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【つの版】日本刀備忘録45:山名持豊
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
嘉永元年(1441年)6月、恐怖政治を敷いた将軍・足利義教は赤松満祐らの家来により暗殺され、大名ら数名も死傷しました。満祐らは京都を退去して領国の播磨に戻りましたが、管領・細川持之は義教の子を後継者として擁立し、大名たちに満祐討伐を呼びかけます。
◆室町◆
◆無頼◆
山名持豊
各地の守護大名たちのうち、赤松満祐討伐に乗り気だったのは山名持豊(のち出家して宗峯、宗全)です。山名氏は足利義満の時に一族で11カ国の守護大名となっており、明徳の乱(1392年)によって大きく勢力を削がれましたが、但馬は山名時煕、因幡は氏家、伯耆は氏之に与えられ、3カ国の守護を保ちました。時煕は山名氏の家督を継ぎ、義満の馬廻衆として活躍、応永の乱(1399年)にも参戦して備後守護職を授かります。義持・義教にも仕えて相伴衆・宿老となり、但馬・備後・安芸・伊賀の守護職を兼務し、従兄の満氏と氏利は安芸と石見、従弟の煕高は因幡の守護に任じられました。ここに山名氏は一族で7カ国の守護を兼ね、かつての勢力を回復させたのです。
持豊はこの時煕の3男でしたが、長兄の満時が早世したため次兄の持煕と家督を争い、最終的に勝利して家督と但馬・安芸・備後・伊賀の守護職を受け継ぎました。永享12年(1440年)には幕府侍所頭人となり、山城守護をも兼務しています。山名氏の領国のうち但馬・因幡・伯耆は赤松満祐の領国(播磨・美作)と接していますから、持豊にすれば赤松氏を倒して領国を拡大する絶好の機会です。義教暗殺時の宴席で持豊は逃げ出しましたが軽傷を負い、同族で石見守護の煕貴(氏家の子)は赤松氏の武者に殺されているため、報復のための大義名分も充分です(これ以前から持豊は幕命を無視して勝手に播磨へ守護代を送り込み、土地を押領するなどしていましたが)。
同じ宴席では大内持世と京極高数が殺害され、細川持春が片腕切断の重傷を負っています。持世は周防・長門・豊前・筑前守護、高数は出雲・隠岐・飛騨守護で、いずれも赤松氏の領国からは遠いものの、遺族が赤松氏を許せるはずもありません。持春は備中国南部の浅口郡と伊予国東部の宇摩郡の守護を兼ね、瀬戸内海の交通を扼する重要な役目を持ちますが、出せる兵力は山名氏には遠く及びません。必然的に山名持豊が赤松氏討伐の総大将となります。赤松氏が西国へ逃げようとしても細川・山名・大内に阻まれます。
とはいえ、山名氏ばかりに手柄を取られるわけにはいきません。管領・細川持之は一族の持常を総大将とし、満祐と同族ながら宿敵である赤松貞村・満政らを率いさせ、幕府の大手軍(正面軍)として摂津から播磨へ侵攻させました。3人とも義教から寵愛を受けた側近でしたから仇討ちに適任とは言えますが、持常は一色義貫を暗殺して三河守護となり、貞村は妹を義教の側室として男児を産ませ、満政は近習の権力を独占していた人物で、諸大名からの人望はなく、彼らが功績をあげれば持豊には面白くありません。
満祐討伐
嘉吉元年7月初旬、大手軍が摂津へ移動を開始し、これに呼応して前石見守護の山名教清が美作に侵攻します。国人らは下準備によってかほとんど抵抗せずに降り、伯耆守護の山名教之は美作を経て備前まで侵攻しますが、持豊は京都から動かず形勢を見守ります。大手軍は摂津国西宮まで進出し、25日に赤松満祐の子・教康は夜襲を仕掛けたものの、同士討ちにより撤退しました。しかし大手軍は戦意が低く、持豊が動かないため進軍を止めてしまいます。美作・備前の山名勢も本隊が動かねば播磨攻めはできません。
翌26日、焦った持之は朝廷に赤松満祐討伐の治罰綸旨を求めますが、朝廷では義教の恐怖政治を終わらせた満祐への同情論が強く、「将軍の家臣ゆえ綸旨は不要ではないか」との意見も出ます。しかし後花園天皇は「永享の乱(持氏討伐)に続いて幕府から治罰綸旨が求められたことは、朝廷が政治力を示し、政治的権威を高める好機である」と考え、自ら綸旨を添削して授けました。ここに赤松満祐と彼に味方する者は朝敵とみなされたのです。
