【AZアーカイブ】新約・使い魔くん千年王国 第二章&三章 水の精霊&水と風
【第二章 水の精霊】
トリステインとガリアの国境をなす、ハルケギニア随一の名勝《ラグドリアン湖》。王都トリスタニアから馬車で二日余り、面積はおよそ600平方リーグ(㎞)。琵琶湖や東京23区よりやや小さいが、淡路島がほぼ入る広さだ。青く澄んだその水は、巨大な『水の精霊』そのものだと伝えられ、この湖を支配する生きた神とも言える。それは死の概念も老いるという事も知らず、永久に存在するため、永遠の誓いを護る『誓約の精霊』とも呼ばれるのだ。
そして、万物の母なる《水》は生物の肉体と精神を司る。かの精霊の体は、それ自体が秘薬と言ってよい。それこそが『水の精霊の涙』なのだ。その高級な秘薬を手に入れるため、ルイズと松下はここへやって来たのだが……。
「ああ、ようやくラグドリアン湖だわ! そろそろ日が暮れるじゃない」
「どこかで宿をとろう。流石に『魔女のホウキ』でも、結構かかるな」
二人と四匹が湖畔に着いたのは、出発が遅めだったのでもう夕方。しかし、急がねばならない。
「ああ、待ってモンモランシー!! まだ泳いじゃダメよ! そんなに遠くへ行かないの! ギーシュ!! 土の中から出てきなさい! 彼女を呼び戻して!」
怪奇『蛙女』と化したモンモランシーが湖に跳び込み、使い魔の蛙・ロビンを連れてすいすいと泳ぐ。『モグラ男』ギーシュはヴェルダンデと一緒にまた土の中だ。もぞもぞと何か貪っている。
「まだこいつらがホウキに乗れてよかった。『ヴィンダールヴ』で操れるのはいいが、もう人間の言葉も忘れたかな……。あと三日もすれば魂を乗っ取られ、完全変態を遂げてしまうところだった。危ない危ない」
「……始祖ブリミルよ、私をお許し下さい……罰を受けるべきなのは、マツシタだけですので」
ルイズが涙ながらに祈りを捧げる。さして仲良しではなかったが、友人の変わり果てた姿を見ると精神的に危険だ。
ぐわぐわぐわ、ゲゲゲゲゲ、とモンモランシーが双月を見上げて、楽しげに鳴いている。それに唱和して、ロビン、ギーシュ、ヴェルダンデ、湖の周りの蟲たちも歌い始める。それが湖面に木霊する。
「おお、なんという見事な交響楽だろう。立派な芸術の域にまで高められている!」ルイズのしくしくしくしく、という泣き声もそれに和した。
ばちゃり、と湖面で何かが跳ねた。それは人間ほどの大きさがあり、手足もあった。人影はすいすいと水中を泳ぎ、モンモランシーのところまで寄ってきた。
「うむ? なんだ、あれは?」松下の疑問にルイズが答える。
「え? …………ああ、あれは『ヴォジャノーイ』という亜人の一種ね。水の精霊に仕えていて、小柄だけど怪力で人間を引きずり込んだりするそうよ。彼女を仲間だとでも思ったのかしら……」
「ヴォジャノーイ……確か、ロシアなどの水辺に棲む妖怪だったな。いや、というか、あれはどう見ても……河童じゃあないか? おおい、モンモランシー! ロビンとそいつを連れて、戻って来い! 聞きたい事がある!」
松下が『右手』を挙げて叫ぶと、三匹はすいすいと岸辺に泳ぎ着いた。
なるほど、河童だ。全身は青緑色でぬるぬるしており、オカッパ頭には皿、背中には甲羅がある。口の突き出した猿のような顔で、指の間には水掻きがある。下品なガリア語で話しかけてきた。
「なあ人間、こいつ歌が上手で別嬪さんだなあ! あんたの使い魔か? 俺の嫁にくれよ!」
「残念だが、そういうわけにも行かない。彼女を人間に戻しに来たんだ。もう一人いるが」「そうよ、貴方は水の精霊に仕えているのでしょう? お願いよ、案内して!」
それを聞いたヴォジャノーイは、吃驚して遠ざかる。
「精霊は今お怒りだ!この湖は増水して、周りの人間どもの集落を呑み込んでんのさ!それもこれも、皆てめえら人間のせいだ!恨むんじゃねえぞ!」
彼はばしゃんと水音を立てて、湖の奥深くへ潜って行った……。
「増水ですって? そう言えばなんだか、以前より水位が上がっている気もするわね……」「あれを見ろ。なるほど、水底に村々が沈んでいるぞ……」
注意して水面を見ると、黒々と藁葺き屋根が見える。精霊の怒りを買うような事を、彼らがしたのか?
