【つの版】ウマと人類史:中世後期編03・金帳汗国
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
14世紀前半、モンゴル帝国内の諸ウルスは内紛によって動揺し、フレグ・ウルスに至ってはフレグ家の国王が断絶して諸王侯が群雄割拠する有様でした。しかしこの頃、ジョチ・ウルスは最盛期を迎えています。
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金帳汗国
1206年、チンギス・カンの長子ジョチは、モンゴル高原北西部のイルティシュ川流域に封建され、四つの千人隊を授けられました。これがジョチの領国の始まりです。1211年に金朝へ侵攻した際、黄土高原南部の平陽地区も支配地として授かりますが、これは本拠地から遠いため次第に別のウルスに組み込まれました。ジョチの領国はバルハシ湖・シル川・アラル海とカスピ海の北に渡って広がり、ほぼ現在のカザフスタンをすっぽりと覆うほどになりましたが、1225年ジョチは父に先立って逝去しました。
国号は「ジョチ・ウルス」ですが、ロシアや欧米では16世紀以後のロシア語史料に基づく「黄金のオルド」という呼び方が定着しており、訳して金帳汗国と呼んだりもします。キプチャク草原を領有するハン(カン)であることから「キプチャク・ハン国(欽察汗国)」などとも呼びますが、同時代史料を重視してここではジョチ・ウルスと呼びます。
ジョチには40人近くの息子がおり、そのうち14人の名が知られています。彼らは広大な領土の各地を封建領主として分け合い、長男のオルダが左翼(東部)の、次男のバトゥが右翼(西部)の盟主となります。このうちバトゥのほうが母の家柄がよかったため、ジョチ家全体の盟主となりました。彼はオゴデイ・カアンの命令でウラル川とヴォルガ川を渡り、北カフカースやルーシを征服して貢納を課し、東欧・中欧まで攻め込んでいます。
オルダ・ウルスとバトゥ・ウルスの境目が、ウラル川(ヤイク川)とウラル山脈です。ここが「ヨーロッパとアジアの境」となるのは、1730年にロシア帝国でそう定められて以後のことに過ぎません。
オゴデイの崩御後、バトゥはヴォルガ川下流域に首都サライを建設してキプチャク草原を統治します。巨大な遊牧適地と多数の騎馬遊牧民を抱え込んだジョチ・ウルスは、モンゴル帝国内の最強国として恐れられ、モンゴル皇帝の即位にも介入するほどでしたが、1256年にバトゥが逝去すると彼の子らが次々と早死し、やや混乱しました。
1257年に即位したバトゥの異母弟ベルケはイスラム教徒で、イラン・イラクを征服しアッバース朝カリフを殺したフレグと激しく対立します。このためフレグ家の敵であるエジプトのマムルーク朝と手を結び、北と西からフレグ家を脅かしますが、1266年にベルケは逝去します。
跡を継いでジョチ家の当主となったのは、バトゥの孫モンケ・テムルでした。彼は一時カイドゥと手を組んだものの、1270年に手を切り、フレグ家やクビライと友好関係を結んでいます。しかし1280年頃にモンケ・テムルが逝去すると、ジョチ家は後継者争いにより混乱し始めます。
那海専横
モンケ・テムルには長男アルグイほか10人の男児がいましたが、有力な王族ノガイとオルダ家の当主コニチらにより、同母弟で長老格のトダ・モンケが擁立されます。ノガイはジョチの子ボアルの孫にあたり、右翼(西部)の最西端であるドナウ川下流域に遊牧地を与えられ、ヨーロッパ戦線を担当していた人物でした。この頃中央アジアからモンゴル高原にかけて、反クビライ勢力によるシリギの乱が勃発しており、若年の当主ではよくないという動きがあったのでしょう。
しかしこれを不満とする派閥が1287年にサライでクーデターを起こし、バトゥの曾孫トゥラ・ブカがトダ・モンケを廃位してジョチ家の当主を名乗ります。彼の協力者はモンケ・テムルの子アルグイとトグリルチャ、自分の弟ゴンチェクで、この四人によりサライ周辺は制圧されます。
