生きるという痛み
これ以上、私の人生の生き方や捉え方に対して、
言葉を連ねないでほしいと思う。
人それぞれである感覚と言うものの強要的アドバイスというのは、時として聞かなければいけないこともある。
しかし、「そうする」「そうしない」と言うこの二つの選択肢の中から人生を選んで生きている。自分でもおかしいと思いながらも。
私は、好きで犯罪被害者になったわけではない。
今後の人生を犯罪被害者として生きていくというのは本意ではない。
しかし、私の人生の履歴としては深く痛く残ってしまっている。
日々の生活に於いて、「その被害によって日常生活に制限が掛かっていない」と言う人もいるだろう。それはその人の努力や生まれ持った気質、そして環境が前提であるし、被害態様も違う。
今日、生理前と言うのも重なって腰痛がMaxに痛かった。
「どうしてこんなに痛い思いをしなければいけないのか」と悔しい気持ちばかりに支配されていた。リビングで愛する主人と娘と談笑をする中でも、
私はこの人たちとは違う人生を孤独に生きていると思う瞬間があった。
その瞬間は氷付くように冷たい。
本当は、割符の如く二つで一つである「あなたたち」と同じマインドで生きていたい。その感覚は、被害前には当然にあった。
未来に対する明るい観測やビジョンがあった。
しかし、加害者の一時的な衝動と欲求によって一瞬で壊されてしまったのだ。どれだけ悔しくて、無力なのかと自分を落第者と思うこともある。
それでも、死なないで生きていくという選択をしているのは、どこかで私の考えにパラダイムシフトが起きる可能性が0%ではないという可能性があるからだ。
私自身に今かける言葉があるとしたら、
「あなたはよく戦い抜いた」
と伝えたい。
相当に恐怖と苦痛を伴う刑事公判と民事訴訟を戦い抜いて、
今でも傷む疼痛や鳴りやまない恐怖心にほんの少しの社会性を持ち合わせて生きている。それだけで十分なんじゃないか。
あなたは策士だよ。
戦略を練って血の滲む思いで肉を切らせて骨を断ったじゃないか。
加害者が自殺したことをあなたは「とんでもない十字架を背負った」と言うけれど、決断したのは加害者自身であって、全てのこの凶状態を招いたのは加害者が決意して起こした犯罪行為に起因している故に、あなたが手を下したわけでも死を願った訳でもない。何年も「許せたらどれだけ楽だろう」と色々なことを考えたじゃないか。宥恕する気持ちを持てたらどれだけ肩の荷が下りるかと。そして、もう被害者を二度と出さないようにと動いたじゃないか。中には、この10年に耐えられずに死を選ぶ被害者だっているだろう。けれど、あなたは死ななかった。それだけで、十分の価値があるんだって。
今でも何一つとして納得していることはない。
謝罪が欲しいわけでもない。
ただ、繰り返しになるが出所して1週間程度で命を絶つならば、初めから私に加害行為をする前にそうしていてくれよ、いや、私だけでなくて
他の誰にも加害行為をする前にと思えてならない。
加害者の死を知った時、除籍の住民票を見た時に全く理解が出来なかったこと。死亡した推定日と通知までのラグから普通の死に方をしていないということ、私は「更生してほしい」と願っただけである。
許すとか許さないとかそういう次元ではなくて、私と言う人間や他の人にしたことをどれだけ取り返しのつかないことをしたのかと言うことを、社会で白い目で見られ、蔑まれても寿命まで生きることを私は望んでいた。
加害者にも加害者と言う立場の苦労があることなど想像しなくてもわかる。
しかし、その立場になるかならないかは完全なる自己責任であって、
被害者と言う立場になるかどうかは、自己責任の域には存在していない。
だけれども、この国においては加害者の方が遥かに優遇されている。
認知の歪みであるとか、収監されている場合、衣食住から医療まですべてが無料で受けられる。被害者はどうだろうか?外にいる被害者は、特に性被害の場合は言葉にする事すらが憚られる状態にある。故に、本来ならば繋がれる場所に繋がることが出来ない。そして、被害回復は自己責任とされている。私は、努力をすることを厭わない人間だった。
努力をすれば、実らなくとも選択肢は増え、経験として残る。
