【つの版】大秦への旅05・崑崙王母
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
チャイナとローマとは、海路と陸路によってお互いの存在を認知していました。しかし、チャイナ(秦)側はなぜローマを「大秦」と呼んだのでしょうか。また大秦の西海の彼方に住むという西王母とは何でしょうか。
◆PARADISE◆
◆LOST◆
崑崙王母
西王母と言えば、チャイナの西の崑崙山に住むという女神です。殷商の甲骨文による卜辞に神名として「西母」とありますが、「東母」と並んで東西の女神として言及されているだけです。戦国時代以後は、『山海経』『莊子』『淮南子』『穆天子伝』『列子』など多くの書物に登場します。
まず、『山海経』西山経・西次三経にはこうあります。
また西に350里行くと、玉山があり、これは西王母の居るところ。西王母の姿は人のようで、豹の尾と虎の歯を持ち、よく嘯(うそぶ)く。蓬髪に勝(髪飾り)を載せ、天の厲(わざわい)と五残(5種の刑罰)を司る。
半人半獣の恐るべき女神です。また玉山は崑崙山の遥か西にあり、流沙の彼方にあるといいます。崑崙についてはこうあります。
昆侖の丘は帝(天帝)の下界の都で、神・陸吾がこれを司る。その神の姿は虎の身で九尾、人面で虎の爪。この神は天の九部および帝の囿時(楽園)を司る。…(崑崙から)河水が出て南流し、無達に注ぐ。赤水が出て東南流し、氾天の水に注ぐ。洋水が出て西南流し、醜塗の水に注ぐ。黒水が出て西流し、大杅に注ぐ。怪しい鳥獣が多い。
他にも土螻という食人羊、欽原という巨大な蜂がいるとか、鶉鳥がいて帝の百服を司るとか、食べると溺れなくなる果物や疲れなくなる草があるとか書かれています。四方に水が流れ出す楽園があり、珍獣・怪鳥がおり、人面の神獣に守られている…まるでエデンの園のようではありませんか。
主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった。…神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。(創世記2-3章)
また『山海経』海内西経にはこうあります。
西王母は几(机)によりかかり、勝(髪飾り)を載せる。その南に三羽の青い鳥がおり、西王母のため食物を取ってくる。崑崙の虚(丘)の北にある。
その前の方にはこうあります。
流沙は鍾山から出る。西行し南行すると昆侖の虚で、西南は海に入り黒水の山がある。流沙の外にある国には大夏、豎沙、居繇、月支がある。西胡の白玉山は大夏の東にある。蒼梧は白玉山の西南にある。みな流沙の西、崑崙の虚の東南にある。崑崙山は西胡の西にあり、みな西北にある。
大夏、豎沙、居繇、月支(月氏)は、『魏略』西戎伝で大秦の西海の彼方にあるとされた国々です。
海内崑崙の虚は西北にあり、天帝の下界の都。方800里、高さ万仞。上に樹木があり、高さ5尋、大きさは5囲。9つの井に面し、玉をもって檻となす。9つの門があり、開明獣が守っていて、百神のおるところ。八隅の岩があり、赤水の際で、仁羿(上古の英雄)でなければ岡の岩を登れない。
そして、この崑崙からは赤水・河水・洋水・黒水が出ているというのです。河水は渤海に注ぐといいますから黄河のことでしょうか。とすると、崑崙は黄河の源流部にあるのでしょうか。
『山海経』大荒西経ではこうです。
西海の南、流沙の濱、赤水の後ろ、黒水の前に大山があり、名を崑崙の丘という。神があり、人面虎身、文様と尾があり、みな白虎である。その下に弱水の淵がめぐっている。その外に炎火の山があり、常に物を投げる(噴火している)。人があり、勝(髪飾り)を載せ、虎の歯と豹の尾、洞穴に住む。名を西王母という。この山にはあらゆる物がことごとくある。
『莊子』大宗師篇では、西王母を古代の神々や帝王、神仙と並ぶ「道を得た者」とし、「西王母はこれを得て少広山に坐し、始めも終わりも知らない(不老不死)者となった」とします。『淮南子』覧冥訓には「羿が不死の薬を西王母に請い、姮娥(嫦娥)がこれを盗んで月へ逃げた」という伝説が記されています。『山海経』にも仁羿が崑崙に登ったとありますから、ギルガメシュめいた不死の薬の探索が行われたのでしょう。最終的に不死の薬を盗まれるところも同じで、あちらは蛇ですがこちらは月の蛙になります。エデンの園にも生命の木の実があり、蛇がいましたね。
『穆天子伝』では周の穆王が西へ遠征して西王母と会見し、歌を贈りあったと記されていますが、史実らしくはありません。そも西晋の武帝の時に「戦国時代の魏王の墓から発掘された」という怪しげな書物のひとつで、実際に周の穆王が西へ遠征したことから発展した後世の伝説でしょう。『列子』に周穆王篇があり、崑崙の西王母が登場します。『漢武内伝』には漢の武帝のもとに西王母が降臨して仙桃を授けたとあり、美しい仙女として描写されますが、六朝時代の小説です。
