【つの版】ユダヤの秘密04・羅斯到来
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
8世紀中頃か9世紀初頭頃、ハザールの支配層はユダヤ教に改宗し、世界各地からユダヤ教徒がハザールに集まって来ました。キリスト教やイスラム教、その他の諸宗教も迫害されることなく共存し、ハザールは大いに栄えます。
◆世界は◆
◆俺のもの◆
販路広大
まずハザールの地図をご覧ください。中核となる領域は、東は「ハザールの海」とさえ呼ばれたカスピ海、南はカフカース山脈、西は黒海とアゾフ海、北はドン川とヴォルガ(イティル)川に囲まれています。遊牧の適地であるだけでなく、四方に陸路や水路での交易路が通じる要衝の地です。
かつてキンメリア人やスキタイ、サルマタイ、フンやブルガールもこの領域を支配しました。ハザールはそれら遊牧民の帝国の後継者であり、多くの都市や定住民を抱え、世界各地と交易を行いました。周辺諸部族も貢納品を持ってきて、ハザールの市場で取引を行います。
水運は陸上交通より多くの物資を輸送できるため、内陸交易路は川沿いに発達します。北の森林地帯からはヴォルガ、ドン、ドニエプルといった大河が南へ流れ下り、カスピ海やアゾフ海、黒海へ注ぎます。その地の住民であるフィン・ウゴル系やスラヴ・バルト系の言語話者たちは、古くから毛皮や琥珀、奴隷、農作物などを交易品として舟で運び、南の文明国へ売りさばいてきました。古代ギリシア人は黒海沿岸に進出し、クリミア半島などに拠点となる交易都市を建設して、現地住民と盛んに取引していました。
ハザールは、ヴォルガ中流域に陣取ったヴォルガ・ブルガール王国を服属させ、ヴォルガ河口部のイティルに都を置いています。ここからカスピ海を船で南下すれば、バクーを経てイラン高原北部へつき、アッバース朝の都バグダードへ通じます。また西のトムタラカンはケルチ海峡の出入り口を抑え、ドン川を下って東ローマに至る交易路を掌握しています。銀貨を始めとする南方文明国の文物は川を遡り、遥かスカンジナビア半島に到達しました。この二つのルートだけでも相当な実入りが見込めます。ヴォルガとドンを結ぶ運河はまだありませんが、船を担いで運ぶことは行われました。
ハザールの東の交易路は、内陸水系を通じて中央アジアへ伸びていました。カスピ海の南東部にはかつてアム川の支流ウズボイ川が流れ込んでおり、これを遡ればソグディアナ(マーワラーアンナフル)・バクトリア(トハーリスターン)に至りますし、アラル海を経てシル川を遡ればフェルガーナ盆地やジュンガリアに到達します。さらにはインドやチャイナ、モンゴル高原にまで販路が伸びているわけです。サカ=スキタイの末裔であるソグド人は、古くからこうした販路を抑えてきました。
現在アム川はアラル海に流れ込んでいますが、歴史上何度も流路を変えています。アラル海にはシル川も流れ込んでおり、近年まで巨大な内陸海として存在し、周囲には草原や森林が広がる豊かな生態系がありました。
西に目を転じれば、クリミア半島とドニエプル川の彼方にはドナウ川の河口部があり、ドナウ北岸(現ルーマニア)にはドナウ・ブルガール王国があります。その北、カルパチア山脈に囲まれたパンノニア平原(現ハンガリー)にはアヴァール王国があります。共にハザールと同じくテュルク系遊牧民のカガンを君主に頂き、スラヴ人を服属させていました。その西にはイタリアを支配するランゴバルド王国、ドイツとフランスにまたがるフランク王国があり、イベリアの大部分はアンダルス・ウマイヤ朝に支配されています。
ヴォルガ川河口部のイティルからバグダードまでは、直線距離で1500kmほど。これはイティルからメルブやブハラまで、イティルからコンスタンティノポリスやドナウ川河口部までとほぼ等距離です。それよりやや近い範囲には、現ウクライナの首都キエフがあります。
羅斯可汗
キエフはドニエプル川の中流域、北の森林地帯と南の平原地帯の境に位置する古い町で、6世紀頃に東スラヴ系のポリャーネ(平原)族が渡し場・交易拠点として建設しました。ハザールはこの地に勢力を伸ばしてポリャーネ族を服属させ、彼らに貢納を課し、キエフを貢納の集積場としました。ユダヤ教徒の商人もキエフに駐留していたようです。
8世紀末から9世紀にかけて、キエフの北に「ルーシ」と呼ばれる人々が現れます。彼らはスラヴ人ではなく、北欧のスカンジナビア半島から到来したノルド人(ノルマン人)、いわゆるヴァイキングです。フィンランド語では今もスウェーデンをルオツィ(Ruotsi)と呼びますが、これはノルド語ルースランド(櫂[oar,ror]を漕ぐ人の地)に由来し、船を漕いで海を渡って来た人がルーシでした。ノルド系ばかりでなくフィン系もいたようですが。
