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【つの版】徐福伝説08・熊野徐祠

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

徐福の登場から千年余り後、チャイナに渡った日本僧・寛輔によって、初めて「徐福が日本に渡来した」「蓬萊とは富士山である」「徐福らの子孫は秦氏である」という伝説が一揃いで出現しました。これが寛輔の口から出任せなのか、伝説を繋ぎ合わせたのかはわかりませんが、この伝説をもとにしてチャイナや日本各地で徐福伝説が新たに生まれて来たようです。

◆柔◆

◆濡◆

鮫大魚

平安後期、1120年代に成立した説話集『今昔物語集』巻10第1話に「秦始皇在咸陽宮政世語」があり、おおよそ『史記』始皇本紀に準拠した物語が伝わっています。徐福の名はなく、方士という個人名と誤解されており、日本や富士山に到達したとの話もまだありません。大鮫魚は高大魚と記されます。

1370年頃までに成立した『太平記』の巻26「妙吉侍者事付秦始皇帝事」に、これを甚だ誇張した伝説が語られています。竜神の化身である鮫大魚は長さ500丈(1500m)もの大怪獣で、獅子の頭とドラゴンの体を持ち、始皇帝は連弩を放つため大船数万艘に合計300万人もの兵士を載せ、数百万の毒の矢でこれを射殺したといいます。

徐福の名はありますが、日本に来たとは書かれていません。また徐福と共に文成という道士が現れますが、彼は徐福の同時代人ではなく、漢の武帝が文成将軍に任命した斉の方士・少翁のことで、白楽天の「海漫漫」に並んで出て来るため間違えたのでしょう。

九夷日本

与太話はさておき、徐福が日本に来たという伝説は、まだ一般的ではないようです。ただ1343年に編纂された北畠親房の『神皇正統記』では欧陽脩の『日本刀歌』を参考にしたものか、「焚書坑儒以前のチャイナの書物が日本に渡来した」という伝説を書き記しています。

○第七代、孝霊天皇は孝安の太子。御母押姫、天足彦国押人命の女也。辛未年即位。大和の黒田廬戸宮にまします。三十六年丙午年、もろこしの周の国滅して秦にうつりき。四十五年乙卯、秦の始皇即位。此の始皇仙方をこのみて長生不死の薬を日本にもとむ。日本より五帝三皇の遺書を彼の国にもとめしに、始皇ことごとくこれをおくる。其後三十五年ありて、彼の国、書を焼き、儒をうづみにければ、孔子の全経日本にとゞまるといへり。此事異朝の書にのせたり。

『日本書紀』によれば神武天皇即位は西暦紀元前660年辛酉で、孝霊天皇36年丙午は前255年、45年乙卯は前246年です。実際この頃に周が滅び始皇帝が即位しています。徐福が始皇帝に出会った始皇28年(前219年)は孝霊天皇の72年にあたり、焚書坑儒が行われた始皇34-35年(前213-212年)は孝元天皇の2-3年、始皇帝が大魚を射殺し崩御したのは始皇37年(前210年)、孝元天皇の5年にあたります。『神皇正統記』は続いてこう記しています。

我が国が異国に通じたのは神功皇后の三韓征伐以後で、経史の学が伝わったのは応神天皇以後だと言われている。孝霊天皇の時代から文字があったとは聞かないことだが、上古のことゆえわからない。応神朝に伝わったという文書も現存せず、遣唐使が伝来した本が流布しているのだから、あながち疑うのもどうであろうか。
また(チャイナでは)我が国を君子不死の国といい、孔子は乱世を嘆いて「九夷に居らん」と言ったというが、日本は九夷東夷のひとつであろう。四海(四夷)は東夷・南蛮・西羌・北狄といい虫・羊・犬を従えているが、東の人は仁があり長命なので大に弓(夷)という。孔子の時すら我が国のことを知っているのなら、秦の世に交通があったことを怪しむには足るまい。

北畠親房は鎌倉末期に源氏長者となり、後醍醐天皇に仕えて南北朝の動乱を生きた人物です。彼は「大日本は神国なり」「天地開闢以来、皇統は不可侵であった」と唱えましたが、単なる国粋主義者や南朝絶対主義者ではありません。「帝王が徳を修めなければ帝位は別の皇統に遷る」とし、後村上天皇に帝王学を教えるためにこの書を編纂したとされます。なので愛国心からの妄説ではなく、きちんと漢文献に出典があります。

