【つの版】度量衡比較・貨幣89
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
豊臣秀吉はスペイン領フィリピンなどへの侵攻を企図し、国内のキリスト教徒26人を処刑して脅しつけましたが、1598年に薨去しました。跡継ぎの秀頼はまだ幼く、政権内部では権力闘争が勃発します。オランダ船リーフデ号が日本に漂着したのは、このような時期のことでした。
◆関◆
◆原◆
大老家康
幼少の秀頼を輔佐するため、秀吉は遺言により五人の有力大名と五人の側近による合議制をとらせました。いわゆる五大老(当時は老中衆・年寄衆)および五奉行です。五大老とは徳川家康、毛利輝元、前田利家(1599年に逝去すると息子・利長が継承)、宇喜多秀家、上杉景勝(1597年までは小早川隆景)で、五奉行とは石田三成、浅野長政、前田玄以、増田長盛、長束正家です。いずれ劣らぬ有力者でしたが、石高では五奉行を合わせても73万石にしかならず、関八州255万石を有する家康が一頭抜きん出ていました。
本能寺の変の後、本国三河・遠江・駿河に戻った家康は、旧武田領を巡って北条氏と争ったのち、和睦して甲斐と信濃を獲得しました。また織田信雄を支援して秀吉と争いますが、交渉の末に講和し、秀吉に臣従します。そして1590年に北条氏が秀吉に降伏すると、秀吉は家康から三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五ヶ国を取り上げ、北条氏の領有していた関八州に移封したのです。先祖代々の故郷や苦労して得た領地を奪われ、旧敵国の統治を委任されたわけですが、家康は頑張って新たな領国を治め、奥州平定にも尽力しました。朝鮮の役では東国の大名ゆえ渡海せずに後詰めとなり、国力や財力を蕩尽せずに済んでいます。信長以来の同盟者で秀吉との縁も深く、国内最大級の大大名として、家康は次の天下人を狙える地位にありました。
対する石田三成は家康より14歳年下で、秀吉に小姓として仕え、有能な行政官僚として豊臣政権を支えました。三成が「秀次事件の首謀者」だとか「文治派と武断派の対立」という話は江戸時代に作られ誇張されたもので、キリシタン弾圧の際も捕縛者の減少や減刑のために奔走しています。
秀吉は秀次事件ののち、大名を統制するため「御掟(おんおきて)」という五箇条の法令を発布し、大名同士が許可なく婚姻を結ぶこと、誓紙を交わして同盟することなどを禁止しました。これに連署したのがいわゆる五大老ですから、彼らはこれを守る義務がありますが、家康はこれを無視し、奥州の大大名・伊達政宗らと子女を私的に婚姻させています。
秀吉の遺言で秀頼とともに大坂城におり、伏見にいた家康を牽制していた前田利家はこれを見逃さず、奉行衆らとともに家康の「御掟」違犯を追求しました。両者は一触即発の緊張状態となりますが、誓書を交換して(これも御掟違犯のはずですが)騒動を鎮めました。翌1599年に利家が逝去すると、三成が加藤清正ら七将に襲撃され、伏見の自邸に立て籠もるという事件が勃発します。朝鮮の役で気に食わないことがあったとの言い分ですが、おそらく家康の差し金です。家康は輝元や景勝、北政所(秀吉の正室)らと合議して仲裁し、三成の奉行職を解いて蟄居に追い込みました。
同年9月に家康は伏見を出て大坂城に入り(これも秀吉の遺言に違犯しています)、「家康に対する暗殺計画が発覚した」として浅野長政らを失脚させます。さらに「計画の首謀者は前田利長である」として諸大名に利長討伐を呼びかけます。あからさまな政権奪取のための策略ですが、仰天した利長は家臣を派遣して弁明し、人質を江戸に送ることで決着しました。家康はそのまま大坂城にとどまって実権を掌握し、合議によらず単独で諸大名の加増や転封を実施します。国内屈指の実力者ですから誰も逆らえず、奉行衆や諸大名もやむなく従い、三成もこの頃は家康に逆らっていません。
蘭船漂着
慶長5年3月16日(西暦1600年4月29日)、オランダ船リーフデ号が豊後国臼杵湾の黒島に漂着します。マゼラン海峡から太平洋を横断して東南アジアを目指す途中、スペイン船や嵐に遭遇して船団はバラバラになり、乗組員も110名から24名にまで減っていました。臼杵城主の太田一吉は小舟を出して彼らを上陸させ、長崎奉行の寺沢広高に通報します。彼は乗組員を拘束して武器や弾薬を没収し、大坂城へ使者を遣わして指示を仰ぐことにしました。