「ともあれ明日調査してみよう。そのあたりの大きな家を捜して、一泊だ」
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一行は、村長らしき家に泊まらせてもらう事にした。貴族の子弟『二人』とその使い魔と聞いて、小さな村では歓迎のため大騒ぎになる。
「貴族のお嬢様に御曹子さま、水の精霊との交渉に参られたそうで! いやはや、助かりました! 女王陛下も領主さまも、わしら辺境の村々をお忘れではなかったんですなあ!」
「どうか、よろしくお願いいたします! 船着場どころかお寺も田畑も持ち家までも沈んじまって、わしらの暮らしが立ち行かなくなってるんです! ヴォジャノーイどもは大喜びだし……忌々しい!」
下にも置かない丁重なもてなしだ。不器量な村娘や老婆までも歓迎の踊りを始める。
「そ、そうよ! この私が、女王陛下の内密の詔勅をいただき、直々に来てあげたんだからね! 感謝しなさい! この、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール公爵令嬢がねっ!!」
「この度、前線基地の建設監督官に任命されたイチロウ・マツシタ・ド・タルブ伯爵だ。事情により、こちらの調査にも来ている。協力してくれ」
へへ――――――っ、と村人全員が土下座する。まだ子供だが、公爵令嬢と伯爵さま(?)のご来訪だ。
「へえ、じりじりと水嵩が増えだしたのは、そう二年半ばかりも前になりますかねえ。誰が何をしでかしたのか、メイジでもなく精霊と話せぬわしらには、分かりかねます」
「前の領主のド・モンモランシさまも、数年前の領地の干拓の時にアレの機嫌を損ねて、だいぶ領地を失われました。代々交渉役を務めて来られた名家だったんですが、それ以来借金して没落しまして、今は別の貴族が領主さまです。お家は存続しておられるらしいんですがねえ……」
「新しい領主さまは、宮中でのお付き合いに忙しくって、めったにこちらには来られません。そのくせ、税金は前どおり取っていかれますよ。まあ、アルビオンとの戦争もありますし……」
「ふうーん、モンモランシーの実家のド・モンモランシ家が、前の領主だったのね。二つ名はやっぱり『香水』じゃあなくって『洪水』じゃないの!」
いろいろと情報は入るが、やはり水の精霊に会わない事にはどうしようもない。
「水の精霊の涙かあ……確か、ご禁制の『惚れ薬』の材料にもなるのよね。相当高いんでしょ?」
「ぼくのポケットマネーでも、なんとか出せる程度にはな」
水の精霊の涙、小瓶にほんの少量。それだけで末端流通価格が700エキューは下らない。年収120エキュー(月収10エキュー)の平民が一人慎ましやかに暮らして、5~6年は生活できる計算だ。およそ現代日本での円に換算して仮に1エキューが1万円とすれば700万円。庶民の涙がちょちょぎれたって、そうそう出せる金額ではない。
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それはさておき、翌朝早く。二人と四匹は再びラグドリアン湖岸へ向かう。
「ぼくの『ヴィンダールヴ』があれば、河童もといヴォジャノーイぐらいなら操れるだろう。亜人にも効くのかどうかは分からないが……さもなければ実力行使かな」
「水の精霊は強いわよ。風で凍らせたり、火で蒸発させたりすればダメージは行くでしょうけど、規模の桁が違いすぎるもの。あの湖全体が、一つの生き物と考えていいわ」「ほう、博識だなルイズ」
「まあね。アレは『全にして個』なるモノで、私たち人類とは根本的に違う存在なの。争いを好まないから神代以来あそこにじっとしているけど、怒らせたら怖いわよ。少しでも水に触れたら一瞬で精神を支配され、永久にアレの下僕よ。ヴォジャノーイもきっとそうなのかも……」
ふうむ、と松下は思案する。モンモランシーの実家が前の交渉役だと言うなら、彼女を利用すればいいのでは?
