エイズデーの前の日に思うこと。
ご無沙汰しております。宣伝のたびに来てるみたいになってますが、全く利益を考えてない宣伝なのでお許しくださいませww
とは言っても、今回の宣伝は「世界エイズデー」でございます。
「世界エイズデー」とは
世界エイズデー(World AIDS Day:12月1日)は、世界レベルでのエイズのまん延防止と患者・感染者に対する差別・偏見の解消を目的に、WHO(世界保健機関)が1988年に制定したもので、毎年12月1日を中心に、世界各国でエイズに関する啓発活動が行われています。
今回の日本でのテーマは「知ってる!? HIVとエイズの違い」だそうですが、いいです。知らなくても構いません。LGBTの二の舞になるだけです。阿呆らしい小競り合いがTwitterで行われるだけです。
感染症で大事なのはTest(検査)、Treat(治療)、そしてPrevent(予防)です。しかし、予防はライフスタイルに大きく左右されます。コロナで体験されたように、人によってできることとできないことがあるのです。HIVの場合はリスク行動が人に言いづらい行為だからブラックボックス化されています。僕はその辺をゲイのカミングアウトで経験済みなので構図が同じと思いました。
HIV感染が発覚して、毎年何かイベントでやってきたのですが、今年はコロナや休職したこともあり、やってません。というより、コロナでHIV感染症啓発に嫌気がさしました。HIVと同じ問題でまたパニックになってて、HIV関係者までもがパニクってる。細かく説明すると難しいし、象徴的にアクションをしても都合いいように解釈され、上澄みだけしか伝わらない。
この一年はコロナがもの凄いストレスを感じました。
ソーシャルディスタンスは経験していたので、苦にならなかったのですが、他人の行動が気になって仕方がありませんでした。僕が感染することはそんなに不安ではないのですが、さっきまで怖がってた人が危ない行動してたり、感染者への差別的な発言が耳に入ってきました。不安になりすぎる人を揶揄するのも一方的すぎてかんに障るし、かといって不安になりすぎて他人を非難してばかりの人を見るのも嫌でした。
HIVリスクの高いゲイ同士のマウンティングがすごく嫌いでした。それが嫌で、自己責任論と徹底的に戦って、いろんな陽性者にも、非感染者からも非難され、それでもやってきたけど、これっぽっちも変わってないことが本当にやるせなくて、消耗しました。
いろんな人を非難することになりそうで、あまり言わないようにしてきたんですが・・・エイズデーなので書いておこうと思いました。
以前の講演タイトルが『with H』。正に身近にあるものとして、共に生きていく事を考えようという事を伝えたかったけど、何にも伝えきれてなかったな。
まず、エイズデーで覚えてほしいことは二つだけ!
「U=U」
今やHIVは、治療によって性行為で感染しない時代になりました。
https://hiv-uujapan.org/
90-90-90ターゲット。
• 最初の90:HIV陽性者の90%が検査で自分の感染を知る。
• 2番目の90:感染を知った人の90%が抗レトロウイルス治療を受ける。
• 3番目の90:治療を始めた人の90%が体内のHIV量の抑制状態を維持する。
この3つの90がすべて達成されると、90×90×90=72.9となり、約73%の人は自らの健康を保ち、同時に他の人への性感染のリスクもなくなります。
感染症について思うこと
感染症予防はリスク行動と予防行動が話の中心です。
リスク行動による感染リスクを軽減することが予防行動であり、その成功率は自己の個人的な理由に左右されます。「個人的な理由だから自己責任」とする考えが先進国では蔓延しがちです。発展途上国では自己責任問題ではなく、社会問題です。世界としてのUNAIDSは基本的には経済的貧困を軸に考えるか、先進国の性感染症予防観点で考えられています。
先進国では自発的にできる行為を怠った人とタグ付けされます。先ほども書いたとおり、「個人的な理由だから」です。個人的な理由は自発的なものでしょうか?僕はそう思いません。福祉に関わる方なら常識かもしれませんが、したくてもできない、どうしてもしたくないという人の理由を突き詰めていくと、本当に自己責任かどうか首をかしげたくなることがほとんどです。そもそもライフスタイルというのは選んでいるようで自由意志とも言えません。社会はシステムで管理されています。その中にいる以上、選択の自由は現実的には完全に自由意志では行われません。詰まるところ、システム管理に支障を来さない範囲で「他人に迷惑がかからないければ注意されない」だけであり、見てないところで何をしてようが口を出さないのがルールで、人それぞれの価値観や幸福感や充足感が形成されていきます。選んでいるようで選べずにとった行動が、ライフスタイルに繋がっています。それが結果的に倫理に反する生活様式につながることは往々にしてあります。近代では、経済的格差とイコールでした。しかし、結局はそうでもなかったと言えます。貧困は金銭的生産性とは無関係とも言える事象が起きています。経済的に困窮していないし、やらなくてもいいことや自傷的な行動がライフスタイルに組み込まれている人がいるからです。
