【つの版】度量衡比較・貨幣79
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
織田信長の家臣であった羽柴秀吉は、主君の仇・明智光秀を討って織田家を牛耳り、新たな天下人として日本統一を実現していきます。この頃、日本の外はどうなっていたのでしょうか。
◆比律◆
◆賓国◆
破産宣言
1556年1月、スペイン王カルロス1世/神聖ローマ皇帝カール5世は長年の統治と痛風のため退位し、スペイン王位とネーデルラントを息子フェリペに、神聖ローマ皇帝の帝位とオーストリアを弟フェルディナントに譲りました。広大なハプスブルク家領は東西に分裂し、オーストリア・ハプスブルク家はオスマン帝国やプロテスタント勢力と対峙しつつ東方を治め、スペイン・ハプスブルク家は海外貿易を行いつつ西方を支配することになります。
スペイン王フェリペ2世は、父の遺産として莫大な借金を継承し、即位の翌年には破産宣言(国庫支払い停止宣言、バンカロータ)を行っています。在位中にはさらに3回もバンカロータをしており、経済的に厳しい状況ではありましたが、彼は文書行政による中央集権体制を整え、首都をマドリードに遷し、その宮廷から広大な領土を支配しました。また父や叔父とは異なり熱心なカトリックで、プロテスタントを激しく迫害しています。
こうしたフェリペの政策に対し、プロテスタントが広まっていたネーデルラントは反発を強めます。フェリペ側も増税や異端審問を行って締め付けを強めたため、1568年ついにネーデルラント諸州はスペインへの反乱(独立戦争)を開始します。ただカトリックが多い南部(現ベルギー)は比較的スペイン寄りで、最終的には北部(現オランダ)のみが独立しました。
ハプスブルク家の宿敵フランスでも1562年以降ユグノー(カルヴァン派プロテスタント)が反乱を起こしており内戦状態で、対外戦争どころではありません。このユグノー戦争は1598年まで30年以上続き、フランスを疲弊させています。フェリペはカトリックの盟主として対プロテスタントの立場を貫き、ユグノー戦争でもカトリック派を支援しました。
1571年、フェリペは教皇庁・ヴェネツィア共和国・マルタ騎士団らと連合して海軍を派遣し、オスマン帝国の大艦隊を東地中海のレパントで撃破しています。地中海の制海権はなおもオスマン帝国が掌握していたものの、スペインはヨーロッパの守護者としての栄光を手に入れたのです。これらの莫大な戦費を支払うためにも、スペインはカネを稼がねばなりませんでした。
呂宋征服
1559年、フェリペは第二代ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)副王ルイス・デ・ベラスコに対し、太平洋の彼方の香料諸島とフィリピン諸島を征服して植民地にせよと命じました。1542年スペインの探検家ビリャロボスがこの地を訪れ、当時皇太子だったフェリペの名を冠してそう名付けましたが、彼はポルトガル人に捕まって獄死しています。ベラスコは大事業であるからとして保留したのち、1564年初頭にミゲル・ロペス・デ・レガスピを遠征の司令官に任命しました。ベラスコは同年7月に逝去しますが、レガスピは11月に5隻の艦隊と500人の兵士を率いて出航します。
レガスピは3ヶ月かけて太平洋を横断し、1565年2月にフィリピン諸島のセブ島に上陸します。彼は現地人たちと交渉して同盟し、セブ島東岸の町を征服して入植地を建設しました。レガスピはここを拠点として要塞化し、メキシコからの増援を招き入れて兵力を増強しつつ、偵察隊を派遣して周辺の情報を集めていきます。この頃、北方のルソン島にマニラという港町があり、明国から華僑がやってきて盛んに貿易を行っていました。
1569年末、スペイン人たちはセブ島を出発してマニラを目指し、各地を探検して明国の商人や海賊と衝突しつつ、1570年5月にマニラに到着します。マニラの王ラジャ・スリマンはイスラム教徒でしたが、スペイン人を歓迎して同盟を結び、友好的に接しました。しかしスペイン人たちは戦いを仕掛けてマニラを占領し、ここにフィリピン総督府を置きます。レガスピは1572年に70歳で逝去しましたが、以後フィリピン諸島は250年以上に渡ってスペインの植民地支配下に置かれることとなりました。
フィリピン諸島とヌエバ・エスパーニャは太平洋を横断する定期船航路「マニラ・ガレオン」で繋がれます。これは1565年に修道士ウルダネータによって切り開かれた航路で、セブ島から北緯38度まで北東に進み、太平洋を東へ吹く貿易風をとらえたものです。彼は北米西岸のカリフォルニアに到達し、陸沿いに南下してメキシコ南岸のアカプルコ港まで戻りました。片道は4ヶ月もかかりますが、これによってスペインは東アジアや東南アジア諸国との貿易が可能になったのです。
イエズス会は教皇に直属する国際的なカトリック団体ですからいいとしても、マラッカ海峡や香料諸島を抑え、マカオや日本にまで進出していたポルトガルにとって、商売敵であるスペインがフィリピン諸島に恒久的な拠点を確保したことは一大事です。ただ当時のポルトガル王セバスティアンは母方がハプスブルク家(フェリペの姉妹フアナの子)で、スペインとは友好的でしたし、フィリピン植民地はまだ弱体で、大きな敵ではありませんでした。
洋銀到来
ただし、スペイン人はフィリピンを介して大量の銀貨を持ち込み、貿易の決済に用いています。この頃メキシコやペルーでは銀山開発が進んで莫大な銀が産出されるようになり、欧州では価格革命を引き起こすほどでしたが、マニラにおける明国商人との取引でも大いに活用されたのです。明国商人は銀貨を喜び、絹や陶磁器、漆器、香辛料などをスペインに売りました。
この銀貨は同時代に欧州で通用した大型銀貨ターラー(Tarler)で、重さ27g(1オンス)ほどあり、スペインのレアル銀貨の8倍の価値がありました。北ドイツではダーラー(Dahler)と訛り、英語でダラー(Dollar、ドル/$)となります。アメリカ合衆国では独立以来19世紀中頃までこのスペイン銀貨を使用しており、現在でもドルを通貨単位として用いています。
16世紀半ば以前は銀1gが現代日本円で3000円ほどに相当したとして、銀27gは約8万円(1レアルは1/8ターラー=3.375gとして1万円)ですが、例の価格革命で1580年頃までには欧州での価値が1/3になっています。従って銀1g=1000円、1レアル=3375円、1ターラー=8レアル=2.7万円にしかなりません。しかし東アジアでは石見銀山があるとはいえ銀はまだ不足していますから、銀1匁(3.73g)がまだ1万円ぐらいには相当します。銀を輸入に頼る明国では銀の価値はさらに高く、メキシコから銀を持ち込めば莫大な商品が購入できました。太平洋を往復するのは大変でも、持ち帰れば巨額のカネになるわけで、まさしく「ドル箱」だったのです。
1578年、ポルトガル王セバスティアンが隣国モロッコとの戦争で戦死すると、ポルトガルは大混乱に陥り、1580年にスペイン王フェリペが同君連合の形でポルトガルを併合します。ここにイベリア半島の両国とその植民地は同一の君主のもとで統一され、フェリペは文字通り地球を一周する領土を有する、史上初の「太陽の沈まない帝国」の君主となりました。
◆Marcha◆
◆Real◆
【続く】
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