「よし、第三使徒モンモランシーよ。きみを『ヴィンダールヴ』の力で操り交渉役とする。ロビンの方は残しておいて、連絡係だ。手に負えないようなら水面まで呼び寄せるのだ」「グワッグワッグワッ、ゲロゲロゲロ」
モンモランシーから『蛙女』になりかかっているソレは、肯いてちゃぽんと水中に跳び込む。ルイズとギーシュが心配そうに水面を覗き込む。
やがて、ロビンがクワックワッと鳴きだした。
「おお、ようやく連絡がとれたか。よし、水の精霊が出てくるぞ」
ルイズが緊張する。あのタルブでの『虚無』の覚醒から、簡単なコモンマジックは使えるようになったが、いまだに系統魔法では爆発しか起こせない。強敵には敵わないのだ。
やがて岸辺から30メイル沖の水面が、虹色に輝いてぐねぐねと動き始める。それはざばりと持ち上がって蠢き、色と形を変えながら様子を伺っている。
「我、汝を求め会う事を得ん!水の精霊よ、汝がここに来たれるは嬉し!」松下が両手を掲げ、言霊で歓迎する。
「我らに似たる姿を取りて、我が要求に答えよ!」
水の精霊はそれに応え、粘土細工のように自ら姿を変化させ、『蛙女』の形となる。モンモランシーは役目を果たし、岸辺に戻ってきた。
《……我を呼び出したのは貴様か、単なる者よ。この存在の体を流れる液体を、我は覚えている。月が52回交差するほど以前、この女は我と接触した。そして今、我の欠片も混ざり合っている……》
「ようこそ、水の精霊よ。その女と、ここにいる『モグラ男』の心身を元の人間に戻すため、新たな欠片が欲しいのだ。きみがその女から欠片だけを分離できれば、やってみせてくれ」
精霊の表面に、ざざざざざと細波が立つ。
《我にはできぬ。この者の心身と媒体によって結び付けられ、溶け合っている。我の欠片を再び与えれば、確かにこの者は元に戻るであろう……》
「では、頼む。できる範囲でのお礼はするつもりだ」
《条件がある。我は今、水を増やす事に力を注いでいるが、そのゆえにか襲撃されている。対岸、貴様たちがガリアと呼ぶ地の岸から、ここ数日、毎晩メイジが水底まで来て襲ってくるのだ。手下のヴォジャノーイも数体殺された。奴らを撃退すれば、欠片を与えよう》
「メイジが襲撃ですって? あ、あの、なぜ貴女は水嵩を増やしているの? そうしなければ、襲われないですむわ」
《汝ら単なる者には、我の価値判断が理解できまい。条件をのめば教える》
ルイズはむっとするが、敵に回せば恐ろしい相手だ。うかつに攻撃は出来ない。
「分かった、水の精霊よ。我々がその者たちを捕らえ、二度と害をなさないようにすれば、欠片をくれるのだな。そして、それを実行するに当たって、もう一つ。我々が撃退に成功した場合、水嵩を元に戻してくれ。周辺住民に被害が出ており、いずれはきみをまた騒がせる事になるからね」
《よかろう。まずは、奴らを追い払うのだ。この我が、己の誓約を破る事はない》
かくして、二人と四匹はガリア側の岸辺へ向かう事になった……。
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【第三章 水と風】
水の精霊の頼みを受け、一行はガリア側の岸辺へ向かう事になった。とりあえず村に戻って事情を説明し、準備を整える。一周すれば200リーグはあろう湖の対岸に向かうのだ。舟で行けば、数時間はかかるのではないか。空を飛ぶ『魔女のホウキ』はあるのだが。
「それにしても、水底まで襲ってくるメイジなんて、かなりの使い手よ」
「系統はなんだろうな。二年半前にも同じような事があったのかも知れん」
「おそらく風ね。火は当然水中では使えないし、土は沈んでしまうだけ。水メイジなら水中でも呼吸できるけど、水の精霊は水に触れただけで相手を操れる。でも風なら、周囲に空気の球を作って水に触れずに行動できるもの」
風か。ワルドの件もあり、手強いイメージがある。トライアングル級か。
