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【つの版】日本刀備忘録31:伊吹山神

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 酒天童子伝説には様々な異本・異説が生じ、鬼退治の場所も山城と丹波の境の老ノ坂ではなく丹後の大江山や、近江と美濃の境の伊吹山とされるようにもなりました。また伊吹山で生まれて比叡山に遷り、最終的に大江山へ来たとか、生国を越後国とする異説もあります。なにゆえこれらの場所が酒天童子と結び付けられたのでしょうか。さらに深堀りしていきましょう。

◆吹◆

◆雪◆


伊吹山神

 京都や比叡山からさらに東北、琵琶湖の東に伊吹山があります。標高は1377mと富士山や日本アルプスの山々には及びませんが、冬の季節風が濃尾平野へ強く吹き下ろす(伊吹おろし)ことから神の住む山として畏怖されました。またこの山は近江国と美濃国の境にあり、南麓には東山道が通り、西国と東国を分ける不破関/関ヶ原があって、古来交通の要衝でした。不破関は伊勢の鈴鹿関・越前の愛発あらち関とあわせて「三関」と称され、天皇・上皇・皇后の崩御や譲位、摂政・関白の薨去、謀反などの政変に際しては勅使が派遣されて一時封鎖(固関)する儀式が行われています。三関は延暦8年(789年)に廃止されますが、畿内を東国(関東)から守る要衝であることはその後も変わっていません。

『古事記』『日本書紀』によれば、景行天皇の皇子ヤマトタケルは東国遠征からの帰路、伊吹山の神を平定しようと尾張から赴きました。しかし尾張に草薙の剣を置き忘れ、反撃に遭ってしまいます。彼が山に登っていくと、古事記では牛ほどの大きさの白い猪が、日本書紀では大蛇が現れますが、彼は「神の使いであろう」と言って戦わず、無視して通り過ぎました。ところがこれは神の使いではなく化身であったため、怒った神は霧を起こして山々を覆い、雲から氷雨を降らせてヤマトタケルを苦しめます。彼は神を倒すどころか這々の体で麓へ逃げ去り、清らかな井戸水を飲んで正気づくものの病気に罹り、伊勢から大和へ帰る途中で病没しました。

 大和朝廷の武力と威光を背負い、熊襲・出雲・土蜘蛛・蝦夷ら各地のまつろわぬ民や神を平定してきたヤマトタケルは、自分がナメてかかった伊吹山の神の祟りによって死に至ったのです。天皇・朝廷といえど無礼に対する神の怒りには逆らえず、祟りを畏れて祀り上げるしかありませんでした。そして中世には、この伊吹山に「鬼が棲む」と言い伝えられるようになります。

弥三郎譚

 足利義満の死の前年、応永14年(1407年)8月に成立したとされる説話集『三国伝記』には、伊吹山に「弥三郎という変化の者」が棲んでいたと記されています。原文をかいつまんで訳すればこうです。

 近頃、かの伊富貴山(伊吹山)に弥三郎という変化の者(化け物)が棲んでいた。昼は巨岩が積み重なった洞窟に住み、夜は関東から鎮西(九州)まで遠境に往還し、人家の財宝を盗み奪い、国土に凶害を成すこと甚だしく、天下は大いに愁いた。そこで当国(近江国)の守護である佐々木備中守頼綱よりつなに勅命が下され、分国の狼藉を治めよと命じられた。

 頼綱は宣旨を奉じて険しい山に分け入り、かの者の様子をうかがったが、もとの棲家を捨て去って龍池のあたりに隠れてしまい、処罰を加えられぬまま2年が過ぎた。頼綱は「わしとやつは罪をかばい合う父子兄弟ではない。相手は野心異物の悪党だ。捕らえられねば万世の恥である」と思い、摩利支天の秘法を伝え陰形(隠形、姿隠し)の術を用い、再び賊の様子を伺った。そして賊が高時川の中にいる時に襲って討ち取り、家の名誉を保った。

 その後、弥三郎の怨霊は毒蛇に変じ、河川に毒を流して人々を苦しめた。このため作物は枯れ飲水は涸渇し、飢饉が9年も続いて多くの民が死んだ。そこで祠を建てて悪霊を神として祀り、「井明神」と号して祭礼を行ったところ、怨霊は喜んで毒心を鎮め、風雨や水を順調にもたらし農地を潤した。彼は年に1度伊吹山の禅定(山頂)に登るが、その時は青天にわかにかき曇り、霹靂(稲妻)が空に動き、霰が地に降る。これを見た者は「ああ、例の弥三郎殿が禅定に通い給う」と言って恐れぬことはない。

