【つの版】ユダヤの謎20・聖都入城
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
唯一神アッラーフの預言者ムハンマドは、マディーナを首都とする宗教国家を築き上げ、アラビアの諸部族を服属させ、マッカを征服しました。東ローマにもペルシアにも属さない独立国(部族連合)が出現したのです。
◆Allah◆
◆Akbar◆
代理後継
632年6月にムハンマドが逝去すると、人々は動揺します。イエスの時のように「彼は生きている、復活する」という声も上がりますが、アブー・バクルは「彼は死んだ、蘇ることはない。彼は神の子ではなく、ただの人間だ。ムハンマドが遺したアッラーフの教えに従うべきだ」と説いて騒動を鎮めました。彼はムハンマドの親戚にして3歳年下の親友であり、ハディージャやアリーと共に最初期の信者で、娘アーイシャを彼に嫁がせていました。
主だったムスリム(イスラム教の信徒)らは会議を開き、ムハンマドの遺した教団国家(ウンマ)を存続させることを決定し、多数決によってアブー・バクルをムハンマドの代理人(ハリーファ、カリフ)に選出し、ウンマの長としました。ムハンマドの後継者候補としては、他に養子で娘婿のアリーがいましたが、30歳過ぎの若造と60歳の長老では権威や経験・人脈に差があるのは当然で、大人しくアブー・バクルに従います。
しかしカリスマ的指導者であったムハンマドが世を去ったことで、多くの部族や有力者が「彼との契約は終わった」としてイスラム教から離脱します。このままでは教団は空中分解し、よくてマディーナとマッカを保持するだけの小勢力に成り下がります。アブー・バクルは彼ら「背教者(リッダ)」を討伐すると宣言し、アラビア半島再統一の戦いを開始しました。
ガッサーン朝との戦いで戦死したザイドの子ウサマは、ムハンマドの命令を受けて報復の戦いに出陣していましたが、アブー・バクルからムハンマドの訃報を受けてタブークで踏みとどまります。ウサマは使者を送り「マディーナへ戻って防衛すべきでしょうか」とアブー・バクルに問いましたが、「問題ない。そのまま戦え」との回答を得ます。そこでウサマはフザーアなど北アラブの諸部族を討伐しますが、その間に預言者を自称するトゥライハ率いる反乱軍がマディーナを包囲しました。
アブー・バクルは兵を率いて夜襲や奇襲を繰り返し、反乱軍を撃退します。8月にウサマの率いる主力軍が多数の捕虜や戦利品を携え凱旋すると、マディーナの民の士気は大いにあがります。反乱軍の籠もるマディーナ北東の町アブラクやズー・キッサは攻め落とされ、トゥライハは逃亡しました。しかし広大なアラビア半島には各地に自称預言者が出現し、イエメンやオマーンなどの諸部族も従おうとしませんでした。
アブー・バクルは麾下の軍勢を再編し、精鋭部隊を猛将ハーリドに授けて、中央アラビアの平定に赴かせます。ハーリドはトゥライハやムサイリマら偽預言者が率いる諸部族を撃破し、ペルシア湾岸に至るまでの地域に忠誠と貢納を誓わせました。イエメン、オマーン、バーレーンなどの諸部族も次々と平定され、アラビア全土はイスラム教のもとに統一されたのです。
ムサイリマは中央アラビアのナジュド地方ヤマーマの人で、ムハンマドを真似て「ヤマーマのラフマーン(慈悲深い者)」と名乗り、預言者と称して東方で自立しました。彼は女預言者サジャーフと結婚して同盟し、周辺部族を率いてイスラム教のウンマに敵対しましたが、ハーリドとの激戦の末に戦死したといいます。もし彼が勝っていたら歴史は変わっていたでしょう。
連戦連勝
部族連合の結束を強めるため、アブー・バクルはガッサーン朝や東ローマ、ペルシアへの遠征を計画します。部族連合の指導者は、諸部族を率いて戦いに勝利し、牧草地の所有権や戦利品を分配することを大いに期待されます。勇猛果敢なアラブの民は宗教心と利益で団結し、戦いを待ち望んでいましたし、両大国は疲弊していて絶好のカモでした。
ペルシアは東ローマとの大戦争で敗北した後、帝位継承争いが起きて各地に僭帝が乱立し、内戦状態にありました。632年にヤズデギルド3世が即位して一応収束したものの、天災と内乱が頻発して統治が行き届いていません。これに乗じて、633年にはハーリド率いるアラブ軍がメソポタミアに遠征し、連戦連勝してヒーラのラフム王国を滅ぼし、瞬く間にクテシフォン以南を征服しました。これもアッラーフの思し召しでしょう。
