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【つの版】ウマと人類史:中世後期編16・韃靼疾風

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 15世紀から16世紀にかけて、モンゴル高原や中央アジア、イラン高原、北インドは激動の再編期を迎えていました。その西方はどうでしょうか。まず北方のジョチ・ウルスから見ていきましょう。

◆US◆

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金帳東方

 チンギス裔の王族を戴く広大なジョチ・ウルスは、王位継承争いのたびに有力な遊牧集団がぶつかり合い、複数の部族連合に分裂していきました。東方では前回見たようにウズベク集団を率いたシャイバーニー朝が自立し、1500年頃にマーワラーアンナフルをティムール朝から奪い、サマルカンド(のちブハラ)を都としてこの地で長く栄えました。

 1510年にサファヴィー朝がシャイバーニー朝を打ち破ったのち、ホラズムはサファヴィー朝の支配下に入りますが、1512年にシバン家のイルバルスらが反乱を起こして独立、ホラズムの都市ウルゲンチでハンに即位してウルゲンチ・ハン国を建国します。イルバルスは同じシバン家でもシャイバーニー朝とは別系に属し、互いに争っていました。17世紀前半にはアム川の流れが変わってウルゲンチが衰退し、南西のヒヴァに都を遷しています。

 前回見たように、15世紀中頃にウズベク集団から分離したのがセミレチエ地方のカザフ・ウズベクで、のちカザフ・ハン国となります。シャイバーニー朝が南下すると西へ勢力を広げ、キプチャク草原の東半分(カザフ草原)を支配下に納めました。現在のカザフスタンの原型です。

 カザフ草原の北、ウラル山脈の東にはシビル・ハン国が形成されました。アルタイ山脈に源流を持つイルティシュ川上流域はジョチの最初の領地で、ジョチ・ウルスは川沿いに拡大して中流域を支配下におさめ、森林の狩猟民に毛皮を貢納させていました。やがて各河川の合流地に毛皮や物資の集積所が造られ、世界中の交易路と結びつく都市となります。

 15世紀前半、シバン家のアブル=ハイル・ハンはこの地の都市チンギ・トゥラ(チュメニ)を拠点に勢力を広げますが、1446年にシル川流域へ南下したため、残ったシバン家王族とケレイト系のタイブガ家が抗争を繰り広げました。両家は時に婚姻して姻族ともなりましたが、1464年にシバン家のイバクはタイブガ家のマールを殺しチンギ・トゥラを占領、アブル=ハイルから自立してハンを称します(テュメン・ハン国)。

 1493年、イバク・ハンはチュメニから250kmほど北東のイスケル(カシリク、現トボリスク付近)に都を遷しました。チュメニはテュルク語で「万」を、イスケルは「部屋/宮廷」を、カシリクはおそらく「匙(kashuk)」を意味しますが、ここは「シビル(Sibir)」とも呼ばれています。これは諸説ありますが「現地(sibe)の国(ir)」を意味するといい、ロシア人はこの国をシビル・ハン国、シベリアと呼びました。イバクは1495年タイブガ家に殺されますが、7年後にイバクの子がハンに即位し、両者の抗争は続きます。

金帳西方

 ウラル山脈の西側、ヴォルガ川上流域、かつてのヴォルガ・ブルガール王国の地には、1438年にカザン・ハン国が建国されました。建国者はウルグ・ムハンマド(大ムハンマド)といい、ジョチ裔トカ・テムル家に属します。1419年にエディゲが死ぬと、彼はサライに入りジョチ・ウルスのハンとなりましたが、1422年にはティムール朝の支援を得たバラクにサライを追われます。彼は西の大国リトアニアを頼り、1426年にバラクを撃破してサライに帰還しますが、その勢力はサライ周辺にしか及ばず、全く不安定でした。

 この頃、サライの南、カスピ海沿岸のアストラハン(ハジタルハン)にはエディゲの残党ノガイ・オルダに支持されるクチュク・ムハンマド(小ムハンマド)が割拠し、西のクリミアを抑えるサイイド・アフマドと手を組んでサライを狙っていました。1437年、両者はついにウルグ・ムハンマドをサライから追い出し、彼はヴォルガ川沿いに逃げ、カザンに到達したのです。

 ウルグ・ムハンマドはこの地で態勢を立て直し、ジョチ・ウルスの属国であったルーシ諸侯を従えるべく戦い始めます。当時このあたりはリトアニアとモスクワ大公国の係争地で、オカ川上流公国群と総称される小国が分立していたため、ウルグ・ムハンマドは容易く勢力を広げました。

 モスクワ大公ヴァシーリー2世はこれを押し留めんと出兵しますが打ち破られ、1439年にはモスクワまで迫られ、1445年には捕虜となり、莫大な身代金を支払って釈放される有様でした。同年ウルグ・ムハンマドは逝去し、子のマフムーデクが跡を継ぎますが、マフムーデクの弟カーシムは兄との争いに敗れてモスクワに亡命します。ヴァシーリーは歓迎し、1452年にカザンとモスクワの間の地を授けハンとしました。これがカシモフ・ハン国です。

 代々タタール(ジョチ・ウルス)のハンから権威を授かっていたモスクワ大公が、すぐ近くに傀儡政権・緩衝国・同盟国としてハンを戴く国を建てたのです。カザンやリトアニア、クリミアからの侵攻を防ぐにも、カシモフの騎兵は充分な戦力でした。これによりモスクワは勢力を強めます。

