【つの版】度量衡比較・貨幣90
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
1600年、関ヶ原の戦いに勝利して江戸幕府を開き、名実ともに天下人となった徳川家康は、国内の貨幣制度を整える一方でオランダや英国と交流し、東南アジア諸国とも外交関係を樹立し、長崎を拠点とする朱印船貿易体制を作り上げます。いわゆる「鎖国体制」成立以前は、日本は広く国際的に開かれた国だったのです。今回はそれを見ていきましょう。
◆朱◆
◆印◆
朱印貿易
朝鮮出兵を行って明国を脅かし、スペイン領フィリピンにも軍事侵攻を目論んでいた秀吉とは異なり、家康は海外諸国との友好関係を保つことに尽力しています。朝鮮との国交回復は1607年からとなり、明国は日本との国交回復・貿易再開を拒絶しましたが、家康は南の高砂(台湾)、呂宋(フィリピン)、安南(ハノイ)、交趾(フエ)、占城(チャンパ)、暹羅(シャム/アユタヤ)、柬埔寨(カンボジア)、太泥(マレー半島のパタニ)などへ次々と使者を派遣し、外交・貿易関係を樹立しました。
そして家康は大名や貿易商人に「朱印状」という貿易許可証を発行し、彼らの派遣する貿易船を庇護することを保証しました。海賊でも外国でも、朱印状を持つ船(朱印船)の権益を侵害する者は必ず追跡して処罰し、また朱印船が海賊行為をすることを厳しく禁止するとしたのです。これは家康の独創ではなく、1592年に秀吉が発行した記録があり、現存最古の朱印状は1604年のものです。また朱印船は必ず長崎から出航し、長崎へ帰港することと定められました。1605年、家康は長崎を天領(幕府直轄地)と定め、奉行を置いて対外貿易を統制させています。ただし朝鮮との外交・交易は対馬の宗氏が一手に引き受けたため例外で、長崎を経由することはありません。
朱印状を授かった者のうち、最も数が多かったのは商人で、記録に残る限り65名、婦人2名、琉球出身者1名がいました。大名では島津氏ら九州の諸大名9名と、因幡国鹿野城主の亀井氏を加えた10名に発行されています。武家では長崎・平戸・堺・大坂に数名、外国人では日本在留の明国商人(明の法律では密貿易者)11名、欧州人12名(ヤン・ヨーステンらオランダ人、ウィリアム・アダムスらイングランド人、ポルトガル人ら)に発行されました。
朱印船の主な目的は、明国の生糸や絹の輸入でした。明国は倭寇や秀吉の侵攻に悩まされ、日本との国交・貿易を断絶していましたが、琉球・朝鮮や東南アジア諸国、マカオ在留ポルトガル人との貿易は許可していたため、日本はそれらを介して明国との貿易を行ったのです。香辛料や砂糖、香木、鮫皮や鹿革など東南アジアの産品も日本へ輸入され、日本からは金銀や銅、銅銭、硫黄、刀などが輸出されました。銀は国際的決済手段として重宝されましたが、明国では「一条鞭法」によって税が銀で納められるよう義務化されたことから不足しており、明国商人は喜んで日本の銀を受け取りました。
1604年、家康は御用商人の茶屋四郎次郎を主導者として「糸割符仲間」という幕府公認の生糸カルテルを作らせ、輸入生糸の価格決定と一括購入を許可しました。これは外国商人による生糸の価格釣り上げを制限するためで、当初は京都・堺・長崎に限定されましたが、のち各地の貿易港に拡大されています。外国商人は貿易自由化を求めて抵抗しますが幕府の権力には逆らえず、この制度は50年ほど継続することになりました。
また海外との貿易により、多くの日本人が東南アジア諸国へ住み着くようになり、海外日本人居住地(日本人町)を形成しました。彼らは商人や傭兵として各地で活躍し、アユタヤには最盛期で1000人を超える日本人が住んでいたといいます。
琉球侵攻