しかし、この「犯罪被害」と言うものは、その努力すらが敵わない。
努力でどうにかなる問題を逸脱した場所で細い糸がどんどんともつれていく。「こんな考え方をする人間だったのだろうか、私と言う人間は」と驚愕する日々である。大切な人達からも犯罪被害は多くを奪っていった。
暗い影を落としては、無言で立ち尽くす他ない人生を一方的に押し付けていく。私はもっと、もっと早くに被害回復が自身の力で出来ると思っていた。
だからこそ、刑事公判で思った結果を得る為に心を殺されたのだから、死んだつもりで挑んだ。思った結果を得たけれど、その結果は私に笑顔を取り戻すほどの力はなかった。ベランダで崩れ落ちる様に泣いたことを覚えている。それでも、明日は会社がある、生きるということの痛さを常に感じた。
優しさや愛する気持ちを取り戻すということは、途轍もなく、果てしないものなのだと。
私自身が奪われた尊厳や時間、健康、金銭は考えるとぞっとするほどにマイナスだ。何が懲役を終えたら罪を償ったと終わった事のようにいえるのか。
それは、単なる法的に許されたという話であって、取り返しのつかない傷を与えられた方は皆目見当もつかないような日々を震える指でなぞり続ける毎日が続くだけである。更生というものは矯正機関において、とても大きな問題になると思うが、そもそもが1度でもそのようなことに手を染めてはいけない。法規範以前に、道徳規範や社会規範がまともにないということが問題である。恐喝や他の性犯罪で検挙されなかったからと言う、悪い意味での成功体験を重ねた結果で犯罪傾向がどんどんと重くなってゆく、そして私に対する犯罪行為で一歩間違えれば私の生命を奪いかねないところにまでエスカレートしたのだ。それは、誰が悪いのか。
親の教育か?本人の生まれ持った気質か?知的レベルの問題か?
そのどれ一つをとっても、被害者にとっては全く関係のない話なのだ。
加害者のような生い立ちの人間はこの世の中にごまんといる。
しかし、多くの人は犯罪を犯すこともなく、自身の命を殺めることもなく
社会の構成員として生きている。辛い思いをしたからこそ、それを繰り返さないために努力をする人間だっている。
私の持っていた、喜怒哀楽という普遍的な感情を返してほしい。
痛みから解放してほしい、過覚醒や回避行動をしない生活をしたい。
私が望んでいるのは、そんなに贅沢な事じゃないと思う。
愛している人に愛していると朽ちるまで伝えたい。
命に一番近い貴女に「貴女はとても尊いの」と伝えたい。
私が自らの命を殺めてしまうのではないかと、心配する主人。
大丈夫、私は自らの命を殺めるなんていうことはきっとしないから、
殺めたい気持ちになってしまうことは日々の中に転がっている。
けれど、それを手にしたとしても私はまたもとに位置にもどしては、
こんなに贅沢な愛の中に溺れているんだから、「大丈夫」と自分をなでる。
結婚したときから、老いていくこの道筋でも恋していると愛していると私は、言い続けると言ったのだ。
しかし、本当に無常としか言いようがない。
犯罪被害者だけが敗者ではない、その犯罪行為をした加害者もその家族も全員が敗者である。そして、加害者は一番先に死んだ。
最後に何を思ったのか、何を見たのか、願ったのか。
私は加害者の「死」と言うものがあまりに大きなダメージ過ぎて、
未だに混乱している。
正しい手順で逮捕されて、留置から拘置、そして刑務所に。
私が追った障害に対する、逸失利益や精神的苦痛に対する慰謝料を
法と言うものに従って求めただけだ。
本当に本当に痛かった、泣き喚いたって返ってこないものばかりの中で、
これからどうやって、幸福を得るのかと死ぬほど考えた。
ほんの一瞬の衝動で済むような話じゃなく、悲しみの連鎖が起きては
諦めなさい、諦めなさいとすれ違う人が私に言っていると思えた。
死んだことでより一層、私に負担を与えて行ったこと。
少し冷静になって、弁護士事務所で相続人に内容証明を送るために委任状を書いている際に「死にたいのは、こっちだよ。」と思った事。
そして、帰りの車の中で「子どもの顔、みたかっただろうに」と泣いたこと。
恨みを持ち続けるエナジーはもう本当のことを言えば、どこにもない。