子欲居九夷。或曰「陋如之何」子曰「君子居之、何陋之有」

孔子が「九夷に居らん」と言ったというのは、『論語』子罕篇にあります。彼がそう言うと、ある人が「そんな陋(野蛮未開の地)でどうされるのです」と言いました。孔子は「君子がこれに居るのだから、何の陋があろう」と答えたと言います。これは別に「九夷にも君子が住んでいるから大丈夫」と言ったわけではなく、「君子であるわしが東夷を教化するから問題ない」と言ったに過ぎません。

また『論語』公冶長篇には、孔子が「ああ、世に道が行われない。わしは桴(いかだ)に乗って海に浮かぼうか。わしの弟子のうち、従って来るのは由(子路)ぐらいなものだろうな」と言い、子路が聞いて喜んだとあります。

この2つの記述が結び付けられて「東海の彼方には君子国がある」と誤解され、朝鮮半島諸国や日本が「君子国」と称したり称されたりするようになりました。まあ箕子が朝鮮を教化したとの伝説もありますが。なお『論語』は例の劉歆が持ち出した「古文経」のひとつで、孔子が実際にそう言ったかは定かでありませんが、そういう伝説はあったのでしょう。

また『後漢書』東夷伝序文にはこうあります。「王制に『東方を夷という』とある。夷とは柢(てい、根元)の意味である。言が仁で生を好み、万物は地に根ざして出る。ゆえに天性は従順で道をもって御しやすく、君子の国や不死の国に至る。夷には九種あり、畎夷、於夷、方夷、黃夷、白夷、赤夷、玄夷、風夷、陽夷で、ゆえに孔子は九夷に居ろうとした」云々。『神皇正統記』はこれを踏まえたのでしょう。

この序文では、唐堯から漢末に至る東夷の動向の概略を述べています。夏殷周の三代の時より王が徳を失うと背き、徳を行えば服属したとし、徐の偃王が九夷や東方諸侯36国を率いて反乱を起こしたことも記されています。周の穆王は楚の文王に命じて徐夷を討たせましたが、徐の偃王は「宋襄の仁」を発揮して戦うのをやめ敗北しました。彼は彭城武原県の東の山に逃げ込みましたが、数万人が彼に従い、そこは徐山と呼ばれたといいます。

とすると、九夷は淮河流域や山東半島にいたことになります。畎夷などの名も後付くさく、実在の部族名や地名とも思えません。単に「多数の蛮夷」程度の意味でしょう。孔子が海に浮かぼうとした話と九夷の話が後から結び付けられ、九夷が東海の彼方にあると誤解されたに過ぎません。また孔子が斉に来たことはありますが、東海の彼方に国があると知っていたでしょうか。

ただ、伝説はさらなる伝説を生み出して独り歩きするものです。孔子の片言隻句が東海の彼方に君子国を幻視させ、九夷と蓬萊が結びついたというのは有り得ます。蜃気楼という自然現象が始まりだとしても、積み重ねられたコトダマのイメージは共同幻想・集団幻覚を生み出し、実体化します。まして東海の彼方に真実(マジ)で陸地や島があり、国をなしていればどうでしょうか。「これがその地だ」と自他ともに思って不思議はありません。

熊野徐祠

さて、宋は北方の契丹()に常に脅かされていました。1120年に女真族が遼に反乱して金国を建てると、宋はこれと手を組んで遼を滅ぼしますが、金との条約を破ったため攻め込まれ、1127年に滅亡します。宋の残党は江南へ逃亡して南宋を立て、華北を征服した金と対立することになります。

金は1234年にモンゴル帝国に滅ぼされ、南宋も1279年に滅亡します。ここにチャイナ全土はモンゴル帝国の一部となり、クビライ・カアンが治める大元ウルスの属領となりました。チャイナは史上初めて「夷狄」に完全に征服され、三皇五帝以来の天命は尽きたのです。日本の平安後期から鎌倉時代にかけてはこのような時代でした。

南宋の末、福州連江(福建省福州市連江県)に鄭之因という人がいました。彼は科挙に通過して南宋に仕えましたが、祖国が滅ぶと呉中(江蘇省蘇州市)に隠居して思肖氏の宋朝を慕する)と改名し、祖国を思いながら詩文や書画を書き遺して生涯を終えました。彼は1283年、蘇州承天寺の井戸に「心史」と名付けた反元詩集や雑文を鉄の箱に封印して投げ込み、355年後の明の崇禎11年(1638年)に発見されたといいます。

その中に「元韃攻日本敗北歌」という詩があり、倭と徐福が登場します。

東方九夷倭一爾 海水截界自區宇 地形廣長數千里 風俗好佛頗富庶
土産甚夥幷産馬 舶來中國通商旅 徐福廟前秦月寒 猶怨舊時嬴政苦…
倭(日本)は東方の九夷の一つであり、海水が自ずから国境をなしている。地形は広さ長さ数千里、風俗は仏教を好みすこぶる豊か。土地の産物ははなはだ多く、また馬を産し、船で運んで中国と通商する。徐福廟の前に秦の月は寒く、なおむかしの嬴政(始皇帝)の苦を恨む…

