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犯罪被害者が声を上げ続けるという事。

今日、カウンセリングで先日、主人に言われたことと、私が行っている犯罪被害者の権利拡充、性被害者の方へのアプローチについて話をした。

「私は、自分の人生を捨て去る覚悟をすれば、一切これから犯罪被害者と言うような気持を出さずに、家族と生きていけると思います。しかし、私は犯罪被害者なんです。その立場になった時、不条理だったものを条理に変えることを出来るのは民意なんです。」と言った。

自分自身、もう昨日は「人生って、思ったようにいくことはないんだな」と言う気持ちでいっぱいであった。色々な人が、私のtweetをみて心配の言葉をかけてくれた。どの言葉も正しくて、しっかりした意見であった。色々なことを考えながら、自分にとって一番いい生き方ってなんだろうと考えたとき、答えが一切見つからないという状態であった。

私自身、色々な場面で犯罪被害者と言う立場、性被害者と言う立場に対して誹謗中傷を散々されてきた。特に、加害教師に対して懲戒請求をしたときはネット上でこれでもかと言うまで叩かれた。けれど、私はそこに対して傷ついていなくて、当事者じゃない上に、私を目の前にしていないから言える、そのうえ、ネット上で人の不幸を喜び叩くことでしか悦を感じられないかわいそうな人間なんだろうなと思っていた。二次被害と言うのは、犯罪被害者が被害に遭っていない人からと言う構造だけではなくて、

「私は強姦されたの、あなたはされてないじゃない。触られただけじゃない。なのに、性被害者ぶって何なの」と言われることもある。

私は、その言葉に返答をしなかったものの、彼女の心理状態を鑑みたときに自分はこれほどまでに最悪な状態なのに、なぜあなたは今被害を語って、権利だの法改正だの言っているの、なら傷ついてないんじゃない。と思ったとしても間違いではないと思ったし、そう言う言葉を私に言わなければいられないほどに辛かったのかもしれない。故に、私は責めるということはできなかった。

今日、帰りの調剤薬局で「しっかりしなよ」と言われたとき、本当にみじめな気持ちになった。この人は、薬剤師と言う立場であるから当然に社会的に求められている仕事をしている、だからこそ外で働いていない私に憤りを感じたのだとしても不思議ではないと。先日、自立支援医療の更新で「病院と薬局の変更はありませんか」と言われたけれども、変更すればよかったなと思った。今の私に、余計な言葉であるとかはあまりにも辛すぎる所がある。

二次被害と言うものの被害についての論文を読んだ時、日本の国民性として問題があるという一文を見た。

例えば、欧米であれば、性犯罪の被害者でない人でも「おかしいだろ」と思ったら、デモに参加したりする。それが、障がい者問題であったり、人種差別であっても「私、僕はこの状態がおかしいと思うから一緒に変えたいと思う」と言う部分があるが、日本と言う国民性でいくと「私はそうじゃないから関係ない」とバイアスが強く働くこと、そしてそういった活動をしているということが社会的によく見られないということに起因して起きているという。

先日、書いた記事に「警察はなぜ被害届を出そうとしている被害者を責め、そのうえ、受理しないのか」と言う問題も、その問題に直面したことのある人しか「これはとんでもない人権問題である」と思わないのだ。多くの人は「自分は被害に遭わない」と思っているというのは、災害で被災する可能性があっても「自分だけは大丈夫」と言う、正常性バイアスが働いているのと同じで、「犯罪被害に遭うのは、運が悪いか自分が悪いかのどちらかでしょ」と言う気持ちでいるから、当然のことながら「被害届が受理されない」のは被害者に落ち度があるんじゃないの?と思ってしまうのだろう。普通、警察と深くかかわらなければ「警察は市民の味方であり、助けてくれる存在」と認知しているからだ。

でも、私はtweetでも何度も言っているが、「今平和に生きている人が、明日、犯罪被害者となり地獄が始まる」と言うことは絶対に起きてしまうのだ。その人たちは今「自分には関係ないよね」と言っていたとしても、被害者と言う立場になったとき、警察や検察での供述調書、現場検証、公判などで途轍もない痛みと不条理を感じる。少なくとも、日本の司法が行っている刑事裁判は「被害者は関係ない」と言う感じはどうしてもある。それは、国が社会を一定の安全を担保するために、国家の名の下で加害者に対して刑を科しているからだ。一審は被害者参加制度などで参加は出来るかもしれない、しかし、控訴、上告と言う場面に移行すれば「被害者」などはそこに存在していない。そして、「自分には関係ないよね、テレビで損害賠償の判決が出た人はみんな、お金もらってるんでしょ。お金もらえるならいいじゃん」と思っていた人たちは、「まったくもらえない、補償もない、明日の糧すらも思い悩む」と言う場面に直面する。そして、当然のように医療費や訴訟費用も払わなければいけない、払えないならあきらめるしかない。それが、いまの日本なのだ。それが、正常性バイアスの結果であるわけで、いずれにせよ「自分には関係ない」と思っていた人が、被害者になったときせめて感じる現実と本来被害に遭っていなければあったであろう生活との差を狭小化させるために、私は声を上げている。

