
思想の話をしよう
「思想が強いね」
と言われた。
この言葉への返答は、慎重にならなくてはならない。
「そうだね。私は思想が強いと思う。」
ここまでは言う。
「でも、そういうあなたも同じくらい、思想が強いと思うよ。
自覚していないだろうけど。」
これは、言わない。
だってそうでしょう。「思想が強い」という言葉は、この社会においては否定的な意味を持つのだから。
この社会では、「思想が強い」人は危ない人だと言われている。
対して安全とされる人―一般人で常識人だとされる人は、フェミニストでもベジタリアン・ヴィーガンでもセクシストでもレイシストでもなく、社会運動にかかわりのない、政治的・宗教的な発言をしない、右でも左でもない、「中立な人」だ。
その意味での「中立」とは、なんだろうか。
それは、ある思想を表明する人を、「思想が強い」と非難し嘲笑することで達成されるのだろうか。
それは、現在の社会への違和感を真っ白に塗りつぶし、自分と異なる他者の存在を忘れて生きることで達成されるだろうか。
わからない。
少なくとも私にとって、それは「中立」ではない。
思想のない人間はいない。
だれしも、思想を持っている。
思想は「人や社会、そして世界をどのように認識し、どのように行動するか」である。
自分の思想を自覚せざるを得ないか否かの境界線が、「思想が強い」と言われるか否かの境界線なのだ。
私が「思想が強い」のは、今の世界が、社会が、人の在り方が、私の心にぬぐい切れない何か黒いものを残してしまうからに他ならない。マジョリティとの認識の差が、私に「思想が強い」と自覚させるのだ。
無自覚に内面化され、自覚されない思想を、私は「無色透明な思想」と呼ぶ。その反対は、「有色混濁な思想」である。
気を付けてほしいのは、これは先の「中立」ーつまり、右でも左でもないーかどうかという話とは少し違う。自分の思想を自覚しているかどうか、という話である。いわゆる右派や左派でも、自分の思想が無色透明化している人はいる。ずっとその思想の人々としか関わっておらず、それが「常識」化してしまった、というのがそのよい例だろう。
私は、あらゆる人が自分の思想の色を理解するべきだと思う。
そうでないと、無思考・無批判に自分の思想を他者に押し付けてしまう。「そういうものだよ」という、謎の上から目線で。まるで、自分が真理を知っているかのように。
違うよ、まだ真理は見つかっていないし、おそらくこれからもずっと、見つかることはないよ。ただ、我々は今よりちょっといい方向を模索し続けるしかないんだよ。そのためには、今の私たち自身や社会、世界の在り方を自覚しなくちゃあ、いけないんだよ。自分の思想と他者の思想をすり合わせていって、改善していかなくちゃあ、いけないんだよ。形式主義になってはいけない、常に思想の中身を見つめていなてはならない。「理由はわからないけれど、これを盲目に信じていれば、少なくとも自分は幸せになれるだろう」という、根拠も論理も責任感もないタチの悪いカルトの信者には、なってはいけないよ。そのカルトの教えは、少なくともあなたが自身や社会、世界の在り方に対して強い違和感を持ってしまったときに、何も助けてはくれないよ。本当だよ。
「自分と思想が違うので、あなたは馬鹿です」
というような発言がまかり通る社会であってほしくないんだよ。
つまるところ、自分も馬鹿だしあなたも馬鹿なんだよ。完璧な奴なんていない。でも、みんなちょっとずつ、いいところを持っているんだよ。だから、それを拾い集めていかなくちゃあ、いけないんだよ。
思想ですったもんだする気力を、少しでいいから、相手を理解しようとする方に向けられやしないか。
おそらくそれで、社会とか世界とか大きいことは言えないけれども、自分だけは、ちょっとだけましな人間になれるんじゃないかな。
と、いう思想。