これは祖国を滅ぼした憎きモンゴル(元韃)が、かつて文永弘安の役で日本に敗北したことを喜んだ詩です。『神皇正統記』でも日本を九夷の一つとしましたから、宋代の知識人の間ではそう考えられていたのでしょう。また、この詩には倭(日本)に徐福廟があるといいます。どこのことでしょうか。

南宋が滅亡した年、日本の弘安2年(1279年)、臨済宗の禅僧・無学祖元は鎌倉幕府執権・北条時宗の招きに応じ、日本に亡命しました。そして前年に遷化した蘭渓道隆に代わり鎌倉で建長寺の住持となります。弘安4年(1281年)、祖元は時宗に「莫煩悩」「驀直去」の語句を授け、同年の蒙古襲来を撃退させました。また祖元は同年に紀州熊野新宮に赴き、「徐福祠献晋詩」を残したといいます(晋は「すすめる」の意です)。

先生採薬未曾回 故国山河幾度埃 今日日香聊遠寄 老僧亦為避秦来
先生が薬を採りに来て帰らない間に、故国の山河はいくたび戦塵にまみれたことでしょうか。今日は霊前に捧げる香を持って、いささか遠くからまいりました。老僧もまた、秦を避けて来たのでございます。

採薬・避秦とあるからには、これは徐福のことであり、無学祖元が秦ならぬ元を避けて日本への亡命者となったことを歌っています。この頃、熊野には徐福の霊廟(祠)が存在したようです。

現在、熊野には和歌山県新宮市の徐福公園、三重県熊野市波田須(はだす)町の徐福ノ宮が存在します。両者の間は30kmほど離れていますが、共に太平洋(熊野灘)に面した紀伊半島東南部の熊野地方にあります。無学祖元の詩が刻まれた石碑は新宮市の徐福公園のすぐ北、熊野川河口部に面した阿須賀神社に存在します。熊野と言えばイザナミが埋葬された地とか、神武天皇が上陸した地として日本書紀に記されていますが、徐福が上陸したという伝説も存在したのです。

ただし『義楚六帖』では、徐福がとどまった蓬萊は富士山であり、熊野ではありません。また元の時代になっても、正史には『史記』と同じような記述があるだけで、徐福が日本に来たという記述は見当たりません。民間で熊野信仰と結びついて広まっていたのでしょう。あるいは神武と徐福が混同されたのでしょうか。なんにせよ、亡命宋人にとって徐福の祠は故国を思うよすがとなり、日本とチャイナの古来の結びつきを思わせたはずです。

1294年のクビライの崩御後、大元ウルスは西方の諸ウルスと和解してモンゴル帝国の宗主となりましたが、宮中は権力争いで混乱が続き、飢饉と重税に苦しむ人民は例によってカルト宗教にすがります。今回は仏教系秘密結社・白蓮教で、1351年に教祖・韓山童が宋の徽宗皇帝の末裔を名乗って反乱を起こします(紅巾の乱)。

韓山童はすぐ逮捕処刑されますが、これを皮切りにチャイナ全土で反乱が頻発し、1368年に群雄割拠を制した朱元璋が南京で皇帝に即位し大明と号しました。大元はチャイナを放棄してモンゴル高原へ退去し、1388年にクビライ家のカアンは断絶しました。モンゴルは残存したものの、チャイナ本土とその周辺は大明の版図となり、漢人によるチャイナの統治が復活したのです。

日本の『中華若木詩抄』等によると洪武9年(1376年)、日本の臨済僧の絶海中津(1336-1405)は太祖洪武帝(朱元璋)に謁見し、熊野の徐福の古祠のことを聞かれて答え、詩を賦しました。チャイナでも熊野に徐福祠があることは有名だったようです。

熊野峰前徐福祠 滿山藥草雨餘肥 只今海上波濤穩 萬里好風須早歸

また太祖も答えて詩を賦しました。

熊野峰高血食祠 松柏琥珀也應肥 當年徐福求仙藥 直到如今更不歸

しかし、これは『明史』太祖本紀にも日本伝にも見えません。同年に「是年覽邦、琉球、安南、日本、烏斯藏、高麗入貢」とはあります。ともあれそういうことは一応あったらしく、諸書に記述があります。10世紀には記録がなかった熊野の「徐福祠」は、日宋貿易や南宋からの亡命者の影響で13世紀末頃までに形成され、人々の心の拠り所となっていったのでしょう。

