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2人の雪の夜

「研修行くんですね!検事さんも」
はい、という電話越しの返事に、思わずヨジンは微笑んだ。

協議会の仕事の一環で、地方の警察や検察を視察するのだ。
都会から離れたところで知り合いと仕事する、それだけのことが、特別なイベントに思えた。そんなことが楽しみになるほど、ヨジンの毎日は忙しかった。

好きな仕事だが、業務量が多いうえに休みが少なく、安らぐ暇がなかった。気の合う同僚もおらず、ずっと気を張っているために消耗した。息抜きといえば、たまに以前の職場の刑事たちと飲みに行くのが関の山だった。

つい先日の、彼らとの会話を思い出した。

「ハン警監。なんだか顔色が悪いですね」

「運動不足なんだよ。現場に来て走らないと。
見ろ俺なんて現場にいるから、いつまでもピンピンとして、若々しい…」

ヨジンに睨まれて、チーム長は言葉を濁した。

自分でもわかっていた。ストレスにだいぶやられている。喉がつまるような感覚がたまにあるし、心身ともに疲れはとれないし、生理も乱れている。
ゆっくり休みたい。それか、心がウキウキするような予定でもあったらいいのに。誰かとデートするとか。

研修にファンシモクも参加するとわかったのはそんな矢先だった。仕事といっても、少しくらい楽しみにしたってばちは当たらないはずだ。

当日、ソウルを離れて山岳地帯に近づくにつれ、雪が降り出した。
雪は好きだけど、こんなに降らなくてもね、という会話くらいしかシモクとはできなかった。
研修は結局、上司たちに付き従って雑用をして終わった。しかも仕事を押し付けられ、1人だけ居残る羽目になった。資料を集めてコピーしたりしているうちに解散になり、ファンシモクに挨拶をする暇もなかった。

ついてない。良くないことばかり起きる気がした。
やっと作業が終わったのは、夜も遅くなった頃だった。家に着くのは深夜になりそうだ。そんな雪の中を急いで運転しているヨジンの目に、案内板の文字が飛び込んできた。

【高速道路 事故で通行止め】

「嘘でしょ」
仕方なく、慣れない山道に入るしかない。嫌な予感が的中した。上り坂の途中で車が急にエンストし、動かなくなったのだ。
次から次へと降ってくる雪に、あっという間に車が埋もれそうだ。閉じ込められる恐怖にパニックになった。

ヨジンからの電話を受けたシモクは、渋滞に巻き込まれている最中だった。

「検事さん、もうソウルですか?」

切羽詰まった声だ。話を聞いて、ナビゲーションを操作すると、自分の場所から案外と近くだった。

「すぐ行きます」

無理やり車をUターンさせて向かう。

通り過ぎる車はいるが、街灯もほとんどなくさみしい山道だ。除雪車もあまり来ないのか車道には雪が積もっており、さらに深くなるように見えた。
降り続く雪に今にも飲み込まれそうな車が一台あるのを見つけ、シモクは寒さに震えるヨジンを救出した。
重要な書類とバッグだけ持って、車は置いておくことにした。
突然の大雪に街は大混乱で、あちこちで事故が起きていた。修理を呼ぶにもいつになるかわからなかった。
シモクの車で山道を行くことにしたが、ますます深くなっていく雪に、2人とも不安が募った。車のナビゲーションに従って進んだ道は思ったより細く、この先進めなくなる危険があった。
シモクが、戻りましょう、と言ったところでガクンと衝撃があった。雪で隠れた側溝で脱輪してしまったのだ。顔を見合わせた。
遭難という文字が2人の頭に浮かんだ。


雪にまみれながら2人がたどり着いたのは、山の中の寂れたモーテルだった。その割に客の車が並んでいるのは、足止めされたスキー客が宿を求めにきたのだと思われた。
フロントのおばさんによると、残りあと一部屋しかないと言う。しかも暖房の効きが悪いらしい。

「お安くしときます。ご夫婦なら、お互い温め合えば問題ないわよね!」


2人は赤くなってお互いの顔を見られない。

「ハン警監は泊まってください」

「えっ、でも検事さんはどうするんですか」

「歩いて、バス停まで行きます」

「バスなんかあるわけないじゃないですか。凍え死んじゃいますよ。とりあえず入りましょう」

自分が強く言えばシモクは断らないことをヨジンは知っていた。 

大したことないですよ、同じ部屋に泊まるだけでしょう?安くしてくれるなんて良心的じゃないですか。ヨジンが照れ隠しにペラペラと喋るのを、シモクは黙って眺めてから言った。