これに対し、ノガイはアルグイの同母弟でクリミアにいたトクタを擁立します。オルダ・ウルスのコニチは病気ゆえか動かず、ノガイはサライ政権と正面から戦うのを避け、ドニエプル川を渡ったあたりで仮病を使いトゥラ・ブカらを招きました。1291年、のこのこやってきたトゥラ・ブカらは一網打尽にされて始末され、トクタがジョチ家の当主となりました。
1293年、トクタは兄のトデゲン(デュデン)をルーシへ派遣し、ルーシ諸侯の長であるウラジーミル大公の位を巡って起きていた争いを鎮圧します。当時のルーシはいわゆる「タタールのくびき」の下にあり、サライのハンを宗主として毛皮を貢納し、ユーラシアを結ぶ交易路に接続して栄えていました。愛国民族主義者からは嫌われますが、モンゴル帝国の統治下でルーシ諸侯の間に「平和」が訪れ、繁栄していたのは事実です。
トクタはノガイの影響力を弱めるためもあり、妃の父であるコンギラト部のサルジダイを重用しました。このためノガイはトクタとサルジダイを疎んじるようになり、1297-98年頃にドン川のほとりで軍事衝突が始まります。この戦いで敗れたトクタはサライへ逃げ戻りますが、ノガイはクリミアの諸都市を掠奪して恨みを買い、多くの諸侯がトクタに味方します。勢力を盛り返したトクタは1299年にノガイを戦死させ、1302年までにノガイの子らを処刑して、内戦を終結させました。トクタは古来のテングリ崇拝者でしたが、宗教的には寛容・公平で、ムスリムもキリスト教徒も迫害しませんでした。外交面ではフレグ・ウルスとの友好関係を保っています。
東方のオルダ家では1295年頃にコニチが病没し、子のバヤンが跡を継いだものの、カイドゥやドゥアと結んだ別の王族クペレクがオルダ家当主の座を巡って反乱を起こし、バヤンはトクタのもとへ身を寄せています。のち大元との戦いでカイドゥが敗れ、1301年に病没すると、バヤンは大元軍・フレグ家軍とともにカイドゥの国へ侵攻して領土を奪還しましたが、長引いた戦乱で国土が荒廃したためもあり、以後オルダ家はバトゥ家に従属することとなったようです。
月即別汗
1312年にトクタが病没した時、彼の兄弟や息子らは処刑か国外追放されており、後継者に関する問題が起こります。首都サライを預かる将軍クトゥルグ・ティムールは「トクタ・ハンの子を立てるべし」と主張してクリルタイを開催しますが、トグリルチャの子ウズベクは兵を率いて首都に乗り込み、反対派を粛清して王位を簒奪しました。彼は敬虔なイスラム教徒で、ギヤーズッディーン・ムハンマドの名を持ち、即位時は30歳ほどでした。
ウズベク・ハンはエジプトのマムルーク朝と友好関係を結び、フレグ・ウルスとは再び敵対関係に入りました。1320年にはベルケ・ハンの娘がマムルーク朝のスルタンに嫁いでいます。また彼の時代からジョチ・ウルスにはイスラムに改宗する遊牧民が増え始めますが、国内外の非ムスリムにも寛容ではあり、ルーシの正教徒も欧州のカトリック教徒も公平に扱っています。
特にヴェネツィアやジェノヴァの交易商人は歓迎され、首都サライにはヨーロッパ風の建築物が立ち並んでいたといいますし、ウズベクの妃の一人バヤルンは東ローマ帝国の皇女でした。東では大元やチャガタイ・ウルス、南ではフレグ・ウルスが動揺・解体する中、ジョチ・ウルスはウズベク・ハンのもとで最盛期を迎えることになったのです。
俄羅金袋
この頃、ルーシではトヴェリ公ミハイルがウラジーミル大公となっていましたが、モスクワ公ユーリーはミハイルと敵対していました。1315年、ユーリーはサライを訪れてウズベク・ハンに謁見し、2年間ご機嫌取りをした末にウズベクの娘クンチェクを妻として授けられ、ウラジーミル大公になるよう命じられました。1317年、ユーリーは大軍を率いてトヴェリを攻撃しますが打ち破られ、クンチェクは捕虜になって不慮の死を遂げます。ユーリーは「ミハイルがクンチェクを殺した」と吹聴し、怒ったウズベクはミハイルをサライへ召喚して処刑しました。このためミハイルはのちに正教会から「異教徒に殺された殉教者」として聖人認定を受けています。