秀頼は当時7-8歳で、実権は五大老筆頭の家康が握っています。彼はキリスト教に対しては無関心で、弾圧も信仰もしませんでしたが南蛮貿易の利益を求め、ポルトガル出身のフランシスコ会宣教師ジェロニモ・デ・ジェズスに布教を許可し、1599年には江戸に教会建設を許可しました。ジェズスは翌1600年にはマニラへ戻り、日本との貿易の仲介役として働いています。
しかし、オランダはスペインと敵対するプロテスタントの国です。畿内にいたスペイン人やポルトガル人、イエズス会などはオランダ人が日本と接触することを嫌い、彼らは海賊であるから即座に処刑するよう進言しました。家康はこれを無視し、どのような連中か引見して見ようと大坂へ招きます。ただ船長のヤコブ・クワッケルナックは病気で動けず、航海長でイングランド人のウィリアム・アダムスらが大坂へ向かうことになりました。
アダムスは1564年生まれでこの時36歳。船員の父を持つ根っからの海の男で、1588年には海軍に入り、アルマダの海戦に参加しています。翌年結婚して娘と息子を儲けますが、貿易会社所属の船員として世界中を飛び回っており、1598年には弟トマスとともにオランダのロッテルダムから極東を目指す冒険航海に志願します。しかし上述のように遭難し、弟も殺され、命からがら日本に漂着した男でした。
アダムスはオランダ人船員のヤン・ヨーステンらとともに大坂へ赴き、慶長5年3月30日(1600年5月12日)に家康に謁見します。彼は家康からの質問に次々と答え、オランダやイングランドがスペインやポルトガルとは宗派が異なり、戦争中であることを臆せずに説明し、家康に気に入られました。家康は彼らを投獄しつつも処刑せず、ついにはリーフデ号ごと江戸へ連れて行き、米や俸禄を与えて厚遇しました。リーフデ号は浦賀で沈没しますが、その大砲や武装は回収され、家康はこれをのちの戦に活用したといいます。
関原之戦
この頃、家康は五大老の一人・上杉景勝との関係を悪化させていました。彼は越後の大大名・上杉謙信の甥にあたり、謙信に子がなかったため養子となり、秀吉に臣従していた人物です。秀吉は彼を五大老の一人として重用しましたが、最晩年の1598年には越後から奥州会津へ転封し、家康を牽制する役割を与えています。しかし景勝は領内の山道を開き、橋を修理させ、浪人を集め、築城や城の整備を行ったため、家康から「反逆の意志あり」と詰問されます。景勝は弁明しますが家康から「無礼千万な書状である」とされ、会津征伐計画が着々と進められます。
慶長5年6月(1600年8月)、家康は朝廷や秀頼、淀殿(秀頼の母)の承認を得て会津征伐に出発し、7月には江戸に入ります。これに対し、五大老のうち西国最大の勢力(山陰山陽100万石余)を持つ毛利輝元が、三奉行や石田三成らの要請を受けて反家康の兵を挙げます。備前・播磨等を領する宇喜多秀家らもこれに呼応し、輝元は大坂城に入って畿内を制圧しました。
輝元を総大将、秀家を副大将とする西軍は伏見城を陥落させ、伊勢・美濃にまで侵攻し、急報を受けた家康は会津征伐を中止して西へ引き返します。奥羽・北陸・四国・九州でも東西(家康派・輝元派)両軍に分かれて諸大名が合戦を開始し、天下は混乱に陥ります。
家康は各方面へ矢継ぎ早に兵や書状を送り、最上義光と伊達政宗に景勝を抑え込ませ(慶長出羽合戦)、前田利長を東軍に引き止めさせます。西軍も盛んに虚報を流して諸大名を混乱させ、味方に引き込みます。9月15日には美濃国関ヶ原にて両軍が激突し、西軍が大敗を喫して勝負は決しました。家康は西軍の諸将を処刑・減封・転封し、東軍の諸将に領地を分け与えます。豊臣秀頼は摂津・河内・和泉65万石の大名として存続しますが、今や400万石の大大名となった家康との差は歴然としていました。慶長8年2月(1603年)、家康は朝廷より征夷大将軍、右大臣、源氏長者に任命され、名実ともに天下人となって江戸幕府を開きました。
天下を統一した家康は国内の貨幣制度を整える一方、アダムズやヤン・ヨーステンらを仲介役としてオランダや英国と交流し、東南アジア諸国とも外交関係を樹立し、長崎を拠点とする朱印船貿易体制を作り上げます。いわゆる「鎖国体制」成立以前は、日本は広く国際的に開かれた国だったのです。次回はそれを見ていきましょう。
◆漂◆
◆流◆
【続く】
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