後進国ではリスク行動をしないと生活が成り立たないから、せざるを得ないという環境です。自己責任とは扱われません。
コロナで解るとおり、そもそも感染症を患うことは自己責任ではありません。コロナは食い止められる術がない、もしくは予防が多くの人のライフスタイルに影響を及ぼすという事が問題であり、それは社会的なシステムで止めるしか方法がないが、各国にその準備ができない、コンセンサスが取れないなど、個人の責任ではなく、社会的にダメージが起きました。それは急速度で起きて、大多数の人のライフスタイルがリスク行動として速度に拍車をかけています。この速度に拍車をかけるというところは非常にポイントです。支点なのか、作用点なのかみたいなこととでも言いましょうか。
そもそもパンデミックはずっと前から定期的に起こっていました。天災は予測できないから、あるものとして対策を練り、必死でフィードバックを行います。
しかし、感染症はその治療や医学的な予防方法の発見だけに注意が向きがちです。フィードバックは一般には共有されませんし、問題とされません。そして、医学的に拡大が抑えれば解決したと思われがちで、予算は配分されません。結果的として、局地的に起こったその地域や時代に特有のものと思われがちです。以前落合陽一氏がNPで感染症センターの人に「こういう事態の時のロードマップのようなものは作成されてないのですか?」と質問しているときにさすがだなぁと思いました。
多分、ある程度のものはあるのです。
初期患者が発生し、それから40年もパンデミックが続いているHIVも溢れるほどの資料が毎年作成され、棚に置きっぱなしにされています。定期的に医療関係者に研修を行い、性感染症として感染症予防の知識を共有しているそうです。
しかし、「局地的な」「特有の」疾病として認識されているが故に、その知識は特殊な人しか必要のない知識として処理され、パンデミックとさえ認識されず、エイズパニックと同じような状況をまた繰り返してしまいました。2016年に感染が発覚し、メディアに出て「感染症は自己責任ではない」と言い続けて、インタビューなどでも話してはいたんですが、取り上げられるのはマイノリティとして報道されますし、僕自身もそれ寄りの論調になっていきました。
最近は「何やっても予防は無理であり、ライフスタイルは尊重されなければならないから、システムでどうにかしなければいけない」と、システム側の医療関係者には言ってきたのですが、「費用がない」か、「そんな大がかりな変革は公的機関には無理だ」としか言われませんでした。
エイズ学会でスピーカー募集していたので、こんなに適したやつはいないと思い、言いたいことを伝えて応募したところ、落選。合格していたのは、医療制度万歳か支援団体へのありがとうの手紙です。もしくは苦労話。LGBTでよく見る景色です。
コロナでこの流れが変わるかと思ったのですが、むしろHIV検査はないがしろにされ、検査体制の不備が露見するも、「大変」の一言で済ます始末。
勘違いしてはいけないのは、パンデミックが40年も続いていたのに、体制が整ってなかったことが問題なのです。従事者と国民はその犠牲になっているのです。
感染症は無理解との戦いでもあります。まずはそこをしっかりと把握しなければいけません。
無理解による差別は過去に学ばなければいけない。しかし、近代で全く解決できていないことの一つです。僕たちは違いを気にする余り、同じ人間であると言うことを根本から理解していません。同じだから、同じように違いを気にするし、こだわりや固有の価値観が形成されます。経験が多様になればなるほど、新しい発見があると同時に、その隔たりに苦悩するのだと思います。
違いを理解するとは、無理矢理賛成することでも仲良くすることでもないのです。違いを確認し、尊重し合い、解決策をお互いのために考えた結果が、お互いの関係性として現れるのです。学ぶ行為はそのプロセスそのもだと思います。多様であるべきなのは、この多様な化学反応が僕たちを前に進ませるためだと僕は信じています。
いいことばかりではないさ でも次の扉をノックしよう
もっと素晴らしいはずの自分を探して
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