韃靼之軛

 1462年にヴァシーリーが逝去すると、息子イヴァン3世が即位します。彼は周囲の諸侯国を併呑し、1472年にはローマ教皇パウルスの勧めで東ローマ帝国の皇女ゾイ・パレオロギナを娶りました。またこの頃からツァーリ(皇帝)の称号も名乗り始めますが、タタールのハンやブルガリアの皇帝もツァーリと呼ばれており、東ローマ帝国を継承したわけではありません。後から「ロシアは第三のローマだ」とするプロパガンダの根拠にはなりましたが。

 イヴァン3世は1478年にはノヴゴロド共和国を併合し、西のポーランド・リトアニア、東のカザン・ハン国やサライ政権(サライの大オルダおよびアストラハン)と対立しました。各国がモスクワに対抗すべく手を結ぶと、モスクワは南のクリミア・ハン国と同盟します。これは1441年頃にトカ・テムル家の一派が建てた国で、クリミア半島とアゾフ海・黒海北岸の草原地帯を擁し、当時のジョチ・ウルス後継国家群の中では特に強大でした。

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 時の君主メングリ・ギレイはオスマン帝国の支援を受けて即位しており、その宗主権を認める事実上の属国でした。間接的にモスクワもオスマン帝国の支援を受けていたことになります。クチュク・ムハンマドの子で大オルダの君主アフマド・ハンは、カザン・ハン国の内紛に乗じてヴォルガ川を遡上し、モスクワを服属させ貢納させようと軍勢を率いて攻め寄せます。1480年10月、イヴァン3世は兵を率いて出陣し、ウグラ川を挟んで対峙しました。

 両軍の対峙は小競り合いを挟んで1ヶ月に及びます。冬が来て川が凍結すれば、アフマドの軍勢はこれを渡ってモスクワを蹂躙したでしょうが、攻めあぐねたアフマドは背後が心配でもあり、11月に撤退しました。モスクワ側は「タタールのハンを退け、タタールのくびきからルーシを解放した」と喧伝し、歴史的な大事件だと持ち上げていますが、モスクワが東西を有力な敵国に挟まれた危険な状況にあるのは変わりません。

 幸いにも、アフマド・ハンは1481年にシビル・ハン国のイバクに殺され、大オルダは内紛で衰退します。イヴァンはこの隙にカザン・ハン国の内紛に介入し、クリミアの支援する王族をハンに据えて属国化をはかります。1487年にはこれが成功しますが、イヴァンは援軍の見返りに「タタール」への贈物を続けており、カシモフのハン国も存続させていますから、「タタールのくびき」がなくなったわけではありません。

立陶侵攻

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 この頃、モスクワの最大の敵はリトアニア大公国でした。もとはバルト海沿岸の小国でしたが、モンゴル帝国の支配に反発したルーシ諸侯を取り込んで勢力を広げ、現在のベラルーシとウクライナの大部分にまたがる東欧最大の大国となっていました。西のポーランドとは同盟し、南のクリミア・ハン国、オスマン帝国とは対立しています。寄り合い所帯ではあるものの、東方からヨーロッパ世界を守る壁として大きな役割を果たしていたのです。

 時のリトアニア大公カジミェラス/カジミェシュは1447年からポーランド王を兼ね(同君連合)、長男ヴワディスワフをボヘミアとハンガリーの王位につけ、半世紀近く在位した東欧随一の実力者でした。しかし彼が1492年に逝去すると後継者争いで分裂し、イヴァン3世はこれを好機としてリトアニアへ侵攻します。クリミア・ハン国と組んでの侵略戦争は一進一退でしたがベラルーシやウクライナの東部をもぎ取り、モスクワ大公国はイヴァン3世の代に大きく領土を拡大したのです。

 1502年、クリミアのメングリ・ギレイ・ハンはサライ政権を滅ぼしてハーカーン(可汗/皇帝)と号し、ジョチ・ウルス裔諸国に対する宗主権を主張しました。これは「ジョチ・ウルスの滅亡」ではなく、むしろその再建です。サライ政権のシャイフ・アフマド・ハンはリトアニアに亡命し、有用な人質として20年以上も監禁状態に置かれます。クリミア・ハン国はモスクワの拡大を警戒して対立するようになり、同じジョチ裔のカザン・ハン国に使者を送って、モスクワを東から脅かさせました。

 1505年にイヴァン3世が逝去すると、息子ヴァシーリーが跡を継ぎます。同じ頃カザン・ハン国はモスクワに反旗を翻し、ヴァシーリーは翌年カザンへ遠征しますが大敗を喫しました。1507年に両国は和平条約を結び、モスクワはタタールへの「贈り物」を続けることで軍事支援を取り付けています。相対的に強国になったとはいえ、モスクワはいまだ圧倒的な戦力を持たず、大国リトアニアに対抗するにはタタールの支援がまだ必要でした。ヴァシーリーの子イヴァン4世は、これを打破すべく奮戦することになります。

◆歴史の◆

◆歯車◆

 ジョチ・ウルスは大きく分裂・変容しながらも、クリミア・ハンを宗主とする連邦として生まれ変わりました。そのクリミア・ハンに対して宗主権を持っていたのがオスマン帝国です。ティムールによる崩壊を乗り越えたこの帝国は、1453年に東ローマ帝国を滅亡させ、東地中海と黒海沿岸に勢力を広げて、まさに最盛期を迎えていました。

【続く】

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三宅つの
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