1609年、薩摩の大名・島津氏は江戸幕府の許可を得て琉球王国へ侵攻し、支配下に置きました。琉球は明国と古くから朝貢貿易を行い、日本や朝鮮・南蛮とも貿易を行って繁栄しましたが、16世紀末頃から奄美群島を巡って島津氏と抗争するようになります。対する島津氏は戦国時代に毛利氏と結んで北進を開始し、一時は九州を統一せんとする勢いでした。これが秀吉によってくじかれ、さらに関ヶ原の戦いに敗れて江戸幕府からも敵視されるようになると経済的利益を求めて南へ進出する動きが強まったのです。
天下を統一した秀吉は明国や呂宋へ攻め込もうとしたぐらいですから、琉球などは明国や呂宋への通り道程度に考えており、朝鮮出兵に際しては軍役の負担を求めて脅しつけました。島津氏はこれをかばって軍役や兵粮米を代わりに負担すると申し出、琉球へ貸しを作り、これを材料にして琉球貿易を統制しようとします。困った琉球は明国へ支援を要請しますが、明国も朝鮮出兵の後始末などでそれどころではなく、何の支援もできません。また家康は琉球を介して明国との国交回復を打診しますがうまくいかず、琉球も度重なる幕府からの使節派遣要請を黙殺するなどして怒りを買っていました。
しかし琉球からすれば、宗主国はあくまで明国です。日本に使節を派遣すれば明国から批難され、出兵を受けないまでも貿易上の不利益を被ることは目に見えています。琉球が先に征服した奄美群島の権益も譲れませんし、朱印状を持たない船舶でも受け入れなければ交易立国として立ち行きません。大義名分を言い出せば先に朝鮮へ侵攻した日本に非があります。
業を煮やした家康と秀忠は、「琉球は無礼である」として島津氏に琉球征伐の御朱印を授けました。1609年3月、島津氏は80余艘・3000人の兵を琉球へ派遣し、根回しを受けていた奄美大島の按司は戦わずして降りました。徳之島では多少の抵抗に遭遇しますが打ち破り、島津軍は沖縄本島北部の今帰仁運天港に上陸します。恐れた琉球側は和睦の使者を派遣し、人質を出して那覇で談合することを伝えますが、島津軍は「那覇港に鉄鎖が張ってあって入れぬ」と聞いて激怒し、4月1日に陸路で首里城への進軍を開始します。
琉球側は首里近郊で応戦しますが打ち破られ、城下之盟を強いられて降伏します。琉球の尚寧王は薩摩へ送られ、1610年に島津氏当主の家久(忠恒)とともに駿府で家康、江戸で秀忠と謁見します。家久は琉球の支配権を承認され、奄美群島は琉球から島津氏に割譲されました。尚寧王と大臣らは「琉球は古来島津氏の附庸(属国)である」と記した文書に署名させられ、以後琉球の貿易は島津氏が取り仕切ることになります。那覇には島津氏の奉行が置かれ、薩摩へは王世子(世継ぎ)が人質として赴き、琉球国王や江戸の将軍が代替わりすれば、琉球が江戸へ使節を派遣する義務を課されました。
しかし琉球は明国との冊封関係を継続し、朝貢貿易を続けています。それによって得られる利益こそ島津氏と幕府が求めているのですから、やめるわけにはいきません。明国も琉球へ援軍を送って日本や島津氏と事を構えるのも面倒ですし、琉球を介して日本の産品が得られるなら問題なく、事情を了承した上で琉球の両属関係を黙認しました。大義名分上は少々問題ですが、明が清に代わってもこの関係は続き、琉球王国はチャイナと日本の架け橋として明治時代まで存続することになったのです。
琉球侵攻と同年の1609年、家康はオランダと正式に国交を樹立し、平戸にオランダ東インド会社の支店(平戸オランダ商館)を設置することを許可しました。日本とオランダの貿易関係は江戸時代を通じて続きましたが、なぜそのようなことになったのでしょうか。次回はこれを見ていきます。
◆侵◆
◆攻◆
【続く】
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