「警監がそれでよければ」

2人はチェックインした。


恐る恐るドアを開けると、部屋はびっくりするほど小さく、ほとんどベッドで占められている。
申し訳程度のソファセットに荷物を下ろした。
狭いシャワールーム、テレビと湯沸かしポット。ベッドサイドにはコンドームとジェル。ヨジンは見なかったことにして引き出しを閉めた。

「狭いね」

そう言うと、シモクはなんとも言えない顔で頷いた。

ヨジンはベッドに、シモクはソファに座り、フロントで買ったカップラーメンを向かい合って食べた。
ようやく、今日の研修のことや近況のことを話すが、少し間が空くと沈黙になった。
かわるがわる頻繁に窓を見に行くが、雪は相変わらず降り続いている。

フロントのおばさんが言ったとおり、暖房は効きが悪かった。2人とも毛布をかぶった。

「私たち、夫婦に思われましたね」

「すみません」

「なんで謝るんですか」

「帰れるのは明日になりそうですね」
誰が見ても明らかだ。

「警監は、誰か、帰らなくて心配するような人はいないですか」

「いませんよ。気にする人なんて。さみしいもんです」

「そうですか」

答えはわかっていたが、礼儀で検事さんは?と聞いた。シモクは首を横にふった。
質問の意味を返せば、もしここで何かがあっても、何も後ろめたいことはないということだ。
検事さんはそんな意味で聞いたのかな、とぼんやりと考えた。

男女がホテルですることといえば。
ヨジンは前にいつしたか思い出そうとする。が、思い出せない。それほどご無沙汰だった。
シモクはそもそも経験はあるのだろうか?
モテるとは思うけど、仕事しかしていない印象だし、女っ気があるところを想像できなかった。
そもそも、いい大人だからって経験していないと変というのは偏見だ。
人として尊敬できれば、それでいいじゃない?
共助捜査をしている時の、何も言わなくてもお互いの考えが伝わる感じを思い出した。
あんな風にできる人は、ほかにいない。
変に関係がこじれてしまうほうが困ると思った。
そんなこと心配しているのは私だけかもしれないし、そもそも女として見られているとは限らない。自惚れは禁物だ。

ヨジンが考えを巡らせている一方で、シモクは手持ち無沙汰に、くるくる変わるヨジンの表情をただ眺めていた。
普段一緒に食事する時と変わらないような態度でいたが、ヨジンが

「シャワーでも浴びて、もう寝ましょうか」

と言ったのを聞いてようやく、異常な状況であることに思い至った。

何でもないふうを懸命に装って、ヨジンはそう言ったが、順番にシャワーを浴びた後のお互いのバスローブ姿はかなり恥ずかしく、直視できなかった。
ヨジンは、指の隙間から見たシモクの裸の胸から目が離せないし、シモクはヨジンの濡れた髪を見てぼうっとなってしまった。普段は隠されている細い足首や、化粧を落としたあどけない顔が、自分の知らない人のようでどぎまぎした。

