは朝早くから外出し、ヨジンが出勤するころにはもういなかった。
その日は捜査対象だった大掛かりな詐欺グループに動きがあり、急いで検挙することになった。複数ヵ所のアジトに突入したが主犯が逃亡し、ヨジンが指揮する捜査班にとっては痛恨の結果に終わった。
ヨジンは肩を落とす刑事たちを叱咤するが、一日中走り回り、小物の詐欺犯たちをしょっぴくのに皆が疲れ果てた。主犯がいないのでは全てが徒労に終わったようなものだった。
悔しさで涙が出そうだった。あともう少し早く踏み込むべきだった。
深夜を回るころ、部下たちを帰すためにもヨジンは帰宅することにした。
携帯のメールが鳴る。
ファン執事(迎えにきました)
ヨジンが車の後部座席に身を投げ出すと、運転席のシモクからボトルに入った暖かいミルクティーが差し出された。
蜂蜜が入っていてほんのり甘い。
黙りこくったヨジンを見てシモクが言った。
「今日はあまりうまくいかなかったみたいですね」
ヨジンは行儀悪く運転席の方に足を投げ出すと、ため息をつきながら手で顔を覆った。
「私の判断が遅くて全部失敗した。みんなに謝りたい。私のせいだって」
「誰にも失敗はあります」
精一杯の慰めの言葉と共に、クッションが手渡された。
いつも落ち込んだ時にやるようにクッションをバンバンと叩いて大声で叫んだ。
「くそー!犯人のやつ!絶対捕まえてやる!うわあああ!」
バックミラーからのぞくシモクの目が細くなった。
ヨジンもわかっている。部下の前では弱音を吐いてはいけないことくらい。
散々悪態をつくと、どっと疲労を感じた。あくびをする声を聞いて、シモクが振り返った。
「お疲れのところ申し訳ありません、お屋敷に帰る前に、お連れするところがあります」
ヨジンの手からミルクティーをさっと奪うと、かわりに蓋を開けたエナジードリンクを手渡された。「は?」
繁華街から少し外れた路地に、静かに車は停まった。
20メートルほど先にあったのは寂れた中華料理屋だった。誰も人影はないが看板は照明に照らされ、営業しているように見える。
運転席からシモクが振りかえった。
「実は今日お嬢様のためにクリスマス合コンの用意をしていたのですが
こんな時間なのでみんな帰しました。もちろんあの店ではありません」
「あなたが言うと、本当か冗談かわからないよ」
シモクは真顔で続け、店を指さした
「報告書にあった容疑者の、妹の名義になっている店です。戸籍では妹はいませんが、容疑者の持っている店のホステスの1人です」
そう言って身辺調査書の束を差し出した。
ホステスの顔写真があった。決め手となる証拠がなくマークから外した人物だった。
「お嬢様の追っている容疑者はあの店の内部にいます。しばらく身を隠すつもりではないかと」
シモクの携帯電話で動画が再生されると、ヨジンが今日取り逃した人物が店に入る様子が映っていた。
「これ、どうして」
「報告書の内容を再度調査した結果です」
「いることは確実なの?」
「…盗聴器をしかけています。これは内緒にしてください」
仰々しい受信機が助手席の下にあるのが見えた。
「ずっと聞いていますが、動いていません」シモクは耳にしているイヤホンをヨジンに見せ、店を指さした。「恐らく灯りのついている2階のあの部屋です」
どうしてここまで、と思いながらヨジンは緊急配備をするべく刑事たちに電話をかけた。
大捕物の末、詐欺事件の主犯を無事確保し、ヨジンとシモクは今度こそ帰宅の途についた。もう明け方である。帰ってもすぐにまた出勤しないと…と言いながらヨジンは暖かい車の中で眠ってしまった。
シモクは常備してある毛布をヨジンの体にかけ、注意深く頭を持ち上げると枕を敷いた。そっと髪に触り、小さくつぶやいた。
「おやすみなさい。警部さん」
クリスマスの日は晴天だった。
