見出し画像

一命

発達障害を持っている子と健常児の間では人間関係のトラブルは起きやすい。発達障害に起因する困り感に対して、相手側は意識的かは分からないにしろ、発達障害の困り感につけこんだ「人権の侵害」や「様々な搾取」などの犯罪の構成要件を満たしているような事柄を相手側が起こすことがある。
今とても感じていることとして、「加害者サイドは被害者を重箱の隅をつつくように、その犯罪行為は被害者がマッチポンプ的に作り上げたものであると犯罪行為をした本人たちやその子どもたちを囲う大人たちが、
こちらが何も言えなくなるまで、人のアイデンティティのコアの部分を壊しにかかるこの態様は私が12年前に受けた犯罪被害と全く同じ様相を呈している。普通に考えてほしい「泥棒や詐欺で金銭を詐取した人間と詐取された
人間のどちらが悪いのか」と。一般教養と規範意識が身についている人間であれば、どういった経緯であれ詐取する人間が悪いことは当然、認識できるのである。幼稚園児でもわかる話で、先生から「人のものをとってはいけないよ」と言われたことやその様を見た子は「いけないことだ」と学習し、恒久的に「人のものを取ることはいけない」と人生に付き従うのだ。
民法上、成人した特定少年にまで、
「人のものを取ることはいけない」や
「人の命を否定することは許されない」、
「容姿などの批判はしてはならない」と
幼稚園児を諭すように懇懇と言わなければ理解ができないのかと思う。

そして、その犯罪行為をなかったかのように、また「発達障害を持っている方が悪い」というロジックを仕立てて、
反論をしないであろう、気の弱そうな人間に対して
「お母さんが、発達障害児として生んだのだからその被害はあなたの責任」
「お母さんの育て方が間違っていたから、断る勇気もなにもない子になっているのに、前途ある若者の未来の芽を摘んで、警察沙汰や係争紛争にしようとするのは、お母さんご自身が作り上げた罪をスライドさせて自身が悪くないようにしたいから物事を大きくして、責任から逃げているとしか考えられない」や
子どもに対して「あなたの性格は世間には受け入れられるものではない」
「あなたがいなくなったって、誰も気づかない」などの本人の属性や人権を蹂躙する行為やガスライティングをためらいもなくする。

どう考えても、断るなどのコミュニケーションスキルが低い子どもに対して「●●万持ってこないなら死ねよ、殺す」などと言う暴言を吐く。

物事を額面通りにとってしまう困り感がある子どもの立場から見た時、
「お金を持っていかなければ殺される」
と臨場感の伴う恐怖を感じるのは想像に難くない。

そして、その加害者である子どもたちを何が何でも逆に
「発達障害を持った生徒が金銭を渡したことで起きた事案であって、
そもそも、本人が頑なな意志でNOの姿勢を取っていればこうは
ならなかった被害者とも言える」という姿勢をその組織から強く感じるケースがある。

12年前の犯罪被害でも加害者サイドの本人や被告弁護人、情状証人が
私の落ち度(イヤフォンをしながら歩いていたことなど)に対して
詰めてくるその形態と同じような事が結局どのような犯罪行為においても
起きてしまうのだなと考えている。

まず、発達障害や容姿などの本人の責任や努力でどうにかなることがない問題(発達障害の場合は年齢が上がり自己受容をしてソーシャルスキルトレーニングで若干、改善される点もあるが)に対して、いくら責める言葉を言ってみたところで、現実に扱っている問題が解決することはなく、
その言葉を投げかけられた当事者が戦う、向き合うという戦力を削ぐことが
できても、犯罪行為を働いた本人たちは何の咎も受けることなく、
未来を奪われるのは被害者だけになるケースは容易に想像できる。

これだけ、政府もがニューロダイバーシティ(発達障害がある人の持っている特性も差別することなく認める)と言うことが散々叫ばれているこの世の中で、教育に関係する人間がその概念を一切理解していないということは考えづらい部分がある点と犯罪行為をした子どもたちに対して、刑事罰や民事訴訟に対しての責任を取らせるために責めることはあったとしても、
被害に遭ってしまった人間の尊厳を傷つけるような人間が、教職と言う
人生の中でも体の成長やアイデンティティの確立がされていく大事な時期に
その子どもたちの人生を如何様にも出来るポジションにある人間が、
聖職者と呼ばれる立場に免許があるということだけで、存在し、また、
組織的にその「犯罪行為はなかったか被害者が誘発した」と言う形に持っていき、本人や保護者を責めることで根負けするのを待っていること自体が、
醜悪の極みであり、悪の権化である。
その様に、被害者に責任があるということを言い続けている、
世間が言う「聖職者」が私の目には、単なるカバートアグレッションとしか感じられない、犯罪行為が起きているのに、自身らが被害者ポジションに立つということや、許されることが決して無いような人格否定発言を
お母さんが心配だからお子さんが心配だからこちら側も言うのも辛いことを言っているのになぜ、理解してもらえないのですか」のような言葉には
「心配している」という表向きの大義名分を仮初で作り上げていて、
単純にその「心配」という言葉には「これ以上こちらを困らせるのをやめろ」と言う、「"心配"という言葉の裏にある”敵意”」しか感じられない。

