香水を売ったはなし
2021年の夏に買って、1年半ほど使っていた香水を、メルカリで売った。5000円くらいで買って、3分の1くらい使って、1700円で売った。初めて自分で買った香水だった。買って、家に帰って、つけたとき、の、あの高揚感を今でも憶えている。
あの日、夏休みに入ったばかりで、吉祥寺に髪を切りに行っていた。髪を切ったら、気分が上がって、パルコに入って、ナイスクラップで服を2着買った。スタバでフラペチーノを飲み、キラリナに行って、化粧品売り場を見ていた。服を見ている間、香水の香りを試しに嗅いでいる間、ずっと思い浮かべている顔があった。相手は2つ年下で、そのときまだ高校3年生で、アルバイト先の塾の生徒。顔が綺麗で足の長い、物静かな子だった。口数が少なく、表情が表に出ない分、彼が何を考えているか、思いを自由にめぐらせることができた。彼がそれをどう思うかには全く責任をもたず、確かめられない、確かめる気もない想像、たとえばこの服を見たらどんな顔をするか、を、膨らませていた。
以前知人が告白をしたとき、てっきり振られるかありがとうと言われるだろうと思っていたら、私も好きですとかえってきて、その瞬間怖くなった、と言っていた。愛するのは自由だが、愛されるには責任が伴う。相手が自分を好いてくれる気持ちに、何かしらの形で応えなければならない。だから玉砕覚悟の告白をしてそれが予想外に叶ってしまうと、負わなくていいと思っていた責任が急にのしかかり、相手に愛され続ける努力義務が生じる。愛される責任の重さは人それぞれで、各々の自己肯定感によって変わってくる。片思いが一番楽しいという言説は、こういった事情によるものなのだ。
はじめて彼に特別な感情を抱いたのは、授業中に雑談のつもりで、おやつの話を振ったときだった。そのときスタバのソイラテを飲むことに異様にはまっており、その話の延長で◯◯くんはスタバだと何が好きなの、と尋ねると、お金がないのであんまり飲まないんですよね、と返された。それで終わるのはなんとなく忍びなかったので、安価なおやつをちょっと考えて、じゃあミスドは何が好き?と尋ねると、ポン・デ・リング、へえ、普通の味のやつ?、いやいちごが好きです。はにかんだその笑顔をみたとき、余りのかわいらしさに口角が上がり、マスクをつけなければならない世の中でよかったと思った。彼の授業がかならずある月曜日にバイトに行くのが楽しみになったのは、たぶんあの日からだ。
夏期講習中、ほとんど毎日彼の授業があったので、毎朝早起きして髪を綺麗に整え、メイクを施し、例の香水を吹き付けて塾へ行っていた。毎日会っているのに、毎回の授業でまるで初対面のようなよそよそしさがあり、それでも話を振るとかならず答えてくれ、私のつまらない話にも相槌を打って笑ってくれた。毎回の古文の単語テストで、わからない単語があると、眉をハの字にして空をあおぎ、私が朝イチの授業に寝坊してしまったときは、「僕もバイトのとき店長に電話で起こされたことあります」と言ってくれて、特別な好意は含まれていないとはっきりわかるものの、目尻をさげた綻ぶような微笑みを見せてくれるたびに、感慨にも似た感情を抱いた。
私には当時付き合っている人がいたのだが、高校生を好きになるにつれて彼から愛情を受け取ることを重荷に感じるようになってしまい、9月、劇団の公演を終えたことをきっかけに別れを告げた。優しくて頭が良くて公立大学の理系学部に通う将来のビジョンを持った真面目な人だった。お世辞にも成績がいいとは言えず、つねにぼんやりしている高校生とは比べものにならないほどの「優良物件」だったのだろうけど、もはやそんな合理的な考えで立ち止まれる場所に、私はいなかった。それでも私の我儘をすべて受け入れてもらった3年半のすえに好きな人ができたとは打ち明けられなかった。あなたと一緒にいる自分が嫌いだと、本当だが本質ではない理由で別れを切り出した。別れ際の抱きしめられたときの体温と力強さが、今も体のどこかに残っている。だけどその日も、私はあの香水をつけていた。
彼氏と別れたことは高校生のこととは別種の深いダメージを私に残し、このままではいけないと思って塾のバイトをやめ、新しいことをはじめようと思い立った。しかしシフトにかなり入っていたため、教室長らから引き止められ、結局3月まで続けることになってしまった。自分の不誠実さと優柔不断さにいらいらしながらも、彼に会えると思うとやはり胸が高鳴ってしまい、出勤前には微熱がでる有様だった。香水がその体温で香り立ち、自分の香りに酔ってしまって、ああこれが彼にばれていたらどうしよう、ばれていてほしい、と思う浅ましい気持ちを、彼を思い浮かべて買ったファンデーションで隠していた。どうにかなりたいと思っていたわけではないのに、最後の授業の日、連絡先をどうにか聞けないかと考えをめぐらせて、結局何もできずに別れたときは、自分の香水の匂いが酷くみじめに思えた。
会えなくなってからの方がずっと、彼のことを考えていた。いまなにをしているか、この場所に一緒に来たらなんて言ってくれるのか、考えるのは自由で、それは彼と向き合っていないから、彼のいまを知らないから、なにを考えてもよかった。愛する責任も、愛される責任ももたず、ただ会いたい、顔をみたいと、ひたすらに考えていた。香水をつけて出かけるたびに、あのクーラーがききすぎた教室でした会話を反芻して、頭がぼうっと熱くなった。
たまらず、彼がバイトするコンビニに行ってしまった。住んでいる場所とコンビニの名前から、なんとなくわかっていて、行こうとしたその日、虫の知らせか動悸がとまらず、近づくにつれて心臓の音が冗談でなく、耳にうるさく響いていた。店に入るとレジに彼の姿はなく、安心しきっててきとうに棚を見ていると、裏からあらわれて、私に気づいて、レジに向かっていった。顔も身長もなにひとつ変わっておらず、唯一大きく変わっていたのが髪型で、薄めのピンクにしていた。大学に入ったら髪を染めるか迷っている、と言っていたのを思い出した。友達からは染めたらちょっとショックだと言われたとも言っていて、たしかに◯◯くんが染めちゃったら私もちょっと嫌かも、と笑って言った、その黒くてさらさらの髪を染めていた。
それからは本当にゆるやかに、彼を忘れられるようになっていった。いまの彼を知ったことで、無責任に自分の横におくことができなくなってしまったから、だと思う。あるいはもっと単純に、ピンク頭の大学生である彼に興味を失ったから、かもしれない。後者だとしたら随分身も蓋もない浅ましい話だと思うが、それもむしろ自分らしい。
香水を使っても彼を思い出すことはなくなったので、変わらずずっと使っていたものの、恋人ができたことから、このような経緯で買った香水を使い続けるのが忍びなくなったのだった。香水を売って、代わりに新しい香水を、またキラリナの、今度は別の店で買った。高校生の彼には、身勝手な感情を抱き続けたことを申し訳なく思うとともに、私と交わらないところで、ずっと幸せでいてくれたらいいなと思う。
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