彼らはフィンランド湾沿岸付近にラドガ(アルディギャ)やノヴゴロド(ホルムガルド)などの拠点を建設し、河川交通を利用して瞬く間にヴォルガ川上流域の交易路を掌握しました。この頃スウェーデン本土からはアッバース朝の銀貨が大量に出土しており、アラブやハザールの莫大な富が彼らを引き寄せたことは明らかです。彼らはヴァリャーグ(仲間)というバンドを組んで冒険的な交易や戦闘、略奪を行い、大いに稼いでいました。
834年、ハザールは彼らの(あるいはマジャル人の)侵入を防ぐため、ドン川とヴォルガ川が最も接近した場所に堅固な城塞都市サルケル(テュルク語で「白い家」)を建設しました。東ローマ帝国の技師もカガンの要請によって携わっており、ハザールの重要な交易・防衛拠点となりました。
フランク王国の記録『サンベルタン年代記』やイスラム側の地誌によれば、ルーシの王はカガン(ハーカーン)と称していたといい、ハザールのカガンに対抗する独立国の君主としてそう名乗っていたようです。彼らはハザール領を通過して黒海に達し、東ローマ帝国にまでやってきていました。
洪牙勃興
また東ローマ皇帝コンスタンティノス7世の『帝国統治論』によれば、皇帝テオフィロス(在位:829-842)の時代にハザールで内乱が起きました。反乱者らはカバール人(Kabaroi)といい、3つの部族から成っていましたが、失敗して西へ逃れ、レベディア(アゾフ海沿岸)にいたマジャル人の7部族と合流しました。両者は連合して10部族(オン・オグル)となりましたが、これが国名ハンガリー(ウンガリア)の語源です。カバール人がユダヤ教徒だったかは定かでありませんが、少しはいたかも知れません。
ハンガリーはドイツ語でウンガルン(Ungarn)、ギリシア語でウンガリア(Oungaria)と呼びます。フン族が語源というのは俗説です。西突厥も十の部族から成り、ブルガールもオノグリアと名乗りました。オグル、オグズ、ウイグルとはテュルク語で「部族」を意味し、8世紀にモンゴル高原を支配したウイグル可汗国の自称はトクズ・オクズ(9部族、九姓鉄勒)でした。
マジャル人は言語的にテュルク系ではなく、ウラル山脈付近からやってきた部族集団でしたが、ハザールの影響を受けて騎馬遊牧民となり、言葉と戦法を学びました。カバールとマジャールが合わさったため、彼らにはケンデ(元首)とジュラ(将軍)という2人の君主がいるといいますが、どちらがケンデやジュラになったかは定かでありません。また2人の君主を戴くのはハザールがカガンとベクを戴くのと同じで、これを真似たのでしょう。
同じ頃、ハザールの東方でも変動が起きていました。突厥が唐に服属したのち、744年にはモンゴル高原にウイグル可汗国(回鶻、九姓鉄勒)が興って突厥を滅ぼし、安史の乱で衰退した唐を服属させ栄えていましたが、830年代に内乱と天候不順で崩壊します。諸部族は相争い、ペチェネグ(鉄勒北褥部)がオグズやキメク(キプチャク)に押されて西へ向かいます。
ハザールはオグズと手を組んでペチェネグと戦いますが、彼らはそのまま西へ向かい、レベディアのマジャル・カバール連合を西へ押し出しました。こうして、アゾフ海沿岸からドナウ川までの平原地帯はハザールの手を離れます。ハザールはクリミア半島とドン川以東、カフカース以北、ヴォルガ川以西をどうにか確保し、貢納や交易によってなお繁栄を保ちます。
羅斯到来
南からの圧力が減少したため、ルーシの勢いはさらに盛んになります。860年6月、200隻の船に乗った合計5000人ものルーシがコンスタンティノポリスを襲撃しました。1隻あたり25人です。皇帝ミカエル3世は軍勢を率いて東方遠征に出ており、帝都の守備は手薄でした。ルーシらは帝都郊外を荒らし回り、8月に略奪品を抱えて帰還しています。
861年、東ローマはハザールへ使者を送りました。ルーシの侵攻に対抗するため、改めて手を結ぼうとしたに違いありません。
『コンスタンティノス伝』によると、この時の使節団長は修道士キュリロス(俗名コンスタンティノス)であり、ユダヤ教徒の王ザカリヤをキリスト教に改宗させる使命を与えられていました。彼はユダヤ教のラビやイスラム教の学者を論破したものの、改宗は不首尾に終わったといいます。ただザカリヤというハザールの君主はこの他に見えず、後世のありがた話でしょう。864年、アクイタニアのドルトマルはマタイ伝の注釈の中でハザールのユダヤ教改宗に触れており、西欧にもハザールのことは知られていました。
