クリープハイプと恋に落ちた時の話をしようと思う。
至極個人的で勝手な印象だけれども、クリープハイプって、出会った時のインパクトやハマった時のインパクトがものすごいバンドだと思っている。
なんというか、出会い頭の事故というか、メジャーリーガーの四番バッターにこめかみをすこーん!と撃ち抜かれたというか、なんだかどちらも大層物騒な例えになってしまったが、つまりはそれぐらいの衝撃とともにやってくるのだ。
かくいう自分も、「昔一度出会ってはいたけどその時はご縁が無くて、数年後に再会したと思ったらボーリング工事ぐらいの勢いで恋に落ちた」みたいな感じだった。
クリープハイプとご縁ができてもう4年半ほど。彼らとの思い出もそれなりにいろいろあるけれど、インパクトの大きさという点で、出会いは避けて通れない出来事の一つなので、今日はそのことについて書いてみようと思う。
2012年のメジャーデビューのタイミングで、「クリープハイプ」というバント名と、「尾崎世界観」という名前と、あの一度聴いたら忘れられない歌声についてはなんとなく認知はしていたものの、彼らの曲をちゃんと聞いたのは2013年のこと。そう、「憂、燦々」だった。
CMでサビだけ聞いて、「キャッチーだな、刺さるな」というのが第一印象だった。さわやかな印象の、夏の日差しがよく似合う映像と、突き抜けるようなメロディ、そして尾崎世界観のあの凛とした歌声。
「連れて行ってあげるから」という歌詞からは、夏休みの当てのない旅行のような、ちょっとノスタルジックさのようなものを想起した。
ところが、だ。後日フルで曲を聞いてみたら、尾崎世界観はめちゃくちゃ怒っていた。ミュージックビデオの内容も、なんというかえげつなくて、わたしはびっくりしてしまった。
さらにその次に聞いたのが「社会の窓」だったので、「あ、これはだめだ、このバンド、わたしを殺しにかかっている」と思って聞くのを辞めてしまった。
当時の自分は、憂、燦々の歌詞みたいな、ばかみたいに不毛な恋愛が終わって間もなかったころで、人間の怒りという感情にものすごく敏感になっていた。誰かから怒りや憎しみの感情を向けられることにも疲れていたし、自分自身が誰かや何かに怒りを感じることにも疲れていた。だから、尾崎世界観とクリープハイプが放つ、強烈な「怒り」は、わたしにとってはとても鋭くて重たい刃に思えてしまって、もうダメだったのだ。
それから何年かが経ち。
ある日車の中でラジオを聞いていたら、とてもキャッチーなギターのリフが聞こえてきた。ぴょんぴょん飛び跳ねながら階段を上がっていくような軽快なギターリフに、わたしは一瞬で夢中になった。
「何だ、これ、なんの曲?誰だ?」と思って聞いていたら、歌い出したのは、あの尾崎世界観だった。
マンガみたいにずっこけたのを、今でもよく覚えている。失礼な話ではあるが、多分、「いやおまえかーーーーい!!」と声が出ていたのじゃなかろうか。
その曲と言うのが2017年にリリースされた「イト」である。映画のタイアップもあり、車に乗れば2回に一回は耳にしたのじゃないだろうか、というくらいにはヘビーローテーションされていたと思う。
ライブでも定番となっていて、今や大好きな一曲なのだが、当時はやっぱりまだ、最初の出会いで感じたあの「怒り」の感情への恐怖を払拭することができずにいたので、積極的にクリープハイプに手を出すということはしなかった。
そして、翌2018年。この年に、わたしとクリープハイプはついに結ばれることになる。
その年、FM802の春のキャンペーンソングとなった「栞」を書いたのが、尾崎世界観だった。たまたま初OAの日に車に乗っていて、その日だけで3回ぐらいこの曲を聞いた。
802のキャンペーンソングは、毎年必ず聴いているはずなのだけれど、「栞」は特に耳に残る印象的な一曲だった。綺麗でポップで切ない別れの曲なのに、でも前向きで。わたしはこの曲の事を、すぐに気に入った。
「栞」から少し経ったその年の夏、旅行で道後温泉を訪れた。
たまたま「道後オンセナート」というアートイベントの一環で、「クリープハイプの歌詩世界」という展示が開催されていて、展示物をいくつか見た。
クリープハイプの歌詞を、道後温泉の至る所に貼り付けたり、流したり、刺したり、ぶら下げたりして展示してあり、「言葉」というものを視覚的に体験させるとどうなるか、というものだった。
クリープハイプという存在は知っていても、曲はほとんど知らない私にとって、展示されていた歌詞たちは純粋に「言葉」であり、そういう「言葉」たちが立体になったり、巨大になったり、水の流れに自身を任せて流れていたりしているさまは、生き物じゃないけれど、どこか意思をもってそこに存在しているようで、とても新鮮だった。