 伊吹山の弥三郎を退治したとされる佐々木備中守頼綱は実在の人物で、仁治3年(1242年)に生まれ延慶3年(1311年)に没した鎌倉時代中期の御家人です。近江源氏庶流佐々木氏の本家・六角氏の当主で、北条時頼から偏諱を授かり、建長3年(1251年)に左衛門尉・備中守に任じられました。建治元年(1275年)には父・泰綱より家督を譲られて近江守護となり、30年余りも在任しています。六波羅(鎌倉幕府の京都における出先機関)の評定衆にも加わった重鎮で、盗賊追討や鬼退治の任を授かってもおかしくありません。

 摩利支天はインドの陽炎かげろうの女神マリーチーが仏教に取り込まれたもので、その真言を唱えて印を結べば陽炎のごとく敵に捕捉されなくなると信じられ、中世より武家の守護神・軍神として崇められています。「神出鬼没」の変化の者=鬼を見つけ出して討伐するため、頼綱は自ら神仏の力を借りて身を隠し、奇襲攻撃により討ち取ったのです。

柏原為永

 この「伊吹山の弥三郎」は、実在の人物をモデルとしています。藤原定家の日記『明月記』、鎌倉幕府公定の歴史書『吾妻鏡』などによれば、正治2年(1199年)11月、近江守護の佐々木定綱(頼綱の曽祖父)が後鳥羽院の宣旨を受け、近江国の住人柏原かしわばら弥三郎為永ためながという者を討伐に向かいました。為永は鎌倉幕府の御家人で、山城国醍醐寺三宝院の寺領であった近江国柏原荘(現滋賀県米原市柏原)の地頭に任じられ、領地や貢納を押領したため、怒った三宝院が後鳥羽院に陳情したのです。

 柏原荘は近江国の東端、関ヶ原の西、伊吹山の南麓にあり、畿内と東国を結ぶ東山道が通り、交通の要衝として栄えた地域です。ここを幕府が抑えて我が物とすれば、後鳥羽院としては面白くありません。しかし定綱も幕府に逆らったわけではなく、悪評が立った者を公的に討伐することで、この地に近江守護の、ひいては幕府の支配権を確実に及ぼすことが可能になります。双方の利害が噛み合い、為永は政治的な生贄になったのでしょう。

 同年12月、定綱の軍は伊吹山に迫りますが、武蔵国の住人三尾谷みおのや十郎広徳ひろのりが抜け駆けして為永を襲撃し、為永は逐電して行方知れずとなりました。定綱らは必死で探しますが見つからず、1年半後の建仁元年(1201年)5月、定綱の子・信綱に発見されて討ち取られました。

『三国伝記』にも弥三郎は両年(2年)逃げ隠れていたとありますから、これが伊吹山の弥三郎の伝説のもとになったことは確かと思われます。朝敵・賊徒として討伐され、伊吹山に逃げ隠れた彼の怨霊が、民間伝承の中で変化の者=鬼とみなされたことはうなずけます。一方で古来の伊吹山の神とも習合し、祟りや恵みをもたらす蛇神として祀られるようになったのでしょう。

 しかし、柏原弥三郎為永を討伐したのは佐々木定綱と信綱で、頼綱は彼らの曾孫や孫であり、年代が全く違います。おそらく源頼光らによる酒天童子退治の伝説と混同され、頼光を音読みした「らいこう」と音をあわせるために、実在の人物である頼綱(らいこう)が持ち出されたのでしょう。名前に「綱」を含みますから、源頼光と渡辺綱をあわせたようにも見えますね。

 義満の時代の近江守護は、佐々木(六角)頼綱の曾孫の満高です。彼は幼少期から義満に寵愛され、義満の娘を息子の嫁に賜ったほどでしたが、義満の子の義持とは不仲で、同族の京極氏らとも対立していました。天下の要衝を抑える名門武家として箔をつけるため、酒天童子退治になぞらえて先祖たちの功績を讃える物語が必要だったのでしょう。

 室町時代には、この伊吹山の弥三郎は酒天童子/酒呑童子と結び付けられ、その父であるとの伝説が派生します。また伊吹山の神は蛇の姿であることから、酒に酔い潰れて討伐された八岐大蛇とも結び付けられました。酒呑童子が大酒飲みである理由は、神代の物語に遡るのです。

◆東◆

◆方◆

【続く】

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