海東諸国紀

朝鮮王国で1443年に作成され1471年に刊行された『海東諸国紀』には、孝霊天皇の時代に徐福が日本に来たという伝承が記されています。

孝霊天皇。孝安天皇の太子なり。元年は辛未。七十二年壬午、秦の始皇帝、徐福を遣わし、海に入り仙薬を求めしむ。遂に紀伊州に至りて居す。
崇神天皇。開化天皇の第二子なり。元年は甲申。始めて璽剣を鋳す。近江州に大湖を開く。六年己丑、始めて天照大神を祭る。天照大神は地神の始主なり。俗に日神と称す。今に至るまで四方共に之を祭る。七年庚寅、始めて天社・国社・神戸を定む。十四年丁酉、伊豆国船を献ず。十七年庚子、始めて諸国に令して船を造らしむ。在位六十八年。寿百二十。是の時、熊野権現神始めて現る。徐福死して神と為り、国人今に至るまで之を祭る。

崇神天皇は孝霊天皇の曾孫で、日本書紀によれば68年間在位しました。紀元前30年に崩御したとして、徐福渡来から熊野権現出現まで189年後です。徐福はこの地で死に、熊野権現として示現した、との異説があったようです。富士山を蓬莱としたはずの徐福はどうなったのでしょうか。

羅山文集等

江戸前期、林羅山の『羅山文集』にはこうあります。

『義楚六帖』によれば、富士山は一名を蓬莱といい徐福が来たという。明の太祖が我が国の沙門である津絶海に徐福の事を問うたところ、津は徐福の祠が熊野にあると答えた。また南禅寺の僧の岩惟肖によると、蓬莱とは富士・熊野・尾州熱田を指すという。徐福が日本に来たのは焚書坑儒の六、七年前のことで、古代文字(蝌蚪篆籒書)で書かれた竹簡を持ってきたが、当時の人で知る者は少なかった。その後、世々の兵火で紛失し、伝承されているとは聞かない。ああ、惜しいことである。

熊野、富士に加えて尾張国の熱田神宮まで蓬萊に加わりました。まあ三神山というぐらいですから複数あったのかも知れませんし、徐福が各地を遍歴して富士に到達したとすれば辻褄はあいます。松下見林の『異称日本伝』、新井白石の『同文通考』などにも「熊野に徐福がいた」としており、室町時代から江戸時代にはすっかり徐福渡来伝説は根付いていたようです。

さらにはオランダ人モンタヌスが1669年刊行した『東インド会社遣日使節紀行(日本誌)』にもこうあります。「神父マルチニウスが言うには、チャイナの記録に皇帝Xio(始皇)のことがある。ある人が皇帝に『日本に一種の草があり、これを得れば不死になります』といって欺いた。彼らはこれを確かめるため派遣され、帰国することなく土着したという」

列仙全伝

なお明の万暦28年(1600年)に出版された『列仙全伝』では、『神仙伝』などの記述を膨らませてこう記されます。

徐福は字を君房という。秦の始皇帝のとき、横死者が道路に満ちた。烏に似た鳥がどこからともなく飛んできて、口にくわえてきた草を死人の顔の上に置くと、みな蘇生した。皇帝がその草を持っていかせて鬼谷先生に問うと、「それは海中にある十洲中の祖洲の田に生えている養神芝という不死の草で、一本でひとりを生き返らせることができる」という。そこで始皇帝は徐福を派遣して祖洲に行かせたが、帰って来ないまま行方不明になった。のちに沈羲が得道した時、徐福が太上老君の使者として、白虎のひく車にのって彼を迎えにきたので、人びとは初めて徐福は神仙になったのだと悟った。
また唐の玄宗の開元年間に奇妙な病気が流行したとき、海中に住むひとりの神仙に祈ればどんな難病でも治るという伝えによって、一群の人びとが舟にのって出かけ、十余日かけてある孤島についた。すると数百人の群衆に囲まれたひとりの老人がいる。聞くと徐福だというので丁重に頼むと、快く承知して治してくれた。そのうえ帰りに黄色の薬をくれたので持ち帰り、病人にやったら、みな立ちどころに治った。

ここでは日本に渡ったとか熊野に徐福祠があるとかの話はありません。徐福は神仙になり、絶海の孤島に群衆に囲まれて住んでいるというのです。

◆Paisley Park is◆

◆in your heart◆

さて、徐福の日本における渡来伝承地は富士山、熊野、熱田と出揃いましたが、日本には全国各地に徐福伝説がありますし、チャイナやコリアにも存在します。実際はどうあれ、どこにどんな伝承があるか調べてみましょう。

【続く】

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