あの時感じていた「怒り」の感情は、ほとんど感じられなかった。
それからさらに1か月ほど立ったある日。
わたしはとあるイベントの帰りで深夜バスに乗っていて、消灯までの間、時間を持て余していた。
何となく、ほんとうに何となくYoutubeを眺めていたら、「イト」のミュージックビデオを見つけた。何となくイヤホンをさして、何となく再生ボタンをタップした。去年聞いたあの軽快なギターリフが、するりと耳を通り抜けた。「この度はどうも」と、伺うようにボーカルが入り込んでくる。ペープサートで表現される、「何か」を風刺したとあるバンドのストーリー。へえ、クリープハイプのメンバーってこんな人たちなんだ。あれ、メンバーに一人だけ女の子、いるなあ(後になってわかったのだけれど、これ、長谷川カオナシ氏でした。初見は本当に女性だと思った)なんて思いながら、曲が進行していく。間奏でまたメロディアスなギターリフが差し込まれ、ペープサートが紡ぐストーリーも大きな山場を迎える。
メンバーがペープサートを操っていた「イト」をちょきんと切ったその次のカットで、大サビを歌う尾崎世界観とビシッと目が合って「あ、なんか分からないけどクリープハイプを聞くタイミングって今だな」と思った。
少々話が逸れるのだけれど、ちょうどこのころ、わたしは自分の感情に対して、ひとつの気づきを得ていた。それは、「わたしは自分がとても怒っているのに、そのことに気づいてない時がある」ということだ。
それまでの自分は、とにかく怒りという感情を顕にすることがいけないことだと無意識に思い込んでいたようで、最近あった出来事を誰か人に話していてはじめて「ああ、自分はそのことに対してこんなにも怒っていたんだな」と気づく事が多くなっていたのだ。
本当はことが起こっているその場で、きちんと自分の気持ちや、おかしいと思っていること、理不尽だと感じていることを自覚して、できるならばその場でちゃんと相手に伝えたほうが、人間関係としては健全なのだろうけど、過去の経験から、とにかく「怒り」に対する耐性が弱くなりすぎて、自分が怒っていることにすらも気づかないように蓋をしていまっていた、という状況だったのだと思う。
閑話休題。
クリープハイプとの縁がつながったことを確信したわたしは、「怒り」の感情が怖くてあの時避けてしまった「憂、燦々」を、恐る恐る聞いてみた。案外すうっと聞けた。「社会の窓」も、あの時ほど怖くなかった。
何かのインタビューで、尾崎世界観は「怒りは自分と相性いいと思う」と言っていた。
怒っていることを、何等かの形でアウトプットして伝えるということは、冷静さがないとできないことなんだな、と今になって思う。それが出来ているということは、歌詞の言葉よりも冷静に自分の感情を受け止めて消化してから曲にしているという事だと。
一方わたしは、自分の怒りに対して妙な恐怖心がったから、真っ向から向き合うことができなかったし、自分が怒っていることにすら気づかないほど距離を取っていて、だからあの時クリープハイプを避けたんだと思った。当時の自分にとって、尾崎世界観は「怒り」そのものに感じられてしまったのだ。
けれども、それを少しでも克服して、自分の中でちゃんと消化し昇華できたからこそ、わたしとクリープハイプの縁はつながった。
クリープハイプとは、好きな人はとにかく好き、苦手な人はとにかく苦手だと感じるバンドなのではないかと思うが、その実、「クリープハイプ苦手だな」と言う人ほど、彼らに惹かれているような気もしてしまう。わたしが昔、そうだったように。
そういう惹かれ方をするということは、もしかすると、そういう人たちこそ、クリープハイプの表現にどこか近い感情を抱えているんじゃないだろうか。
あれからもう4年半がたって、彼らとの思い出もそれなりにたくさんできた。今や、クリープハイプはわたしにとって、なくてはならない存在になっている。
過去の曲や、新しい曲と出会うたびに、自分と向き合うことも余儀なくされたし、ライブに参加すればその圧倒的なパフォーマンスを前に大暴れし、涙し、感情をミックスジュースにされて、好きというきもちはどんどん膨らんで、罰ゲームで破裂する風船よりも大きくなってしまったように思う。
決して「第一印象から決めてました」てはないのに、こんなにも愛が深い存在になるなんて、不思議なものだとつくづく思う。
そんな大きな感情を抱えながら、今日も彼らと向き合い、わたしの成長に寄与し続けてくれる彼らに、愛を語るのです。
(了)
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