1319年にルーシへ戻ったユーリーは、モンゴルの威光を借りてルーシの支配者となりますが当然嫌われ、ミハイルの子ドミトリーは反ユーリー派の長として抵抗を続けます。1322年、ドミトリーは「ユーリーが貢税をピンはねしている」とウズベクに告げ口し、ウズベクは裁判のためユーリーとドミトリーをサライへ呼び寄せます。1325年、サライに来たドミトリーは裁判の前に父の仇であるユーリーを殺し、自らも翌年処刑されました。
ウズベクはユーリーの兄イヴァンをモスクワ公、ドミトリーの弟アレクサンドルをトヴェリ公・ウラジーミル大公に任命しますが、彼らには貢納を任せておけぬと徴税代官をルーシに置くことを決め、王族のチョル(チョルハン、シェフカル)をそれに任命してトヴェリへ派遣しました。
1327年に着任したチョルは、部下のモンゴル人をルーシの各地へ派遣して貢税を取り立てさせましたが、横暴ぶりに怒ったアレクサンドルはトヴェリ市民らとともにチョルを殺害し、モンゴル帝国の支配に反旗を翻しました。モスクワ公イヴァンはこれを聞くと、ウズベクの命令を受けてサライからモンゴル軍を率いて進撃し、トヴェリの暴動を鎮圧します。アレクサンドルは西へ逃亡してプスコフに入り、リトアニアに庇護されて抵抗を続けますが、のちサライに出頭して処刑されました。
1328年、ウズベクはイヴァンを新たなウラジーミル大公に任命し、ルーシ諸侯の盟主として、ウズベクのために貢税を徴収する権限を授けました。彼はせっせと反モンゴル派の諸侯を攻撃して貢税を取り立て、モスクワを北東ルーシにおける中心地とします。このためイヴァンはカリター(金袋)とあだ名されています。またウラジーミルにあった正教のルーシ府主教座もモスクワに遷され、モスクワ公の権力は宗教的権威によっても保証されることとなりました。モスクワがルーシの首都となるのはこれ以後のことです。
黒死流行
またこの頃、モロッコのマリーン朝出身のイブン・バットゥータがウズベク・ハンを訪れています。彼は1325年にマッカ巡礼に出発し、マムルーク朝の首都カイロを経て1326年に巡礼を終えたのち、アラビア半島を横断してイラク・イラン・クルディスタンを経てマッカに戻ります。続いてスワヒリ地方を旅行して戻り、次は北上してアナトリア半島に赴き、クリミアやアゾフを経て幕営中のウズベク・ハンに謁見しました。さらにコンスタンティノポリスへ使節として訪れ、アラル海を経てチャガタイ・ウルスに入り、南下してインダス川に到達、1333年トゥグルク朝のスルタンに仕官しています。
1342年には大元への使者としてインドを出発し、セイロンやスマトラ、ザイトンなどを経由して1345年に大都に到着。1346年にザイトンから出港し、東南アジア、セイロン、インド、マスカット、ホルムズ、イラン、イラク、シリアを経て、1348年にカイロまで戻りました。しかしこの頃、中東から北アフリカ、欧州にかけては黒死病が蔓延していました。イブン・バットゥータは1349年に無事故郷フェズまで帰ったものの、この疫病の大流行はモンゴル帝国を大いに揺るがします。
ジョチ・ウルスでは1342年にウズベクが逝去し、子のティーニー・ベクが跡を継ぎますが同年に殺され、その弟ジャーニー・ベクが王位を簒奪していました。欧州の黒死病は、彼がクリミア半島のカッファを攻撃した際、病死者の死体を投石機で投げ込んだことに始まるとの噂もありますが、定かではありません。人口が密集し、グローバルな交易路で結ばれていた上、相次ぐ寒冷化による飢饉で体力が低下していた欧州の人々はバタバタ斃れました。
中東やサライでも相当な被害が出たでしょうが、ジャーニー・ベクは1357年に息子ベルディ・ベクに暗殺されるまでピンピンしています。そのベルディ・ベクが1359年に暗殺されると、ジョチ・ウルスでは各地に君主が乱立して大混乱に陥り、やがてティムールの遠征を受けることになります。次回はユーラシアを東へ戻り、大元のその後を見ていきましょう。
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【続く】
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