早朝の日差しにヨジンは車内で目を覚ました。車はよく知った場所に停車してあるようだった。行きつけのサウナの近く。徹夜コースの日はいつもここだ。
シモクが歩道の端でコーヒーを啜っているのが見えた。車から降りて近づくと、ヨジンの分のコーヒーを手渡された。
徐々に目を覚ました街は、きらびやかなイルミネーションは消えて、休日らしいゆったりした雰囲気に包まれていた。
「捜査を手伝ってくれてありがとう。ファン執事
もしかして昨日は、朝からずっと張り込んでいたとか?私に言ってよ…」
「ずっとではないです。用のついででした」
「ついでで盗聴器しかける?」
「次は、…次がもしあったら、そのときはちゃんと先に言ってね。
あなたケンカ弱いでしょう?もし見つかったら、あっという間にやられちゃうよ」
「はい」
「さーて、サウナに寄ってまた働くかな!行こう!」
車のドアを開けるシモクが、珍しくまごまごと何か迷っているようなそぶりをみせた。「どうしたの?」
シモクは消えいりそうな声で、メリークリスマスと言って小さい包みを差し出した。
ヨジンは驚いて声をあげた。
執事には冬のボーナスが支給されるので、今まで個人的にプレゼントを贈り合う習慣はなかった。はじめてのクリスマスプレゼントだ。
「なんだろう。開けるね」
「朝早く並んで…お嬢様の欲しがっていた限定版のフィギュアを」「うそ!?」
「買えませんでした。目の前で売り切れました」
ヨジンは苦笑した。
プレゼントは、たくさんの種類の色が揃った色鉛筆のセットだった。
飾り気のない文房具が懐かしく暖かく、笑みがこぼれた。
「ありがとう」
「はい」
「最近描いてないからなあ…描いてほしい?」
「あ、僕は結構です」
最後の言葉を聞き流し、ヨジンはポケットから手帳を取り出して開き、あるページにサインと日付を書いてちぎった。
「これは私から。メリークリスマス。
面と向かって言うと恥ずかしいね」
「これは…」
描かれていたのは運転席で眠るシモクの横顔だった。昨夜いつのまにか描いていたのだ。
余白に文字で『お疲れ××サンタさん』
と書かれていた。
車内で眠りについたヨジンだったが、神経が昂っているようで、30分ほど経つといきなり目が開いた。毛布をかけられ枕もセットされていた。
シモクは運転席のシートを倒して眠っている。
ヨジンは眠るシモクを眺めながら、なぜ彼が自分のためにここまで尽くしてくれるのかと考えた。
それが仕事だからよね。
私にも仕事があるみたいに。
でも、それだけ?
身を乗り出し、眠る横顔をじっと見た。無意識に紙とペンを探していた。
気持ちがうまく言葉にできない時や、吐き出せない時は昔からよく絵を描いていたことを思い出した。
シモクの形のいい鼻や長いまつ毛を観察しながらゆっくり描いていった。空が白み始めていた。
絵を受け取ったシモクは、しばらく眺めたあと軽く頭を下げて、口の端を軽く上げた。
もっとちゃんと笑ったら、きれいなのに。とヨジンは思ったが、口には出さなかった。
「本当は渡すつもりなかったのに。こんなプレゼントくれるから…
もう、久しぶりに描いたら下手だなあ」
と冗談めかして、会話を終わらせた。
本当は渡すつもりがなかったのは、絵に込めたものがあったからだった。
自分だけの秘密にしたい感情だった。
その反面、相手に伝えてしまいたい気持ちもあった。絵を持っていて欲しいと思った。
絵のタイトルは、『私のサンタさん』だった。サインと日付を書く時に、塗りつぶして書き換えた。
いつまでも私だけのサンタクロースでいてほしい。このままずっと、そばにいてくれたらいい。
そんな子供のような願い事を抱いてもいいだろう。クリスマスくらいは。
笑顔を見せ、敬礼した。
「では、行ってきます!」
生真面目な顔でうなずいてくれる、私の執事。
「いってらっしゃいませ。お気をつけて」
おわり