私自身特に対面で話している時に、相手側から精神攻撃をされるという経験は幼少期から現在に至るまで幾度となくある。そういう人間を選んで言っているとしか思えないし、
「こちらはお母さんと違って忙しくて大変な仕事をしている中で時間を作っているのに」とそんなにその仕事が煩雑なら退職してハローワークにでも行って、
自身が適所だと思う所で初めて学校でなく「あなたの定義する、厳しい社会に出ればいい」だけの話でしかない。

私に対しての子育ての全否定に対して伝えるが、
一歳半検診で発達障害が疑われたときから、有償・無償関係なく
毎日、療育に取り組んできていたし、応用行動分析やモンテッソーリ教育などをしてきている。
それは仮に発達障害でなかったとしても、親がしっかりと自分を見てくれているというアタッチメント形成にもいい影響があるので、仮に健常児で
あってもそのように育てていたと思う。
人が様々な欲求を満たしいていくには、マズローの欲求5段階説のピラミッドの一番下層から満たされなければ、人間らしい欲求を持ち自己実現を
していくこと自体が難しいのである。


自身の努力ではどうにもならない点に対して、人格攻撃をすることは
何人も許されるものではない。犯罪行為をした人間の未来や自身の保身に対しては尽力し、被害者サイドを貶めるところに心血を注いでいる時点で
被害者サイドとしたら、人格を否定し、優生学を語っているような状態で「この人たちはレイシスト」であると思えてならない。

犯罪行為をしたら、何かしらのペナルティがあるのは当然であるし、
尊厳を奪い、蹂躙をしたならば、その尊厳にふさわしい対価を返せと
いうのはこの法治国家では当たり前の行為である。
常日頃、noteやXでポストしいているように、犯罪という行為や差別という行為はその本人が決意をして行っており、全ての責任は本人にあるものと考えている。

私自身は平等性原理主義者だと思っているから、多少の失敗をしてしまった人に対して殊更、腹も立たないが、恣意的に自身の保身のために動き、
自身のみならず、組織や犯罪行為をしたものに対して責任を取らない、取らせないようにとする人間に対して、おもんぱかるような心と言うものは一切持ち合わせていない
年齢が20歳以上であろうが、18,19歳の特定少年であろうがこの
法治国家が司法でもって裁くという法がある以上は、それに付き従うべきであるし、その若者には長い未来があるから

被害者サイドが
「あらあら、未来があるのに大変ですね。前途ある若者の未来を壊す何て
万死に値するようなことは出来ません」
なんていうわけがないのだ。

前途ある若者の未来を本当に考えた時、その犯罪行為に眼を瞑って
何の咎もないことにしたら加害者サイドが自身の行動について、内省し顧みる
ことはないわけなのだ。
そう言ったところから考えれば、その組織は悪評を買いたくないなどの
組織の私欲で被害者サイドを責めて、論点ずらしをしたところで
誰一人、勝つ人間は存在しない。

発達障害などのハンデを持つ人間に対してのオーバーキルのようなかたちや被害者サイドの両親が子に向きあって、慈しみ愛でてきた現実を否定すること自体が、笑止千万でしかない。

まず、被害者サイドがその組織に対して解決を求めたときに、
未来のある若者が云々と本当に思っているならば、
その言葉を足蹴にすることなく、取り組んでくれていさえすれば
まだ、その炎は消化できるレベルであったであろうし、
それが出来ないと「そちらで考えろ」となれば、
被害者サイドは法武装をして、徹底的に社会的に死んでもらおう
と思うのは全くもって正常な感情だろうと思う。

犯罪被害は起きた時点で、誰ひとり幸せにはならないのである。
被害者サイドは、ここまで一般常識が通じない相手に対して
対峙していくことが難しいから、身銭を切り弁護人と契約をするのだ。
弁護人と契約をして委任することは、被害者サイドの自由であり
当然の権利である上にこれ以上泥沼にならないようにという要望の
もとである。

常にnoteやxで言っているが、
人の権利を踏みにじり、尊厳を奪っていった人間が
被害者から社会的に正しい応報をされ、
社会や家族などから軽蔑の目で見られることは、
自身が不法行為をした以上、甘んじて受け入れるべきであると考えている。

人の気持ちや金銭に対して合理的配慮が出来ない人間に対し
何かを補完しながら、仲良く生きていこうというような優しさはもっていない。

普通に考えて不惑の年を越えているだろう人間が、弁護人を通してくれ
というのに応じられない時点で「聖職」ではないので、人と一切の関りすら持たない職業を探しにハローワークにでも行かれた方が良いと思う。
私は、自身や自身の大切に思う人の尊厳を傷つけて奪っていった人間に対しては、臥薪嘗胆ということばを胸に置き、肉を切らせて骨を断つという
応報はされて当然とおもっているので、その覚悟のうえで話をしてもらいたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?