そんな、余剰的な力はどこにも残っていない。
だけれど、私は恨む相手がこの世のどこを探したって見つからないと分かっていても、探してしまう。
見つけてやろうと。
暁空に消えていくものばかりが手元に残った。
狂い人になってしまいそうになるような危ない感覚を感じながら、
散らばったものを集めてはまた落としてゆく、生きるということは
大変、不条理なことが多い。多くの不条理を条理に変えて、自身の足で歩んで今があるのだという自己責任論者の私は納得していた。
しかし、納得できないことが3つある。
生と死と言う一方的な暴力と一時の感情で行われた犯罪行為。
警察は加害者を逮捕して送検してくれた。
検察は加害者を起訴して、刑事公判をしてくれた。
弁護士は私が秘匿申請をしている故に共に出廷してくれ、民事訴訟をしてくれた。
しかし、誰一人として私が「犯罪被害者からの脱却」という方法は押してくれなかった。誰一人として、答えを持ち合わせていない。
持ち合わせていない人たちから、善意や悪意など様々な思いが根本にある言葉を掛けられて生きてきた。私は怒ることは無駄だと思っている。
だからこそ、傷つきながら言葉の矢を刺されながらも笑って
「そうだね」と答えてきた。
でも、心の中では「お前も同じ目に遭え、遭ったら分かるだろ」と思っている。笑っているだけまだましだ、笑う鬼だと思いながら。
今日、「世の中って、なんだろうね」と主人にぽろっとこぼした。
そうしたら、「今からでもやったらいいんだよ」と主人らしい言葉が返ってきた。主人は、生きるという事に対して腹を括っている。
早く死にたい私と違って、1000年生きられるなら生きたいという。
そして、私に見返りを求めない優しさを常に与えていく。
どれだけ、私は主人を不安にさせたか分からない。
命の線をすっと超えていくんじゃないかと思わせたことなど、何度もある。
私は贖うという作業をしなければいけない、主人と当時幼かった娘に与えた悲しみや奪いあげたり、召し上げられたものを返していかなければいけない。被害に遭ったこと自体は、私には何の落ち度もない。
しかし、私の被害を通して彼らから多くのものを私は奪った。
感じさせなくていい感情を感じさせた。
その為に、私は何ができるのだろうかと考える。
笑っているあなたたちを見ていることが出来るだけ、私は幸せなのだろう。
本当に孤立無援であったならば、この命に執着など全くしていないと思う。生きることと言うのは創造である。生と死の間を創造している。
もうどれだけ考えても、私の中で犯罪被害者としての答えは出ないと思う。
10年間、哲学者の様に考え続けた人生の意味と同じように。
ただ、どうして私が犯罪被害者としての言葉を紡いでいるのかというと
本当に呆れるような不条理がこれからの被害者が感じない社会にしたい、
ただそれだけである。犯罪被害に遭わないことが一番いいのだが、
人が複数になった時点で、犯罪と言うものはどうしても起きてしまう。
ビハインドからの回復はとても大変である。
本来、ここまでほぼ100%近い努力や負担を被害者にさせるべきでない。
二次加害はもちろんのこと、その被害によって被った心身の治療費の負担や
カウンセリング費用も現在は自費負担であって、金銭的問題から治療やカウンセリングをためらう人もいる。中には、働くことすらがままならない状態になっている人も存在している。損害賠償も回収がほぼ見込めないからと言う理由や私のケースのように加害者が死亡して権利がなくなり、本来であれば慰謝されるであろうものがされないケース。この部分だけでも、政府が代替してくれたならば、被害者の回復の可能性は高くなる。
もう、明治でもないのに明治の法律を引きずり、民主主義国家であると言いながら、一部の弱者や社会的マイノリティに不自由を押し付ける。
このおかしな齟齬がどれだけの不幸の何十層ともいえる問題を生んでいるのか。
犯罪被害者が奪われた尊厳は本来、守られるべき尊重されるべきもので蹂躙されたり搾取されていいものではない。
だからこそ、私は声を上げ続けている。
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