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これを受けて持豊は28日にようやく京都を出発し、但馬に向かいます。8月中旬には但馬から4500騎を率いて播磨国境の真弓峠に攻め込み、ここを守る赤松義雅と衝突しました。摂津の大手軍は塩屋(神戸市)に陣取った赤松教康に阻まれ1ヶ月近く停止していましたが、持豊に呼応して8月19日に陸海で軍を動かし、教康を撃退して播磨に攻め入ります。同日に後花園天皇は持之が奉じる義教の子・千也茶丸に「義勝」の名を与えました。義雅・教康は奮戦しますが打ち破られ、大手軍・山名軍は9月1日に満祐の籠もる坂本城(現・兵庫県姫路市書写)で合流し、これを包囲にかかります。さらに山名教之・教清は西から播磨に迫りました。
坂本城は書写山南麓の平城で、赤松氏が代々播磨守護の居城として来ましたが、交通の要衝ではあっても要害の地とは言えず、満祐は9月3日に城を捨てて西へ逃亡します。向かった先は要害の山城・城山城(現・兵庫県たつの市新宮町下野田)でしたが、幕府・山名氏連合軍はそのまま追撃して包囲にかかります。播磨の国人も次々と降伏し、義雅は9日に息子・千代丸を連れて一族の満政の軍に降参しますが許されず、息子を満政に託して切腹します。翌10日に総攻撃が行われ、追い詰められた満祐は教康や弟・則繁、足利義尊らを城から脱出させると切腹しました。
落城後、満祐の首級は山名教之の家来が獲得し、教之はこの功績によって備前守護を兼務します。教清は美作守護に任じられ、赤松氏に殺された煕貴に代わって石見守護も兼務します。持豊は満政と播磨の支配権を争った後、閏9月に播磨守護に任じられますが、播磨のうち明石・賀茂・美嚢の三郡は御料所(幕府直轄地)とされ、満政が分郡守護となりました。しかし持豊はこれを不服とし、残る三郡も支配下に収めるため満政と対立します。この隙を突いて赤松氏の残党は各地へ逃れ、反撃を行い始めました。
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徳政一揆
この頃、近江・京都では大規模な土一揆(土民/民衆による連帯組織、およびそれによる政治的要求運動)が勃発していました。土一揆は正長元年(1428年)に勃発したのが最初とされ、長引く飢饉や疫病、物価上昇や朝廷や幕府の代替わりなど社会不安に触発され、「徳政(債務の帳消し)」を求めて行われました。正長の土一揆は近江比叡山坂本の馬借(運送業者)の武装蜂起に端を発し、京都をはじめ畿内・近国一円に及び、土民は武装して寺社や酒屋・土倉(金融業者)を襲撃し、借金の証文を焼き払い米や銭を掠奪したため、幕府は各国の守護に命じて武力で一揆を鎮圧させています。
今回の火元も近江比叡山坂本の馬借で、将軍の代替わりや播磨への出兵など社会不安に乗じて勃発しました。近江守護の六角(佐々木)満綱は馬借の要求する徳政令を発布しますが、延暦寺が反対したため一揆勢が膨れ上がります。地侍の指導する土民らは数万人に及び、9月には京都の清水寺を占拠して寺社や酒屋・土倉を襲撃、掠奪や証文焼却を行いました。また一揆勢は農民限定ではなく公家や武家を含む「一国平均の徳政令」を要求します。
京都は赤松満祐討伐のため軍事的に手薄となっており、管領・細川持之は畿内近国の守護大名に一揆鎮圧のための出兵を要請します。しかし「持之は土倉から一千貫の賄賂を受けている」との情報が広まり、大名たちは出兵を渋ります。同時期に弟の持永を殺して家督を奪還した河内・紀伊・越中守護の畠山持国に至っては一揆勢に自分の被官(家来)がいたため鎮圧を拒む有り様でした。やむなく持之は一揆勢の要求を飲み、山城国に「一国平均の徳政令」を出しますが、この事は幕府の権威をさらに失墜させます。
嘉吉2年(1442年)6月、43歳の細川持之は管領を辞職して出家し、8月に逝去しました。後任の管領には畠山持国が就任し、持之の子・勝元やその後見人となった叔父の持賢と対立しながら幕政を主導することになります。
◆室町◆
◆無頼◆
【続く】
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