日本車メーカーの歴史について

Mr.Xです。今回は、前回の記事で紹介をした中の日本車メーカーの歴史について紹介しますので、よろしくお願いします。

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・トヨタ
トヨタ自動車の前身は、1918年に設立された豊田紡織(紡織(ぼうしょく)=糸をつむいだり、はたを織る作業)という会社で、自動織機を使った綿製品を販売していました。

しかしその後、1929年の世界恐慌を転機に会社は多角化の構想を打ち立てます。その一つに量産型自動車の製造・販売という、今につながる土台ができあがりました。

戦時中は陸軍用のトラックや航空機のエンジンなどを製造し、経営は順調でした。しかし1949年の深刻なデフレ市場のあおりを受け、トヨタは財政難へと陥りました。

苦しい状況の中でしたが、「必要な物を 必要なときに 必要な量だけ生産する」というトヨタ独自のシステムをここで確立することになります。

1955年に純国産車である「トヨペットクラウン」を発表、1960年代には「カローラ」のヒットにより業界でのシェアはトップ、その地位は不動のものとなりました。

その後も次々と人気車種を発表し、ウィークポイントとされていた高級車部門においても、高級志向の新ブランド「レクサス」を1989年に北米を主要ターゲットとして立ち上げ、その成功により、日本の高級車が世界に通用することを証明しました。

90年代はバブル崩壊の影響もあり、トヨタのみならず業界全体が下火となりましたが、2000年代に入るとトヨタは年間にして数千億円規模という原価の低減を達成、他社との高い競争力を得ることに成功しました。

そして現在は1997年発表の世界初(当時)量産ハイブリッドカーである「プリウス」のロングヒット、海外での売上が好調な「ハイエース」、その他多彩なラインナップがどれもヒットして国内最大規模、最大売上の座をゆるぎないものとしています。


・日産
日産自動車のルーツは1911年に設立された快進社自働車工場にあります。そこでは小型乗用車の設計やトラックの開発に取り組んでいましたが経営悪化により1925年に一度会社は解散、ダット自動車商会と社名を変えて再出発をしました。

その後は生産拡大のため実業家・鮎川義介氏の設立した日本産業と戸畑鋳物の二会社の出資のもと本格的な自動車製造ラインを立ち上げ、1934年に社名を変更、日産自動車が誕生しました。

創業以来先進技術の吸収に貪欲なスタイルで、大型乗用車製造のヒントとしてアメリカのメーカー、グラハム・ペイジから設備・設計図の購入、また戦時中の空白期間の穴埋めとしてイギリスのメーカー、オースチンとの技術提携も積極的に行いました。

そこで培った技術力を評して「技術の日産」と呼ばれるに至り、80~90年代には「901運動」という90年代までに技術力で世界一となる自動車メーカーになるという目標を掲げ、その粋は「R32」や「Z32」といった車種に惜しみなく投入されて高評価を得ました。

一方でバブル崩壊の影響は避けられず高級セダンの販売は減少、1998年には2兆円規模の高額負債を抱えて経営危機へと陥りました。

会社の立て直しが急務だった日産は1999年にフランスのルノーとの資本提携を結び、当時ルノーの副社長だったカルロス・ゴーン氏をトップに招いて大胆なコストカットや車種ラインナップの整理、デザインの見直しなどを図り業績不振からの脱却に成功しました。

2000年代~2010年代前半は常々好調な売上を記録、その背景には会社全体に脈々と受け継がれる妥協のない技術力や、先のルノーとの部品共通化の推進などがありました。

近年は車種完成検査と呼ばれる検査の過程での不祥事、経営トップであるカルロス・ゴーン氏の起訴・解任騒動などがありましたが、会社は今も技術力の追求・向上を第一に掲げ、時代が必要とする車のあり方と真摯に向き合っています。


・ホンダ
1946年、創業者である本田宗一郎氏が本田技術研究所を開設したのが始まりでした。研究所では当時ガソリンや軽油、各種工作機械の製造を行っていた傍ら、原動機付自転車(原付)や自動二輪車の研究も熱心に取り組んでいました。

2年後の1948年、この本田技術研究所を継承する形として、本田技研工業株式会社が設立されました。ホンダ初となる自社設計二輪車「ドリームD型」はこの頃に作られ、生産を開始しました。