『漢書』哀帝紀には、建平4年(前3年)に旱魃が起き、関東(函谷関の東)の民に西王母の籌(御札)が流行したことを伝えています。この流行は長安にも及び、民衆は集まって西王母を祀り、あるいは夜に火を持って屋根の上に登り、鼓を撃ち叫んで互いに驚き恐れたといいます。社会不安を背景として「ええじゃないか」めいた民衆宗教運動が起こったのでしょう。
ともあれ、このように崑崙山や西王母は古くから信じられていました。では安息と條支の西、大秦の彼方にいるという西王母は何なのでしょうか。
白玉山
ここで『魏略』西戎伝の大秦条の末尾を思い出してみましょう。
大秦の西には海水があり、海水の西には河水がある。河水の西南北に行くと大山がある。その西に赤水があり、赤水の西に白玉山がある。白玉山には西王母がおり、西王母の西には流沙があり、流沙の西には大夏国、堅沙国、属繇国、月氏国がある。四国の西に黒水があり、伝聞するところでは西の極だという。
この大秦をローマとし、海水を地中海や大西洋とするから話がおかしくなるのです。この大秦は、実は陝西盆地の秦国そのもので、西域の伝聞が近場でとどまっていた古い時代の文章が残存混入しているのです。『山海経』にもある以上、そうとしか考えられません。
秦の都が置かれた宝鶏(雍城)や咸陽から西へ行くと、天水・定西・蘭州・西寧を経て、海水…すなわち青海湖に着きます。面積は5694km2、地球上では米国ユタ州のグレートソルト湖に次いで二番目に大きな内陸塩湖です。
青海湖の手前で南に山を越えると黄河の上流部です。これを追わず、山脈の間を北西へ向かって進みます。するといくつかのオアシスを経てタリム盆地の南に出、若羌・且末を経て和田、すなわちホータン(コータン、于闐)に到達するのです。
ホータンはタリム川の支流に潤されるオアシス都市であり、北のクチャ(亀茲)と繋がっています。白玉川・黒玉川の東西二流が沙漠の中で合流してホータン川となるのですが、この両川は南の崑崙山脈から流れ出ており、遡っていくとチベット高原北西部のアクサイチンに至ります。その名の如く玉(翡翠)を産出し、古来ホータンの玉はチャイナへ輸出されました。白玉山、崑崙山とはこの山々のことに違いありません。
『山海経』に書かれた崑崙/昆侖(上古音:kuːn ruːn)や西王母は、明らかにイランやメソポタミアなど西方の神話の影響を受けています。パミールを抜ければバクトリアやソグディアナですから、交易によって文化接触があったのでしょう。ギリシアからの影響があっても不思議はありません。
秦の西、祁連山脈と敦煌の間には月氏(上古音:ŋod kje)がいました。崑崙とは祁連(上古音:g'ieg lian)と同じく「天」を意味するともされます。『漢書』に「匈奴では天を撐犁(teŋri、テングリ)という」とあり、これはテュルクやモンゴルでも用いますから、月氏がテュルク・モンゴル語話者とは思えません。チベット語では天を gNam といいますから、チベット語話者でもなさそうです。彼らは非常に古い時代に印欧祖語から分かれて東方へ移動したトカラ語を話していたと考えられています。
ローマの地理学者ストラボンの『地理誌』によると、紀元前2世紀中頃、ギリシア人の支配下にあったバクトリアに、北方からスキタイ(遊牧民)の諸部族が来襲しました。その拠点はヤクサルテス川(シル川)の北にあり、かつてのサカ族の地で、来襲したのはアシオイ、パシアノイ、トカロイ、サカラウロイという諸族でした。彼らはバクトリア王国を崩壊させ、その地はペルシア語でトハーリスターンと呼ばれるようになりました。
これは匈奴や烏孫が月氏を西方へ駆逐した結果、玉突き現象で遊牧民が移動したのです。月氏は河西回廊からタリム盆地、ジュンガル盆地を経て、ソグディアナに到達しました。前129年に漢の張騫が月氏を訪れた際、彼らは大夏を征服していました。この大夏(上古音:lˤat-s [ɢ]ˤraʔ)こそがトカロイ、トカラ人の音写で、後代には吐火羅国とも記されます。
つまり月氏が匈奴や烏孫に追われた際、大夏=トカロイ=トカラ人は月氏に追われてバクトリアに攻め込みました。しかし月氏はまもなく後を追ってトカラ人を征服し、ソグディアナとバクトリア=トハーリスターンを占領したわけです。それでバクトリアに攻め込んだ四部族に月氏らしい名がないわけですが、とするとトカラ人は最初はどこにいたのでしょうか。