「だけど、いくら相当の使い手でも、水の精霊のテリトリーまで降りていって喧嘩を売るなんて! スクウェア級のメイジか、よほどの命知らずか。空気の球を潰されたら確実に死ぬのよ!」
ならば、水の精霊やヴォジャノーイの助力も仰げるという事かも知れない。とは言え、独力で解決する方が望ましいだろう。
ぱしゃぱしゃと足音をさせて、松下は湖面を歩き出す。濡れているのは靴底だけだ。「ちょ、ちょっと! あんた、そんな事もできたの!?」
「ぼくを誰だと思っている、東方の神童だぞ。これぐらいの術はできて当然だ。湖の様子を見がてら、歩いて渡ってみる。差し渡し30リーグほどだろう、半日で着く。きみはモンモランシーやギーシュたちと一緒に、ホウキで渡ってきたまえ」
逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、(イエスは)湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい、私だ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。
新約聖書『マルコによる福音書』第六章より
その前の夜、トリスタニアの王宮にて。新女王アンリエッタは無数の公務に忙殺され、しばらく寝る暇もない日々だった。ようやく仮眠が取れる。亡き父王の寝室にある巨大なベッドで、アンリエッタはうつ伏していた。
明日の朝も早い。ゲルマニアの大使との折衝が控えている。疲労を顔に出しては見くびられる。この頃は栄養ドリンク代わりに酒量が増えた。二日酔いは水の魔法で消せるが、積もる疲労は癒し難い。
「はぁ…………疲れた」
さしもの彼女も人間だ。弱音の一つも吐きたいが、吐き出す相手がいない。枢機卿は厳しいし、護衛や女官に吐けば外国の間諜に伝わるだろう。幼馴染の友達は、外出中だという。年頃の娘だというのに……私は、ほとんど色恋もした事がない。王族に、まして女王に滅多な恋愛はできない。すぐスキャンダルの種にされ、戦争の道具だ。結婚は政治の一環でしかない。王座の重圧に精神が擦り切れそうになり、またワインの杯に手が伸びる。
扉が、ノックされる。また仕事か。億劫そうにガウンを羽織り、誰何する。
「ラ・ポルト侍従長? それとも枢機卿? 名乗りなさい、また厄介ごとですか?」だが、返事はない。すっと杖を引き寄せ、語調を強める。
「誰ですか?名乗りなさい!こんな夜更けに女王の寝室を訪問するのです、名乗らないという法はありませんよ。無礼者と叫んで人を呼びましょうか」
「僕だよ、アンリエッタ。この扉を開けておくれ」
………幻聴だ。酒の飲み過ぎだ。彼は確かに、死んだと報告されたのだから。
しかし、アンリエッタの胸には期待もあった。この声は確かに、あの恋人、愛しの皇太子。
「ウェールズだ。きみの従兄、アルビオンのウェールズだ」
「本当に、ウェールズさま? いいえ、あの方は裏切り者の手にかかって、亡くなられたはず」
形見の『風のルビー』もここにある。嘘だ、嘘だ、敵の謀略だ。
「死んだのは影武者さ。きみの大使、ミス・ヴァリエールの使い魔くんは、たいした策士だったよ。敵を欺くにはまず味方から。では、僕がウェールズだという証拠を『聞かせよう』」
アンリエッタは震える。おお、この声、この瑞々しい命の波動は、間違えようはずがない。
「風吹く夜に」
「水の誓いを」
ラグドリアンの湖畔で、何度も交わした、二人しか知らない合言葉。
アンリエッタが扉を開くと、懐かしい笑顔が待っていた。
「おお、ウェールズさま……よくぞ、ご無事で」
あとは、声が震えて話が続かない。胸に顔を埋め、若き女王は泣き暮れる。
「心配をかけたね、アンリエッタ。相変わらず泣き虫だ」
「てっきり貴方は死んだものと……。もっと早くにいらして下されば、よかったのに」
「敗戦の後、巡洋艦に乗って大陸へ落ち延びた。敵に居場所を悟られないよう、ごく僅かな部下とともに、何度も隠れ家を変えながらトリステインの森に潜んでいた。城下にやって来たのは、二日前さ」