634年、老齢のアブー・バクルは在位2年で病没し、彼の指名により勇猛で信心深いウマルが二代目カリフに即位します。彼は謙遜して「使徒の代理人の代理人」と名乗る一方、「信徒たちの指揮官(アミール・アル=ムウミニーン)」とも名乗ります。ウマルはアブー・バクルの路線を受け継ぎ、東ローマとペルシアへの熱狂的な大遠征を指導しました。
アラブ軍は東ローマへも襲いかかります。彼らはアブー・ウバイダに率いられ、ヨルダン東部のボスラを攻め取りました。しかし反撃に遭い、ウマルはハーリドをイラクからシリアへ援軍に向かわせます。635年、アラブ軍はアジュナーダインで勝利をおさめ、パレスチナ南部やガリラヤ地方を制圧し、レバノンに攻め込んでバールベックを陥落させ、シリア南部のホムスを征服します。さらにエルサレムやダマスカスにもアラブ軍が迫りました。
東ローマ側では彼らをサラケノイ(サラセン人)と呼びましたが、これはアラビア語のシャルキーヤ(東の人)をギリシア語で訛って呼んだもので、古来東方の砂漠に住まうアラブ系遊牧民を漠然と指した言葉でした。
61歳の東ローマ皇帝ヘラクレイオスは事態を重く見、シリアの州都アンティオキアに大軍を集結させ、5路に分けて反撃に出ました。またペルシア皇帝ヤズデギルドに娘を嫁がせて同盟し、共に戦おうと申し出ます。ペルシア軍はハーリドが去った後のアラブ軍をイラクから駆逐していましたが、国内が疲弊していたため西へ兵を向けることはできず、東ローマとペルシアによる挟撃作戦は幻に終わります。これもアッラーフの思し召しでしょう。
アラブ軍はパレスチナ、ヨルダン、ダマスカス、ホムスの4方面に分散していましたが、捕虜から敵軍の作戦を知ったハーリドは各部隊を占領地から撤退させ、ヨルダン川の東の支流ヤルムーク川のほとりの平原に集めました。東ローマ軍は交渉の末にこの地で決戦を行うこととし、636年8月に両軍は陣を張ります。激戦の末、アラブの騎兵部隊が東ローマの騎兵部隊を撃破し、残る歩兵部隊を渓谷へ追い詰めます。東ローマ軍は総崩れとなり、総司令官のテオドロスらは戦死し、ダマスカスはアラブ軍の手に落ちました。
勝ちに乗じて、アラブ軍はペルシアとの決戦に臨みます。ウマルは将軍サアドに兵を授けてイラクへ向かわせ、ユーフラテス川沿いの町カーディシーヤに駐屯させ、敵の総大将ロスタムと和平交渉を行わせました。これが長引いている間に東ローマ軍はヤルムークで敗れ、ウマルはアブー・ウバイダに命じて古参兵5000人をイラク戦線へ送らせます。11月、ロスタムはアラブ軍を撃滅すべく、大軍を率いて打って出ました。
ペルシア軍はインドからの戦象を並べて突撃させ、アラブ騎兵は混乱するも弓兵と歩兵が反撃します。4日に及ぶ激戦の末、シリアからの援軍が総大将ロスタムに襲いかかり、砂嵐の中でこれを討ち取りました。ペルシア軍は総崩れとなり、アラブ軍は軍旗をはじめとする莫大な戦利品を獲得します。
637年1月、アラブ軍は北上してクテシフォンを包囲し、3月に陥落させました。皇帝ヤズデギルドは都を脱出してイラン高原へ逃れ、豊饒なイラク全土はアラブ軍の手に落ちます。アラブ軍は余勢を駆ってフーゼスターン(スサ付近)を占領しますが、旱魃や疫病の発生によりイラン高原への遠征は中止され、征服地の統治に取り掛かりました。サアドらはバスラやクーファといった軍営都市(ミスル)を各地に建設し、イラク支配の拠点とします。
聖都入城
ここにおいて、アラブ・イスラム国家(サラセン帝国、イスラム帝国)の版図はシリア・レバノン・パレスチナ・ヨルダン・イラクに及び、638年にはついにエルサレムを包囲しました。ウマルはマディーナを離れてシリアへ赴き、征服や統治の指揮をとりつつエルサレムへ向かいます。
イスラム教の伝説によれば、エルサレムはマッカとマディーナに次ぐ第三の聖地であり、ムハンマドがカアバ神殿で眠っている時にアッラーフによって一夜のうちにエルサレムへ移されたという「奇跡」の場でした。また彼はエルサレム神殿の至聖所跡の岩から天馬に載せられて天に昇り、昔の預言者たちと出会い、アッラーフの御前に至ったと言います。ムハンマドからこれを聞かされたアブー・バクルは「それは真実だ」と証言し、以後ムスリムはみなこれを信じたとされます。そういう夢でも見たのでしょうが、預言者とカリフの言うことですから誰も否定出来ません。ユダヤ教とキリスト教の聖地なので、権威付けのためエルサレムも聖地とするのは合理的です。