それは無論、月氏の故地である河西回廊の西、タリム盆地でしょう。バクトリアに移動した人々は現地のイラン系言語を使うようになり、トカラ語の文字史料は(紀元後のものですが)タリム盆地とその近辺の都市遺跡や敦煌にしか存在していません。また遺されたミイラなどから、彼らはカスピ海北岸から移動してきたコーカソイドの末裔であったことが判明しています。
トカラ語で天をなんというのかわかりませんが、印欧諸語で似た形を探すとラテン語で「天空」をcaelum といいます。これはイタリック祖語kailom、印欧祖語kahi-lom(全体)/koylos に遡り、英語のwhole(全体)やholy(聖なる)と同語源だとされます。また印欧祖語 solh₂- (全体)とすれば、梵語のsarva(一切)やアヴェスター語のhaurvatat(完全)に通じます。
◆
そうしたわけで、「大秦」という呼称は、陝西の秦国そのものを指します。しかし秦から崑崙(ホータンの南の崑崙山脈)への経路を記した古い文章が残存し続けた結果、見聞がパミールの彼方の大宛・安息・烏弋・條支まで届いた後も「『その彼方に』大秦があり、その彼方に大海・河水・崑崙・西王母があり云々」と誤解されたに過ぎません。
安息の長老が伝え聞くには、條支には弱水があり、西王母がいるというが、まだ見たことはないという。條支から水に乗って西へ100日余り行くと、日が入る所に近いという。(漢書・西域伝)
以前は誤って條支は大秦の西にあるとされていたが、実際は東にある。また條支は安息より強いとされていたが、今は條支が安息に服属し、安息西界と号している。また弱水は條支の西にあるとされていたが、今は大秦の西にある。さらに條支の西に200余日行くと日が入る所に近いと言われていたが、それは大秦の西である。(魏略・西戎伝)
ゆえに「條支は大秦の西にある」という「以前の誤った」情報は、実際には「正しい」情報なのです。條支の西に弱水があり西王母がいるというのは、ユーフラテスの彼方のバンビュケのアタルガティス女神の神殿とかではなく(その情報も混入した可能性はありますが)、古い情報が残存し続けて位置情報にバグを起こした結果です。
そしてたまたま「條支の西に大海があり、その彼方にも国がある」と甘英が適当なことを報告したために、「それこそ西方にあるという謎の国、大秦に違いない」「崑崙や西王母はさらに彼方にあるのだ」と誤読されてしまったのでしょう。なにしろ本来の崑崙やパミール高原を越えてどこまで行っても、不死の薬を持つという西王母はおらず、四方の河の源流にして楽園である崑崙は見つからないのですから。地球は丸いので、どこまで西へ行っても「日の入るところ」にはたどり着けません。タリム盆地から西にはパミール高原が聳えているので、ここがそうだと信じられていたかもですが。
崑崙四水
崑崙四水説
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/249366/1/shirin_041_5_379.pdf
ところで、仏典『長阿含経』の「世記経」等に類似の伝説があります。須弥山の南には人類の住む閻浮提州がありますが、その北部に雪山(ヒマラヤ)があって、その頂上に阿耨達(Anavatapta,無熱悩)という池があります。ここからは恒伽(ガンジス)、新頭(インダス)、婆叉(ワフシュ=オクソス=アム川)、斯陀(ヤクサルテス=シル川)が四方に流れ出ているというのです。また『倶舎論』によると、これは雪山中の香酔山で、麓にその池があるといい、現在ではチベット高原西部のカイラス山とマナサロワル湖のこととされています。おそらく崑崙伝説と源を同じくするのでしょう。
ついでに言えば、「エデンの園」の神話も別に古いものではありません。旧約聖書の『創世記』は紀元前6世紀、バビロン捕囚以後に書かれたものとされますから、バビロン(カルデア)を滅ぼしユダヤ人を捕囚から解放した、アケメネス朝ペルシア帝国の影響を色濃く受けています。ペルシア帝国はアム川やインダス川のほとりまで版図を広げており、中央アジアからこうした神話をもたらしたのでしょう。アヴェスター語pairi.daêza-(壁に囲まれた場所)はエラム語やアラム語を経てヘブライ語やギリシア語に入り、エデンの園や天の楽園を表す語「パラダイス」の語源となっています。
ユダヤ人は自分たちを直接支配するローマを憎んで「大淫婦バビロン」と呼び、ペルシアやパルティアに親近感を懐き続けました。そのためユダヤ教やキリスト教にはイラン起源のゾロアスター教(マズダー教)の影響が強く、東方から救世主(の味方)が来てローマを滅ぼすと信じ続けたのです。
◆卍◆
◆卍◆
大秦、崑崙、西王母の謎はだいたいわかりました。それでは「秦氏=ユダヤ人キリスト教徒」という例の伝説は、どのような背景を持つのでしょうか。恐るべき日ユ同祖論、ユダヤ陰謀論の世界へ踏み入ってみましょう。
【続く】
◆