1950年代は二輪車の生産台数においては右に出る者がなく、工場の積極的な新設・稼働および全国5,000か所以上の自転車販売店に対して営業ダイレクトメールを送信して販売網の確立も行いました。結果、1955年には二輪車の生産台数において日本一を達成しました。

二輪一辺倒ともいえるホンダの躍進ぶりでしたが、転機が訪れます。1962年頃より四輪車への進出に意欲を出して本格的な参入を表明しました。翌年、ホンダ初の四輪軽トラックである「T360」、小型スポーツカーである「S500」を販売しました。

1970年代初頭までは名実ともに日本を代表する二輪車メーカーとして君臨していましたが、1972年に「シビック」を、1976年に「アコード」をそれぞれ販売するなど四輪車メーカーとしての存在感を増してきたのはこの頃になります。

1980年代に入り、世界初となる自動車用ナビゲーションシステム(カーナビ)の完成(1981年)や日本のメーカー初となるアメリカでの現地四輪車生産の開始(1982年)など四輪車界での大きな躍進も遂げました。

その後は時のスーパー/スポーツカーブームにフィットする形で同社フラッグシップスポーツカーである「NSX」の発売、また胴体・脚・腕のついた本格的人間型ロボット「P1」の開発・成功など他のメーカーとは一線を画した戦略を打ち出しつつも、1994年には当時新ジャンルの車種であった「オデッセイ」を大ヒットさせ、会社の業績回復に貢献しました。

そして現在は主力車種であるコンパクトカーや軽自動車の生産をメインに、二輪車部門においてもオートバイの販売台数および売上高で世界首位という不動の地位を築き上げています。


・マツダ
マツダは1920年に設立された、東洋工業コルク株式会社というコルクを製造する会社を前身とします。同社はその後1927年に東洋工業株式会社へと社名を変更、翌1928年~終戦までは国や政府から軍需工場(武器・弾薬など軍事で使用する部品の生産工場)の指定を受け、それらの開発・生産に乗り出しました。

そんな中、1931年に三菱商事と三輪トラックを生産する契約の話が持ち上がり、締結しました。このトラックは通称「マツダ号」と呼ばれ、同社の自動車製品開発の第一号となっています。

太平洋戦争末期、広島県の郊外に本社や工場を置いていたマツダへの、同県へ投下された原子爆弾による建物への直接の影響はありませんでしたが、それでも1945年12月までは生産停止を余儀なくされました。

1950年に日本初となる小型の四輪トラックを、1960年には同社初の乗用車である「R360クーペ」を発売し、自動車メーカーとしての存在感を際立たせてきたのはこの頃です。

「R360クーペ」発表から翌年、NSU社(現:アウディ)よりロータリーエンジン(一般的な往復運動によるエネルギー発生とは異なり、回転運動によりエネルギーを発生させるエンジン機構)についての技術提携を受けたマツダは、1967年にそのロータリーエンジンを搭載した「コスモスポーツ」を発売しました。このエンジンの量産化に世界で唯一成功したことはマツダの大きな強みとなりました。

ただ、1989年に行った経営戦略の一つ「5ャンネル化」は大失敗となりました。この戦略は車種ごとに販売店を細かく分けてより一層販路を拡げようという作戦でしたが、その急激な販路拡大に市場もマツダ自身も追いつかず、結果的に業績低迷ということになってしまいました。

2000年には小型のスポーツカーとして確固たる地位を築いていた「ロードスター」が2人乗り(ツーシーター)小型オープンスポーツカーのジャンルで生産台数世界一となり、ギネス記録に認定されました。

そして近年では2010年にトヨタとハイブリッドシステムの技術供与に合意、また同年10月には次世代技術である「SKYACTIV TECHNOLOGY」(通称SKYACTIV。エンジン、変速機、ボディなど多方面にわたり改良し、燃費の改善などを目指すもの)を発表、環境性能の強化および積極的な取り組みの姿勢で自動車業界の一角を担っています。


・スバル
スバルの起源は1917年に設立された「飛行機研究所」がルーツで、時は第一次世界大戦のさなか、軍用機向けのメーカーとしてその歴史をスタートさせました。軍用機の製造は終戦まで続けました。