事実、私が今、色々な人がコンタクトをとってくださる中で知識がないことでアクセスできなかった場所につなげることが出来たときや、その人の願いが叶った時、同じような思いを感じてくれる人が声を上げくれることを感じたときに、「私は、犯罪被害者となった事に意味があったんだ」と思うことが出来る。

正直に言えば、最悪、死ねばいいかと言うようなマインドで生きている。それは育った環境も問題としてあるかもしれないが、自分と言うものに対しての自己肯定感や愛着と言うものはない。私は、無条件に「あなたが、あなただから大好きなのよ」と言えるけれども、私自身に「私が私だから、大事なのよ」とは到底思えない。

カウンセリングの中で「〇〇さんが、犯罪被害者支援をすることで誰かが救われたときどんな気持ちになりますか」と言う問いは、上記に記載したように、本来救われるべき人が、アクセスできるべき人が出来たとき、私はその活動をしていてよかったと思う。と答えた。

私自身が、今日までと言う日を生きながらえたのは当然のことながら自分自身の努力だけではない。犯罪被害者の会の人や犯罪被害で大切な人の命を奪われたけれども、それが無意味だと思いたくない、自分がしてほしかったことをしたいと思ってくださった人たちのおかげである。人は、一人で生きているということは絶対にない。

今日、医師の言葉で「殺人の被害に遭った人は責められないのに、性犯罪となると世の中の多くが、被害者の落ち度を探して言葉を投げる。それで死んでいく人もいるということを知ってか知らずか」と。

「犯罪」と言う大きなくくりであれば、どの犯罪被害も公にし被害回復を望む気持ちは当然にあるわけで、しかし、性犯罪の被害者であるということをネット上でも明らかにした瞬間に、好奇の目で見られたり、その回復をしようと努力している人の気持ちをそぐ言葉を投げる人は当然にいる。

私自身が一番、犯罪被害や教師からの性加害について振り返り
やさぐれていたとき、「この人は大切な人を一回殺されたらいい、同じ状況になったら初めてわかるだろう」と。そういった、残忍なことを考えたりもした。

しかし、私が犯罪被害者の権利拡充、性被害者の尊厳の回復などについて心血を注ごうと思うのは、誰も声をあげなかったら100年経って、200年経っても何も変わらないからでしょ。と思っているからである。

医師から「日本がは少しずつ、変わってきているけれども本当にあなたが望む形、あすの会の人たちや被害者が望む形に日本が法整備されるのは果てしない時間がかかるかもしれない。でも、誰も言わなかったら絶対に変わらない。それを唱えていることに価値がある」

と言葉をかけてくれた。仮に、私が志半ばで死んでしまったとしても吉田松陰が亡くなった後に、彼の思想を継ぎ唱えたのと同じように、唱え続けてくれる人はきっといるだろうと思っている。

私は、変えられない問題などないと思っている。今まで、10年前の犯罪被害も納得のいく刑罰を与えることが出来た、加害教師の懲戒免職も行うことが出来た。それは、相手と刺し違え、斬り合ってしまう可能性があっても、

「肉を切らせて、骨を断つ」


自分自身も、命を失うかもしれないという覚悟の下で行ったからこそ、叶ったことだと思っている。上記の10年前の犯罪被害も公判に挑むにあたって、「判例として残る公判にする」と言うことの為に、自身を切らせ骨を断った。加害教師の懲戒請求も原則、懲戒免職になれば実名報道で教員の名前は報道される。そうすれば、私のことを叩く加害者側の人間がいることも承知した上だった。

その加害教師の懲戒請求を通して、県教委からの依頼で全教員に配布するリーフレットの手記を依頼され、「精神的に発達の途上にある、生徒をマインドコントロールすることは容易である」と言う文言を書き、そのようなことをすれば加害教師は公務員であればいつ職を解かれるか分からないということ、そして被害者に果てしない辛さを与えるということを伝えることが出来た。しかし、年々、処分されるわいせつ事案の教師はいる。それは、わいせつ事案が増えたのではなく、外部からの告発であるとか、10年以上前の出来事でも県教委が動くようになり、現在進行形で被害に遭っている児童、生徒が相談をすれば、管理職が知るところになり厳正な処分が増えてきたということである。私が高校生であった20年前の頃は、他の教員がわいせつともいえる行為をしていても「男なんてこんなもんだよ」と言う教師がいた。しかし、声を上げ続けることで、「わいせつ事案は原則、懲戒免職で実名報道」と言う形になった都道府県も増えてきている。

それは、私だけではなくて他の先人の方が辛い気持ちや恥ずかしさを堪えながらも声を上げ続けたことによって、得られた勝利だと思っている。

人は、願うものがある限り果てしなく、諦めず自身が傷つく覚悟をし刺し違える覚悟をしながらも、声を上げた人が勝てる時代になったということだと私は思っている。

ただ、私の人生を100%犯罪被害者としていきることは出来ないし、本意ではない。楽しいことを探したいし、きれいなものを見て感激したい。未来が明るいものだと思うような人生を取り戻したいと思っている。その作業の半ば、加害者の不審死と言うかたちで再度、被害にあったような気持になり状態としては今、悪いけれども、1日単位で生きることが出来れば、パラダイムシフトは起きる可能性も0ではないと思っている。

もしも、私が力尽きてしまったら、笑い飛ばしてくれたらいいなと思う。

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