当時の東ローマ帝国のエルサレム大主教はソフロニオスといい、皇帝ヘラクレイオスとは教義上の論議で対立していました。彼はイスラム教を「偽預言者による邪教」として忌み嫌ってはいたものの、住民の意見を受け入れて降伏することに決めます。
アラブ軍は戦争で勝利した場合は略奪や殺戮、捕虜の奴隷化はしたものの、正式な和平条約(スルフ)を結んだ相手には手出しをせず、貢納を支払えば異教徒のままでいることを許しました。ただし多神教徒は不許可で、クルアーンで「アッラーフを崇めている」とされたユダヤ教徒、キリスト教徒、サービア教徒(サバ人、洗礼を行う民)だけです。彼らは「啓典の民」と呼ばれ、被庇護民(ズィンミー)として扱われ、人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)を納めれば生命・財産の安全と自分たちの信仰の自由が保障されました。明らかに不平等条約ですが、当時としては人道的です。
少数派が多数派を征服するには、プロパガンダで味方を増やし敵を減らすのが一番です。貢納も当時の東ローマやペルシアによる重税を鑑みれば軽く、人々は喜んでアラブ軍を迎え入れたことでしょう。「コーランか剣か」ではなく「クルアーンか剣か貢納か」というのが正確なところです。時代や人や状況によって変わるので、必ずしもそれが貫かれたとは限りませんが。
ウマルはソフロニオスからの申し出を受諾し、エルサレムに入城しました。彼は条約を書面で確認すると、ムハンマドが昇天の場としたという神殿跡地の聖なる岩を訪れ、礼拝を行いました。のちにこの岩を覆うため「岩のドーム」が築かれ、イスラム教の聖地となっています。
こうしてユダヤ教徒はイスラム教徒の庇護下でキリスト教徒と対等に扱われるようになり、イスラム教に改宗すれば支配層にもなれる時代が来ました。これもアッラーフの思し召しでしょう。しかしユダヤ教徒にとっては異教徒の支配が続いている状況に変わりはなく、エルサレムも神殿もユダヤ教徒の手には戻らなかったのです。
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アラブ軍の進撃はまだ止まらず、639年には将軍アムルがエジプトに侵攻します。エジプトのキリスト教徒は教義を巡ってコンスタンティノポリスの教会と対立しており、東ローマ帝国の支配も嫌われていたので、イスラム教徒はむしろ歓迎されました。アムルは640年から641年にかけて各地の都市を攻略し、東ローマ軍を撃破し、アレクサンドリアを陥落させてエジプトを平定します。アムルは軍営都市(ミスル)としてフスタートを建設し、リビアも服属させています。
642年には、サアド率いるアラブ軍がザグロス山脈を越えてイラン高原へ侵攻し、ハマダーン近郊のニハーヴァンドで将軍ペーローズ率いるペルシア軍を撃破します。ヤズデギルド3世はペルシア貴族らの支持を失って東方(ホラーサーン)へ逃げ、イラン高原西部もアラブの手に落ちます。
破竹の勢いで勢力を広げ、大帝国を築き上げたウマルでしたが、644年11月にマディーナで暗殺されます。下手人はアブー・ルウルウというユダヤ人ないしペルシア人の奴隷で、彼の主人ムギーラ(バスラとクーファの長官)が税金を課された恨みだと称していましたが、真実はわかりません。アブー・ルウルウはその場で取り押さえられ殺されましたが、大暴れして11人を負傷させ、うち9人を死亡させたといいます。
ウマルは重傷を負ったものの3日ほど生き延び、カリフの後継者候補としてウスマーン、アリー、サアドら6人を指名して、長老たちに選ばせました。会議の結果ウスマーンとアリーのどちらかとなり、最終的にウスマーンが選ばれます。アリー派には不満が残りますが、ウスマーンは70歳の長老で、信者となったのもアリーより早く、ムハンマドの娘ルカイヤとウンム・クルスームを娶ってもいました(共に早世)。彼の治世はどうなるでしょうか。
◆UAE◆
◆UAE◆
【続く】
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