皇太子の手紙を届けてくれたのは、あのルイズの使い魔であるマツシタ少年だった。彼は偽の手紙を敵に取らせ、本物を持ち帰った。ならば、この殿下も……。
「きみが一人でいられる時間を調べるため、待たせてしまったね。まさか白昼堂々と、謁見待合室に並ぶわけにもいかないだろう?」
「意地悪ですわ、ウェールズさま。どんなに私が悲しみ、寂しく辛い日々を送ったか、男の方には分からないのね」
「分かっているから、こうやってお忍びで来たんじゃあないか。愛しているよ、アンリエッタ」
二人はしばし抱き合う。やがてアンリエッタが口を開いた。
「ご遠慮なさらず、この城にご滞在下さいな。艦隊に大ダメージを受けた『レコン・キスタ』には、今のところ我が国に攻め込む力はございませんもの。やがては情勢を整えて、貴方を旗頭に押し立て、王政復古の義軍を起こし、誇り高きテューダー王家の旗を再び翻らせましょう!」
勇ましい女王に、ウェールズも苦笑する。
「おお、アンリエッタ。すっかり女王陛下が板についたじゃあないか。けれど、トリステイン一国では、遠くアルビオンへ攻め込むことは不可能だ。だから僕は、ゲルマニアやガリアとも連合しなければならないと思っている」
「そのために、現在私が寝る間も惜しんで折衝中ですわ。貴方さえいれば、各国もノンとは言えませぬ」
ウェールズは肯いて、続ける。
「僕も、ガリアのさる高位の貴族と連絡を取ることに成功した。信頼できる相手さ。国境のラグドリアン湖で密かに会見する手筈になっている。ついてはきみも臨席して欲しい」
「ああ、貴方と誓約したあの湖で、王政復古を誓えるのですね。万一に備え、近衛兵もお付けしましょう。今夜はゆっくりお休み下さい。愛を語らいたいのは山々なのですけれど……」
「明日出発では間に合わないんだ。今すぐ行こう」
ウェールズはアンリエッタをぐいっと抱き寄せ、唇を奪うとともに魔法の秘薬を含ませる。幸せな気分のまま、女王は眠りに落ちた。
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深夜。ラグドリアン湖の広大な水面に、双月が映える。
「ルイズ。何か気配がする、注意しろ。占い杖も動き出した」
湖畔の森の中、小声で松下が呟く。ルイズも無言で肯き、モンモランシーたちを制する。敵だ。相手はおそらく、風のトライアングル級。何人いるのかは、『全にして個』なる精霊には分からなかった。だが、そう大人数でもないだろう。
人影が岸辺に現れた。漆黒のローブを纏い、深くフードを被って顔を隠している。人数は二人。やや長身のメイジと、かなり小柄なメイジ。二人は水辺に立って、小柄な方が風の系統魔法を唱え始める。
「あれだな。よし、奇襲をかけよう。ギーシュとヴェルダンデは、地中から奴らの足元に陥穽を掘るのだ。モンモランシーはお得意の水中戦に持ち込むため、そこから湖の中に入っていろ。やばそうならヴォジャノーイを呼べ。ルイズは……ロビンと連絡係をしていろ。重要な役だ」
「私、蛙は嫌いなんだけど……まあいいわ、行ってらっしゃい。事情を聞きたいから、殺しちゃダメよ」「言われるまでもない」
松下は、茂みに巣を張っていた蜘蛛を何匹か捕まえていた。それらに何事か呟き、ぱあっと空中に放り投げる。蜘蛛たちは一斉に糸を噴き出し、丈夫な網がふわりと二人を襲う。
「『エア・ハンマー』!」「『ファイアー・ボール』!」
小柄な方から風の槌が、長身の方から火の玉が飛んで、網を破壊する。
声からすると、二人とも女性。しかもまだ若い。その足元に、ガボッっと大穴が開く。二人は咄嗟に飛びのき、距離を取る。
「待ち伏せとはね!ヴォジャノーイたちも知恵をつけてきたってわけ!?」「排除する」
二人は杖を構えるが、その声音は確かに聞き覚えがあった。
「待て! きみたちは、タバサとキュルケか!?」
