膨らんでいく「私」
「私の役割を果たすことに疲れた」
物心ついた時から、私はそんな思いを抱えるようになっていた。自分ではただ普通に行動しているだけなのに、誰よりも先に関心のあることに飛びついていく姿が、まるで先陣を切ってリーダーシップを発揮しているように映っていたのだろう。小学校の頃から、キャプテンやら児童会長やら、そんなものを任されたり、立候補を促されたりすることが多かった。
もちろん、こうした役割を与えてもらえるということは、信頼の証でもあるわけで、それはそれで私は誇らしかった。私は役割をこなすことで、存在意義を立派に果たしている。だからここにいても許される。そんな風に感じていた。役割を与えられるということは、私にとっては「居場所をもらう」ことだったのかもしれない。
どこにもない、「私の居場所」
私は幼いころから、居場所がないと感じていた。虐待を受けていたわけではない。友達がいなかったわけでもない。
でも、私は関心がいつも周りとズレていて、宙を浮いているような気分だった。そして、自分の居場所がないように感じていた。周りは私のことを「特別だよね」と言ったりするが、私にとっては普通に生きているだけだった。
小学校6年生の時、人前で歌う機会があった。その時に選んだ曲で、自分の想いを歌に重ねた。
「居場所がなかった 見つからなかった
未来には期待できるのか わからずに」
私は12歳で、未来に対する希望を失っていた。
今の自分の役割をこなし、期待に応え、与えられた「私」という役割を演じ切ることに終始していたのかもしれない。そこに、希望や目標、自分の意思はなかった。
いつのまにか、とんでもなく膨れ上がった「私」という役割から逃げたい
膨れ上がった「私」という存在、そのプレッシャーから逃げようともがいたら、性に依存する裏道を見つけた。それが影の「性依存症の私」となった。
「私」を知らない、何のしがらみもない、ネットの世界のどこかにいる誰かに、本当は逃げてしまいたいと弱音を吐き、その場しのぎの甘い言葉をかけてもらうことに溺れていった。
今の私は、まだ「私」から逃げたいと感じているのだろうか。
他人の期待や軽蔑で膨らんだり、しぼんだりする「私」。
そもそも他人によって「私」の形を変えられてしまうことを、手放してしまえば、私はもう逃げる必要がなくなるのではないだろうか。
私は、この「私」という皮を脱ぎ捨てられるのだろうか。