【つの版】ウマと人類史:中世後期編09・靖難之変
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
14世紀末、ティムールが再びの西方遠征に出発した頃、チャイナの明朝では国を二分する内戦「靖難の変」が起きていました。建国者の洪武帝・朱元璋が崩御した後、帝位を巡って争いが勃発したのです。
◆南北◆
◆戦争◆
燕王挙兵
朱元璋には26人の男子がおり、長男の標が皇太子となっていましたが、彼は1392年に父に先立って逝去しました。嘆き悲しんだ朱元璋は標の次男允炆を皇太孫とします。他の子らや宗室は藩王として全国各地に封建され、独自の軍隊を擁して国防に当たりました。
次男の樉は元将ココ・テムルの妹を娶り、秦王として西安にいましたが、1395年に病没し、子の尚炳が跡を継ぎました。三男の棡は晋王として太原にいましたが、1398年3月に病没し、子の済熺が跡を継ぎました。そして四男の棣は燕王として北平(燕京/北京)に駐屯しており、朱元璋が1398年閏5月に崩御した時は皇子らの中で最年長でした。
朱元璋の子らは名に木が付き、孫は火が付きます。これは1389年に朱元璋が定めたもので、自らの子世代は木、孫は火、曾孫は土、玄孫は金、その子は水と「五行相生」の順に従って偏旁を付けるよう命じたためといいます。
朱元璋が崩御すると、遺言に従って皇太孫の允炆が皇帝に即位し、翌年に改元して建文としました(崩御の同年は喪中なので変えません)。これが建文帝です。祖父が晩年の大粛清によって反対派を皆殺しにしたため、朝廷における皇帝の独裁権力は甚だ強くなっていましたが、建文帝の最大の政敵となったのは多数の軍隊を率いて各地に駐屯する叔父たちでした。
かつて漢の景帝がそうしたように、建文帝と側近たちも藩王の勢力を削いで中央集権を全国に行き渡らせようとします。慎重に進めねばなりませんが彼らは事を急ぎ、1398年7月に周王が、1399年4月に斉王・代王・湘王が謀反の罪で廃位され、庶民に落とされます。湘王は恥辱に耐えられず宮殿ごと焼身自殺し、6月には岷王が廃位されます。斉王と代王は軟禁され、周王と岷王は流刑となり、燕王も軍事力削減を命じられて追い詰められます。1399年7月、挑発に耐えかねた燕王は北平において「君側の奸を討ち国難を靖んずる」と称して挙兵し、自軍を「靖難軍」と呼びました。
南北大戦
彼は通州・薊州・居庸関を制圧して背後を固めると、8月に老将の耿炳文率いる討伐軍を撃破します。耿炳文は河北の真定府(石家荘市)に籠もって抗戦し、燕王はこれを落とせず撤退しますが、建文帝は敗戦に怒って耿炳文を更迭し、李景隆を大将軍に任じて呼号50万の大軍を授けました。10倍に誇張したとしても5万の大軍です。燕王は敵が凡将に代わったのを喜び、11月に官軍を撃破して敗走させ、1400年1月には蔚州と大同を占領して西方を安定させます。大粛清で功臣を多く失った明朝に対し、燕王軍は北方の辺境で戦って鍛えられており、物量の差は大きくても軍事力で引けは取りません。
続いて建文帝は名将徐達の子・徐輝祖らを派遣し、呼号100万の大軍を北上させます。燕王は苦戦しながらもこれを撃破し、官軍の武器や兵糧を獲得します。勢いに乗った燕王軍は山東まで攻め込みますが、山東参政の鉄鉉は済南城に籠もって3ヶ月も防ぎ、撤退する燕王軍を追撃して徳州・滄州を奪還する功績をあげています。燕王は北平に戻ると兵を整え、10月に滄州を急襲して奪還します。しかし12月に盛庸率いる官軍に東昌(山東省聊城市)で敗れ、宿将の張玉が戦死し、燕王は僅かな手勢とともに逃れました。
1401年、燕王は軍を立て直して反撃を開始します。1月の深州(河北省衡水市)での戦いでは敗れますが、3月に滹沱河で盛庸を撃破し、閏3月には藁城で官軍6万を打ち破ります。4月には大名府(邯鄲市)に進出し、建文帝から「側近の斉泰と黄子澄を退けるので兵を退くように」との妥協案を提示されます。「君側の奸」がいなくなれば官軍に逆らう大義名分がなくなりますが、燕王は「では盛庸らをそちらへ戻すように」と返答します。これに対し建文帝は「軍を北上させ、燕王軍の解散を見届ける」と答え、燕王は拒絶して和平交渉は決裂します。