「え? まさか……マツシタくんと、ルイズ!?」
呆気に取られ、一同は顔を見合わせた。
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「………なるほど、そう言うわけだったのね。二人とも、すっかり人間をやめてしまって……。まるで実家で見た『東方』の絵巻物ね。トバ大司教の筆だなんて書いてあったけど、大司教があんなの描くのかしら」
「まあ、きみたちで良かった。事情は知らないが、精霊を攻撃するのは中止してくれ」
「……任務。この一帯には、私の実家の領地もある」
「ええっ、そうだったのタバサ! でも、精霊から事情を聞き出せれば、きっと水も引くわよ。ね、マツシタ」
本当はガリア王家からの任務で、水の精霊の涙を持って来いという難題だったのだが、タバサは隠した。それに、かの秘薬があれば、母の毒も除去できるかも知れない。タバサにも『水』系統の心得はある。
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「……と言うわけで、きみを襲撃するメイジは攻撃をやめた。さあ、誓約を果たしてくれ」
《よかろう。その青い個体が密かに所望する欠片も、ついでにくれてやる》
精霊の体から、《涙》が三滴切り取られ、ふわふわと落ちてくる。松下とタバサは、それを用意しておいた小瓶に入れる。
「さて、もう一つ。きみが水嵩を増やしていたのは、いったいなぜだ? 事と次第によっては、我々が協力できるかも知れないぞ」
精霊はぐねぐねと蠢き、躊躇うような動きをする。
《……話して良いものか、我は悩む。しかし、我との誓約を護ったならば、信用して話すとしよう。……我が悠久の昔より護りし秘宝、『アンドバリの指輪』を、お前たちの種族が盗んだのだ》
秘宝盗賊か。フーケといい、どうも縁がある。
《我が暮らす最も濃き水底より、秘宝が盗まれたのは、月が30ほど交差する前の夜であった。個体の一人の呼称は、確か『クロムウェル』と発音されていた》
「クロムウェル、か。例の『レコン・キスタ』の親玉だな」
「おおよそ2年半前ね。それ以来、水嵩が増えだしたってわけ……」
《我は復讐したいわけではない。無礼者には怒るが、そのような無益な感情を我は持たぬ。ただ、秘宝を取り戻したいだけ。水が大地を再び覆い尽くすその夜には、我が体が秘宝の在処を知るであろう》
なんとも気の長い話だ。年に10メイルずつ侵食したところで、ハルケギニア全土を水没させるのに何千年かかるのだ。
《我とお前たちでは、存在と時間に対する概念が異なる。我にとって全は個、個は全。過去も未来も、我は変わらず存在する。死も消滅も我にはない。いつから我が存在していたか、我も他も知らない。お前たちの始祖、ブリミルさえも》
哲学的な精霊だ。この水の精霊がいるからこそ、トリステイン王家には『水のルビー』が伝えられたのだろう。
「アンドバリの指輪ね。確か、偽りの生命を死者に与える、先住の力のマジックアイテム……」
キュルケが呟く。先住魔法と呼ばれる精霊の力は、ハルケギニアの人類にとって、始祖以来の脅威なのだ。
《然り。死を恐れるお前たち定命の存在にとって、魅力的なものではあるのだろう。しかしながら、旧き水の力が与え得るのは、所詮仮初の命であって益にはならぬ。指輪を使った者に個々が従い、同一の意思を持つように動くという。お前たちは、不便なものだな》
クロムウェルが一介の司教から神聖皇帝に成り上がったのも、それが絡んでいるのかも知れない。松下は両手を掲げ、精霊に呼びかける。
「よかろう、クロムウェルは我々の敵でもある。いずれ指輪を取り戻してくるとしよう」
《溜め込んだ水の力を使い果たせば、指輪の宝石は溶けて蒸発する。まあ、それでもかまわぬ。お前たちの定命が尽きるまでに持って来れば、よしとしよう。明日も千年後も我には変わらぬ……》
言い終わると、精霊は波音を立てて水底へ去って行った。