ただ、ルーシにとってもハザールとの交易は不可欠でした。彼らはハザールの都市ハムリジまで行って十分の一の貢納を行っていたとイスラム系の史料にありますし、アラブの銀貨も北欧からザクザク出土しています。東ローマとも交易は続けており、中には(交易の便宜のためにか)キリスト教に改宗したルーシもいたようです。ペチェネグやマジャルは蛮族丸出しで交易相手には向かず、ルーシにも邪魔がられていました。
しかし西暦860年代後半から870年代にかけて、ルーシの活動は停止します。考古学的調査では、この時代にラドガやノヴゴロドなどで大きな火災が起きており、何らかの戦乱があったようです。おそらくはルーシが支配下に置いていたスラヴ人やフィン・スオミ系住民(チューディ)の反乱でしょう。
『ノヴゴロド第一年代記』や『原初年代記』によると、彼ら先住民はヴァリャーグ(ルーシ)らに服属させられ、冬になると毛皮を貢納するよう命じられていました。やがて先住民はヴァリャーグを追い払い、自治を回復しましたが、各々の部族間の争いを仲裁する者がなかったので互いに争い始め、決着がつかなくなりました。そこで代表者らが海の彼方のヴァリャーグのもとへ赴き、「我らの土地は広大で豊かだが、秩序がない。我らのもとに公正な裁判者として来てほしい」と申し出ます。
そこでヴァリャーグはリューリクら三人の兄弟を選出し、彼らは一族と多数の従士団を率いてやってきました。以後この地は「ルーシの地」、すなわちロシア(ローシア)と呼ばれるようになったといいます。
『原初年代記』では、リューリクらの到来を正教の世界創造紀元6370年(キリスト誕生紀元で861/862年)としていますが、これは東ローマをルーシが襲撃した事件をリューリクと結びつけて遡らせたものらしく、後継者の年代などから実際はその30年後、892年頃のようです。またノヴゴロド(新しい町)の名からして、リューリクはこれ以前に存在し焼き討ちされた古いルーシの町ホルムガルド(中洲の町)を再建したのでしょう。
リューリク(Riurik)の名はスラヴ系ではなくゲルマン系で、ノルド語のローリク(Rorik)/フローリク(Hrorekr)、ドイツ語ロデリック(Rodric)、スペイン語ロドリーゴ(Rodrigo)などにあたり、「名高い王(ric,rex)」を意味します。以後ルーシの王侯貴族はリューリクの末裔を名乗りました。
この頃、ユーラシア各地は大変動を迎えていました。唐は黄巣の乱で崩壊して末期状態にあり、ウイグルも吐蕃(チベット)も瓦解し、アッバース朝も各地に軍閥が自立して衰退し、欧州ではフランク王国が分裂してヴァイキングが跳梁跋扈している有様です。東ローマ帝国は比較的繁栄していますが、893年にブルガリア王(カガン)シメオン1世が立つと危機に陥ります。
ブルガリア(ドナウ・ブルガール)はシメオンの父ボリスの時に東ローマからキリスト教を受容しますが、シメオンは異教徒の反乱を鎮圧しつつも東ローマと対立し、ドナウ川を超えて攻め込みます。東ローマがブルガリアの北のマジャル人を唆して背後を突かせると、シメオンはその東のペチェネグと手を組み、マジャル人を撃破しました。
ペチェネグとブルガリアに押されたマジャル人(ウンガリア人)は、ついにカルパチア山脈を超えてパンノニア平原(カルパチア盆地)に侵入し、10世紀にはここを拠点として文字通り欧州全土を荒らし回ります。マジャル人の侵入は、同時代のヴァイキングやサラセン人の海賊と共に恐れられました。
『帝国統治論』によると、ハザールのカガンはマジャル人との同盟を強化するため、族長レベディアスにハザールの貴婦人を娶らせ、彼を王位につけてハザールに服属させようとしました。レベディアスは丁重に断り、別の族長アルムスの子アールパードに王位を譲ったといいます。史実かどうか怪しいですが、マジャル人がハザールの影響を受けていたことは確かです。
こうした混乱に乗じてルーシは南下を繰り返し、ヴォルガを下ってカスピ海に入り、アゼルバイジャンやタバリスターン(イラン北部のカスピ海南岸)にまで押し寄せ、略奪を行ったとイスラム側の史料にあります。ハザールは広大な平原地帯にあるため、南のカフカース以外に障壁となる山脈がなく、陸路や水路での異民族の侵入を防ぐ手立てが乏しかったのです。
◆羅◆
◆斯◆
【続く】
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