5月、燕王は徐州に侵攻して官軍の輸送船を焼き払い、徹底抗戦の構えを見せます。北平(北京)と長江流域は大運河で繋がれており、軍隊や兵糧を送り込むこともできました。官軍は反撃して北平城外まで迫りますが、攻めきれずに撤退し、しばらくは散発的な戦闘が繰り返されます。この間に燕王は応天府へスパイを送り込み、内通者との連絡に成功します。
1402年1月、燕王は滹沱河で再び官軍を撃破すると一気に南下し、泰山の西側を通って黄河を渡ります。この時、大義名分を重んじる儒者にとやかく言われぬよう「曲阜と鄒県(孔子と孟子の生誕地)では掠奪を厳禁する」と命じています。3月に宿州で官軍を撃破したものの、4月に蒙城付近で何福と平安率いる討伐軍に撃破され、一時撤退論が諸将に広がります。これに対し、将軍の朱能は「かつて漢の高祖は項羽に何度も敗れたが、最後の勝利で天下をとったではないか」と反論し、士気を鼓舞しました。燕王も勇気づけられ、再び攻勢に出て官軍を撃破します。
燕王軍はさらに霊璧城を攻め落とし、5月には皇室の墳墓がある泗州が降伏、淮水のほとりで盛庸らを撃破して揚州城を制圧、朝廷との和議を拒絶して6月に長江を渡りました。応天府北岸の鎮江は戦わずして降り、応天府の金川門を守備していた李景隆は谷王とともに門を開いて降伏しました。建文帝は宮殿に火を放って自害し(僧侶に変装して逃亡したとも)、燕王は応天府に入城します。ここに3年に及んだ内戦は終結しました。
燕王登極
燕王は同月に即位し、建文の元号を削除して洪武に戻し、翌年「永楽」と改元しました。これが永楽帝です。彼は自らに背いた建文帝一派を粛清し、太祖洪武帝の跡を継ぐ「第2代の皇帝」として明朝に君臨しました。また建文帝に廃位された藩王たちを復活させましたが、反乱を起こさぬよう次第に護衛と官員を削り、内地へ呼び寄せ廃位します。代わって自らの子や靖難の変の功臣に大封を与え、主な軍隊を手元に置いて中央集権を確立しました。
しかし応天府周辺や江南、主戦場となった河南・山東では反燕王派が根強くいました。せっかくモンゴルを北方へ追いやったのに、皇族とはいえ北方に拠点を持つ燕王を皇帝に戴くことになり、庶民の不満や建文帝に対する判官びいきも手伝って不穏な情勢となります。第一、国防の拠点である北平を皇族や将軍に委ねれば、またぞろ靖難の変を起こしかねません。古くは安禄山の乱、近くは契丹や女真やモンゴルの侵攻も、ここから中原(華北平原)を抑えることで可能になったのです。
そこで1403年2月、永楽帝は自らの拠点である北平を北京順天府と改め、新たな首都と定めます。各地の富裕層は北京へ移住させられ、朝廷を置くに相応しい規模に拡充されます。もともとクビライが大都を置いていましたからインフラは整備されており、北方を守るのにも南方へ睨みをきかせるにも良い立地です。1406年からは皇宮として紫禁城の建設が始まり、1420年に完成しました。永楽帝は1421年に遷都を宣言し、応天府は南京とされました。これより北京は長らくチャイナの首都となり、現在に及んでいます。
歴代のチャイナの王朝の首都を見てみれば、西周・秦漢・隋唐は陝西、殷商・後漢・魏晋・五代・北宋は河南、南朝・南宋は江南に置かれています。北京に都を置いたのは燕・契丹/遼・金・大元といった北方系の王朝で、いずれも非漢人の政権です。明朝の朱氏は先祖も定かならぬ卑賤の出自ですが、一応漢人です。その明朝の首都が北京に遷ったのですから、始皇帝が統一した規模の「漢人の」チャイナだけでなく、クビライが建設した世界帝国を再統一しようという気運が高まってもおかしくありません。ここにチャイナ/中華・中国という概念は現代的な規模まで拡大したのです。次回は、永楽帝の行った大遠征について見ていきましょう。
◆Hellow,◆
◆World!◆
【続く】
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