L/S 19990324 ベオグラード その1
1998年3月24日、私はユーゴスラビアの首都ベオグラードにいた
NATOがユーゴスラビアへの空爆を開始した、あの日の夜
■1998年6月21日(日)
1998年のワールドカップ・フランス大会は
私にとって、初めての海外旅行&国際試合観戦だった。
お目当てはもちろん、ドラガン・ストイコビッチ率いる
ユーゴスラビア代表の試合を見ることだ。
恐ろしいことに、当時日本では、ツアーで予約したはずの
W杯のチケットが『実は無かった!』という詐欺ような事態が
起きていて、日本代表のチケットのみならず、
ユーゴ代表のチケットも『入手できませんでした』と
豊鉄観光からシレッと連絡が来たのだった。
(この話の詳細は、またいつか書くので、今は割愛)
チケットは無くてもフランスには行きたかったし、
「現地に行けば手に入るよ」と言われていたので、
とにかくツアー中止だけはやめて欲しいと豊鉄観光に伝え、
結果、チケットがないけど行くという勇敢な(無謀な)
東三河の民と共に、私もフランスへ飛んだのだ。
当時の英語力はひどいものだったのに、
現地に行けばなんとかなる、とか……それもかなり無謀だね。
(まあ、今も大して喋れるわけじゃあない)
ユーゴ vs ドイツ の試合が行われるランスに向かう電車の中で、
私は4人組のセルビア人と知り合った。
あいにく彼ら余分なチケットは持っていなかったが、
一緒に写真を撮り、連絡先を交換するくらいには仲良くなった。
スタジアムでは、ドイツサポーターの一部が暴動を起こし
警官を衝突するのを、直近で目の当たりにした。
亡くなった方もいたそうで、とても残念だった。
チケットは、地元のフランス人たちから
ちょいプレ値くらいで譲ってもらえて、
我々3人は、別々の席だが試合を見ることができた。
私はドイツサポーターに囲まれた席だったけど(笑)。
国連のスポーツ制裁というクソみたいな制裁が終わり、
国際舞台に帰ってきて最初のワールドカップのピッチに
ピクシーを始め、タレントぞろいのユーゴ代表が並ぶ姿は
ただただ感動だった。
前半13分、ユーゴのミヤトビッチ#9 が先制ゴール!
シュートコースを横切ったスタンコビッチ#20のゴールか、
ミヤトビッチのシュートが直接ゴールインしたのか、
よくわからなかったが(最終的にはミヤトビッチの得点)、
とにかくユーゴがドイツ相手にナイスゲームを見せていた。
1-0で前半終了。
そして、私のこの試合の観戦も終了……!? マジで?
そう、忘れもしない、フランス人のバス運転手が
「今日は疲れたからランスには行きたくない」の一声で
私とツアー仲間の2人は、電車でランスに来たのだ。
待ち合わせの18:00に戻るための電車に乗るためには
前半が終わったら駅に向かわなくてはならなかったのである。
今なら、自力でホテルへ直行しますからと押し切るが、
当時は英語はろくにしゃべれないし、
他の2人は普通の真面目な人たち&英語は話せなかったので
わがままを通して迷惑をかけるわけにはいかなかった。
後から聞いたら、臨時便もあったとか。
(これに懲りて、以後はツアーは利用していない。個人旅行)
パリへ戻り、ツアーバスに乗り込んだとき、
バスの運転手が恋人と運転席でいちゃこらしてるのも
相当ムカついたが、最悪だったのは……
後半にストイコビッチがゴールを決めた!
と聞かされたことだった。
現地に行ったのに。
あと何分かねばってたらゴール見られたのに。
ピクシーのW杯最後のゴールだったのに。
なぜ、私はそこにいられなかったのだ!?
その悔いが、私を2度目の海外観戦へと向かわせた。
・ピクシー最後のW杯でのゴールより見たいものって何?
・ピクシーを代表で見たいが、おそらくEURO2000が最後
・でも予選敗退したら本大会では見られない
・予選の組み分け……あっ、クロアチアと同組だ!
・国家分裂後、初のユーゴ vs クロアチア
・ユーゴのホームゲーム=ベオグラードだ
・フランスで出会ったセルビア人が案内してくれることになった
・でも、NATOの空爆が噂されている
・どうせ、ミロシェビッチ大統領への揺さぶりで、
結局は空爆しないでしょ?
・どうしてもユーゴ vs クロアチア を見逃したくない
……というわけで、ユーゴスラビアへ向かった。
SNSが当たり前の今なら、炎上し叩かれていたと思う。
でも、1999年は、まだ20世紀だった。
つづく