変な感じがする。
明らかにホテルに来た恋人同士の行動をしている。ヨジンはこのまま自然に、2人でベッドに入ってしまいそうだと思った。

気まずさに耐えられず、ヨジンはテレビの音を少し大きくした。
テレビではメロドラマが流れ、恋人同士と思われる男女が、お互いと知らずにすれ違っているところだった。

シモクは平べったいクッションを抱いて、ソファでテレビを見ている。

「検事さん、どこで寝ますか」

「僕はソファで」

フロントで借りた毛布を広げている。

「ソファ小さいですよ。私がそっちで寝てもいいですよ」

「大丈夫です。警監がベッドを使ってください」

ヨジンはベッドに寝転んでみた。それほど大きくはないが、ダブルサイズはありそうだ。

「毛布が薄そう。寒いですよ。一緒にこっちで寝ます?」

なぜそんなことを言ったのか、自分でもよくわからなかった。どんな反応をするか見たかったのだろうか。

シモクは目を見開いてヨジンをまじまじと見た。
言葉を探しているように目が揺れたが、何も言わない。
怒ったかな、と思ったヨジンは

「冗談ですよ」
と続けるが、あまり明るい声は出なかった。

「風邪ひかないでくださいね」

返事がない。

「怒りました?」

「いいえ」

「さっきから何か言いたそうですね。なんですか?」

「なんでもないです」

「言ってください」

「ただ、今日の警監の様子がいつもと違うから、気になったんです」
意外な言葉だった。ヨジンは続きを促した。

「ため息が多かったですね。
近況を聞いてもなぜかわからなかったから、どこか具合でも悪いのかと思ったんです」

「どこも悪くないです」

「前はもっと」

言葉が止まった。

「なんですか」

「笑顔だったから」

「私は仕事中は笑わないですよ」

「そうですね。ただ、そうじゃなかった頃を知ってるから。すみません」

言われたくない相手に、触れてほしくないところを突かれた気がした。妙にひっかかる言い方で。茶化す元気はもう残っていない。


「昔の方が良かったって言いたいんですか。
だからって、ずっと同じではいられないですよ。
検事さんこそ、今日は変ですよ。そんなこと言う人でしたっけ?
変わらない人なんていないのに」

そう言いながら涙が出たのを、シモクに見られてしまった。 

ヨジンは背を向けると、おやすみなさい、と言って横になった。

目を瞑ると、そこはかとないわびしさが残った。1人でいるわけではないのに、とても寂しい。
会話を終わらせてしまったことを悔いた。どうせなら、寝ないで朝まで話し続ければ良かった。

それが叶わないなら、隣に来て、今すぐ自分に触ってくれないだろうか。
そう思いながら、涙を噛み殺した。

次の瞬間、静かな足音がした。気配が近づいてくる。ヨジンの心臓が高鳴った。
シモクが、自分を見下ろすように立っているのがわかった。
耳元で囁き声がした。

「警監さん。泣いてるんですか」

頭にシモクの手が置かれた。慰めてくれているのだろうか。
呼吸が聞こえる。かなり近くに顔があるようだ。
キスされるかもしれない、という予感に胸が痛くなった。ときめくのを通り越して苦しかった。

シモクはベッドに膝をついて、無防備に目を瞑るヨジンの顔を見ていた。
キスの代わりに、指で頬の涙を拭った。
本当はキスしたかった。だが衝動のままに行動することはできなかった。これが自分だから、どうしようもないのだ。
ヨジンの布団を肩まで引き上げ掛け直すと、聞こえない声で、おやすみなさい、と言った。


夜明け前に雪はやみ、翌朝は日差しが出ていた。車の修理サービスは少し待てば来てくれそうだった。2人はヨジンの車の前で待つことにした。

ヨジンの寝不足の目に、明るく輝いた雪が眩しかった。いつシモクがベッドの中に入ってくるかと一晩中まんじりとも出来なかった。
泣いている女に手を出すような人ではないと、本当はわかっていた。自分がどうかしていた。晴れた朝の空を見て、昨夜の自分が馬鹿みたいで可笑しくなった。

シモクを見ると、向こうも同じように赤い目をしていた。
お互い睡眠不足の頭でぼんやりとしていたが、シモクが口を開いた。

「警監の言うとおりです。
変わるのが普通です。誰でも、生きていたら」

「そうです。成長っていうんですよ」

いつか花を咲かせる木みたいに、自分も重い雪の下でじっと耐えているだけだ。今はそんな季節なのだとヨジンは思った。

「僕たちのことも」

「え?」

シモクは口をぎゅっと閉じてから、意を決したように言った

「次のお休みはいつですか」

「はい?私の?」

「どこかへ行きましょう。一緒に」

びっくりして笑いがこぼれた。

「それって、デート?」

黙ってうなずくシモクの表情が、照れているようで可愛らしい。
嬉しさと恥ずかしさを隠すように、ひとしきり笑った。
シモクがじっと返事を待っているのに気づいて、いいですよ、デートしましょう、と言った。
昨夜はずっとこのことを考えていたのか
な、と思った。シモクの考えがわかる気もした。とにかく真面目な人だ。
関係を変化させたいと思ってくれたことが嬉しかった。
孤独でいることをやめたい、ということだから。

ヨジンがケラケラ笑うので、シモクはデートの申し出を少し後悔した。
やっぱりいいです、と口から出そうになるのを堪えた。
すでに踏み出してしまった。
この先、自分のよく知らない感情に出会うだろうと思った。それは苦しいものなのか、美しくて甘いのか、まだわからない。

楽しそうなヨジンが話しかける。
シモクは、笑っているヨジンがいいな、と思った。自分の分まで笑ってくれるような気がするから。


「聞いてますか?どこに行きましょうね」

「警監はどこがいいですか」

「うーん、そうですね」

ぷっと吹き出して、さらに笑って言った。

「山はやめましょうね」




おわり

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