終戦後は社名を「富士産業株式会社」へと変更、平和産業へのシフトを図っていた矢先にアメリカのGHQによって会社の解体・分解を命じられました。分割されたうちの1つ「富士自動車工業」が自動車の開発に乗り出したことが、自動車メーカーとしての始まりです。

最初に開発されたのは「P-1」という1954年製の小型乗用車でした。市販化には大きな意欲を出していたものの、莫大な資金を要する生産設備や販売網づくりなどの壁が立ちはだかり、P-1市販化の夢は流れてしまいました。

4年後の1958年、エンジニアである百瀬晋六氏の考案・開発により軽自動車「スバル360」が販売されました。この車は当時高嶺の花であった自動車を、広く一般家庭に普及させる原動力となりました。

日本初であるFF(フロントエンジン・前輪駆動)乗用車「スバル1000」は1966年に販売され、現在まで続く同社のアイデンティティでもある水平対向エンジンを搭載した初めての車にもなりました。その後も「レオーネ」(1971年)、「レガシィ」(1989年)、「インプレッサ」(1992年)など、スポーティなAWD(四輪駆動)車というイメージを確固たるものとし、今現在でもそのスタイルは貫いています。

1989年は300億円の営業赤字となるなど深刻な経営危機状態に陥ったこともありましたが、その後は次第に国内および北米市場での販売回復に成功。実業家・川合勇氏の経営再建による地道なコスト削減努力の継続が背景にありました。

2005年にはトヨタとの資本提携があり、その中でスバルは自社の北米工場でトヨタ車の生産を請け負ったり、品質管理・コスト削減のノウハウをトヨタから学びました。また風力発電事業や軽自動車生産からの撤退という「選択と集中」を進め、こうしたことが2015年の業界利益率1位に繋がりました。

近年においては2016年に社名を「富士重工業株式会社」から「株式会社SUBARU」へと変更、ヤマハ発動機への産業機器部門の譲渡など商号変更とともに同社は新時代を迎えることになりました。またかねてより関係の深かったトヨタとは関連会社の関係となり、さらなる連携強化へと歩みを進めています。


・三菱
1917年に三菱造船株式会社が設立されたのがルーツで、同年「三菱A型自動車」の試作が始まりました。その試作車を含めて全22台が生産されてそのうち12台は販売されたため、日本初の量産自動車かつ見込み生産による乗用車量産の第一号となっています。

1934年には造船事業のほかに重機や航空機、鉄道車両などの製造も行うようになりました。またこの頃に社名を「三菱重工業株式会社」と変更し、新たなスタートを切りました。

終戦後の1945年、アメリカのGHQによって財閥の解体および会社の分割を命じられ、三菱重工業も3社に分けられることとなりました。のちにその3社は再び合併しますが、分割された当時は3社間での開発製品の重複が多発し、スムーズに事業を進められませんでした。

1953年にアメリカのクライスラーより「ジープ」のノックダウン生産(主要部品を輸入後、自国で組立および販売を行うこと)を開始し、同年にはジープ1号として54台を林野庁(林業の発展などを図る、農水省管轄の事業)に納入しました。

1960年販売の完全自社開発車である「三菱500」を皮切りに、同社初の軽自動車「ミニカ」(1962年)、当時斬新なエクステリア(外観)で話題となった「コルトギャラン」(1969年)など、1960年代は販売する車がどれもヒットとなりました。

自動車の製造および販売を執る部門が独立する形で、現在の商号である「三菱自動車工業株式会社」が1970年に誕生しました。

その後も同社は順調に開発・製造・販売を進め、1973年には韓国のメーカー・ヒュンダイとの間に小型車用のエンジンやギアといった生産技術を供与するという契約を結んだり、1991年にはオランダ政府およびスウェーデンのメーカー・ボルボと乗用車の合弁生産契約に調印するなど、海外メーカーとの接触や提携にも力を注ぎました。

近年では2006年に軽自動車「i」がグッドデザイン賞の大賞を受賞、2013年にはスズキとの間に軽商用車のOEM供給での基本合意をするなどさらなる躍進を見せています。


