たかだか数文字の「名前」だけに、人生の答えの全てを求めるな
自分の生き方、人生、好きな物が、周りの人達とは違う時。
「自分は一体何者なのか、自分と同じ人はどこかにいるのだろうか」と不安や孤独を味わうのは、きっと誰だってそう。
それはありふれたテーマで、私だってそうだから。
道無き中を進むが如く。
そういう時はきっと、誰だって多少なりとも不安になるものでしょう。
どこをどう進めば正解なのか、分からないのだから。
そんな自分にぴったりの答えや道を示してしてくれる人は数少ないか、居ないのだから。
不安と孤独のあまり、自分にぴったりのラベルがつい欲しくなってしまうのも全く解らないと言う訳じゃ無い。Xジェンダーやノンバイナリーと言う名前だってそうだ。
しかし不安で孤独な時に、簡単に人から与えられるような名前やラベル、教えなんて言う物は
、往々にしてたちの悪いまやかしである事が多い。
現実は孤独と不安に対して都合良くちょうど良い答えが見つかり、めでたしめでたしで終わるようなフィクションとは違う。
何かを信じさえすれば即座に人生の真理が得られ、問題の全てが解決する訳では無いのが現実の人生だ。
人と違うと言う事には孤独と不安が付き物だ。
その孤独と不安つけこまれないだけの強さを身に付けなければ、良いように翻弄され利用される。
辛い時、自分に都合の良い話を寄越してくる人間やイデオロギーを安易に信じるな。一見してそうとわからなくても、悪どい奴は幾らでも居る。
行く先々で都合の良い話につられ、それで失敗する度に周囲を憎み、周囲を憎むから益々孤立し、年老いてなお苦しんでいる人を私は知っている。
いつも都合の良い話に安易に飛び付いてきた自分を省みない限り、そういった人が行き着く先はきっとよりたちの悪いカルトか、より克服し難い深い孤立と孤独だ。
そういった「まやかし」から、現状 Xジェンダーやノンバイナリーと言う名前や概念も無縁では無いと私は思っている。
それが漠然とした違和感に答えを与えてくれたように感じたとしても、そもそも確かめようもない「性自認」何てものを無批判に信じ認められるべきだとしている時点でおかしいと思わないのだろうか。
個人の主観をそのまま社会的に承認しろと言う主張がおかしい事ぐらい、少し考えれば分かる筈だ。
客観的事実として不特定多数間で共有不可能な妄想を、現実であると認めろと言い張るぐらいおかしな事だ。
そんな無理難題を無条件に認めないからと世間に憎しみを募らせ、同じ思想の持ち主と世間に憎しみをぶつけて一時的な連帯感を得た所で、そんなの内輪での独り善がりな傷の舐めあいと何も変わらないだろう。
カルトと一体どう違うと言うだろう。
だから、
たった数文字の名前ひとつで、自分の人生の答えの全てを得られると思うな。
一人の人間として生きている限り、一切の不安と孤独が人生から消え去る事なんて、きっと滅多に無いのだから。