・スズキ
1909年に創業者である鈴木道雄氏が「鈴木式織機製作所」という織機製作を行う会社を設立したのが同社の起源となります。

新事業にも積極的であった同氏は「近い将来に四輪車の時代が来る」と確信し、自動車開発に取り組みはじめ、1936年には試作車を完成させましたが、太平洋戦争のために開発の一時中断を余儀なくされました。

終戦後の1951年、強い風にあおられない自転車の開発を目指して補助エンジンを搭載したバイクモーターという二輪車の開発に着手しました。試作を重ね、翌年には同社初のバイクモーターである「パワーフリー号」を発表・販売し、順調な売れ行きを見せました。

その後パワーフリー号の設計を受け継いだ「ダイヤモンドフリー号」もヒットし、この頃から自転車に取り付ける補助エンジンという形から本格的なオートバイを作る方向へと舵を切るようになりました。

1954年には同社初のオートバイである「コレダ号CO型」を発表、その傍らレース競技にも積極的に出場し、1962年のマン島TTレース(世界で最も危険と言われる二輪のレース)の125cc部門で優勝しました。

社名を「鈴木自動車株式会社」に変更した翌年の1955年、同社初の量産四輪車にして日本初の軽自動車である「スズライト」の販売を開始しました。

1970~90年代にかけては数々の個性的な車が作られました。オフロードに強い日本を代表する軽クロスカントリー車「ジムニー」(1970年)、徹底した装備類の簡素化により低価格を実現した「アルト」(1979年)、スポーツカー全盛期に販売された軽スポーツカーの中で断トツの注目度・販売台数を誇った「カプチーノ」などがこれに当たります。

そして現在のスズキはジムニーやアルト、ワゴンRといったスズキ伝統の車種を作り続けながら、その一方でハスラーやバレーノ、イグニスといった新型車種も展開しています。


・ダイハツ
ダイハツはその前身「発動機製造株式会社」が1907年に設立され、同年に日本初の国産エンジンである「6馬力・吸入ガス発動機」を発明しました。その後は小型のディーゼルエンジンや鉄道車両用の機器などを手掛けることが多くなりました。

1930年に試作型の小型オート三輪である「ダイハツ号HA型」を開発、自動車業界への本格的な参入をしました。

1957年に販売した「ミゼット」はその使いやすさと低価格設定から好評を博し、特に商店や配送業者といった業界からのニーズもあり、大ヒットを記録しました。同車はインドネシアやタイといった諸外国にも輸出され、現地の人々の生活向上にも大いに貢献しました。

その後も数々の車種を開発・販売していったダイハツは1967年、外車の国内流通を防ぎたかったトヨタの思惑に賛同、両社間で業務提携を結びました。ダイハツ製のエンジンは当時とても優れており、トヨタは自社の車にダイハツ製エンジンを搭載するようになりました。

1977年にはダイハツの独自開発車であるコンパクトカー「シャレード」を販売。「4ストローク直列3気筒ガソリンエンジン」という、振動の問題などから多くの他メーカーに敬遠されていたエンジンを採用し、低燃費と高い動力性能を実現してその年のカーオブザイヤーを受賞。名実ともにダイハツの四輪車は大きな躍進を遂げました。

またトヨタとの関係も次第に深くなり、1998年にはスズキの株式の過半数をトヨタが取得、同社の連結子会社という形になりました。アジアなどのいわゆる新興国での小型車販売を成功させたかったトヨタと、そのトヨタの生産力や先進技術を頂戴してダイハツブランドのさらなる前進を図ったダイハツとの思惑は一致しました。

その後は「ムーヴ」(1995年)や「タント」(2003年)のシリーズがヒットを記録、2006年には軽自動車の年間販売台数で30年以上連続1位であったスズキを抜いてトップとなりました。

そして現在、同社はトヨタの完全子会社(ダイハツ株式の100%をトヨタが取得)となり、トヨタグループにおける小型車部門としての立場を確立し、国内外での小型車シーンをけん引しようとしています。


感想
どのメーカーも戦争の関係で一時的に本業から離れたり会社解体などの憂き目にあいましたが、強い信念と行動力で自動車の製造を続けて現在に至っているんだなと思いました。


最後までお読みいただきありがとうございました。

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