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【つの版】徐福伝説11・熊野権現

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

日本列島各地に徐福伝説がありますが、最も古くからあるのは富士山、次いで紀州熊野です。熊野には徐福の祠があることが海外にも認知されており、徐福は熊野権現になったともされますから、全国の熊野権現の分社で徐福が祀られているわけです。熊野とはどのような地なのでしょうか。

◆熊◆

◆熊◆

熊野

熊野(くまの)とは、現在の和歌山県と三重県に属する紀伊半島南部の地域です。おおよそ和歌山県田辺市(口熊野)から東、三重県尾鷲市から南西にあたりますが、歴史的に範囲は伸縮しています。古くは熊野国として国造が置かれ、7世紀末から8世紀に令制国である紀伊国に併合されました。この時紀伊国牟婁郡(現田辺市)の管轄下に置かれ、南海道最大の面積を持つ郡となります。三重県側の尾鷲付近は、かつては志摩国英虞郡に属していましたが、1582年に紀伊国牟婁郡に編入されました。

中核となるのは串本町から東の熊野灘に面した地域、特に熊野川流域です。畿内からは海山の彼方の辺境ですが、古くから認識されてはおり、658年には斉明天皇が紀伊国牟婁の湯(南紀白浜温泉)まで湯治に来ています。のち天武天皇の時代の大地震で津波の被害を受けたようです。

『日本書紀』では、神代巻の一書に「イザナミは火神を生んで神去り(死に)、紀伊国熊野の有馬村に葬られた。土俗ではこの神の魂を祭る時、季節の花を捧げ、鼓吹(楽器)や幡旗を用い、歌舞を行う」とあります。三重県熊野市有馬町には花窟(はなのいわや)神社があり、イザナミとカグツチを祀っています。社殿はなく、熊野灘に面した巨大な磐座を御神体とします。

一書曰、伊弉冉尊、生火神時、被灼而神退去矣。故葬於紀伊國熊野之有馬村焉。土俗、祭此神之魂者、花時亦以花祭、又用鼓吹幡旗歌舞而祭矣。

『古事記』ではイザナミの墓所は出雲国と伯耆国の境の比婆山とされますが、熊野を墓所とする伝承もあったのでしょう。和歌山県那智勝浦町の下里古墳は4世紀末から5世紀初頭の築造で、紀伊半島南部では唯一の前方後円墳ですが、墳丘長は40mしかありません。ヤマト・河内の前方後円墳文化は、熊野にはあまり及ばなかったようです。

神武と熊野

記紀神話において次に熊野が現れるのは、神武天皇東征の時です。彼は日向から瀬戸内を経て河内に上陸しましたが、現地住民に阻まれて撤退し、紀伊半島の南から奈良盆地の東側を目指すという奇妙な戦略に出ます。神武らの上陸地は、『古事記』では熊野村、『日本書紀』では熊野神邑ないし荒坂津(丹敷浦)で、丹敷戸畔(ニシキトベ)なる女酋長を倒したと伝えます。ここがどこかは諸説ありますが、那智川か熊野川の河口部でしょうか。

またこの時、神武らの前には大きなの姿をした神が現れ、その毒気にあてられて神武や兵士らは昏睡状態に陥りました。そこへ高倉下(タカクラジ)という人が天与の神剣・布都御魂(フツノミタマ)剣を持って現れ、神武らを蘇生させます。高天原の神々は八咫烏を遣わして神武を道案内させ、神武は吉野から宇陀を経てヤマトへ攻め込んだと記されています。

熊野から吉野までは、重畳たる大峰山(大峰山脈)と金峰山が横たわっています(山上ヶ岳を境に南を大峰、北を金峰山と呼びます)。この時のルートは明らかでありませんが、熊野川沿いにさかのぼったとすると新宮から本宮を経て十津川に入り、天の川、山上川を経て大峰山を東へ横切り、ようやく吉野川(紀ノ川上流)に到達します。あとはこれを下り、吉野に出ればいいわけです。あるいは熊野市から北山川か大又川に入り、吉野川を目指したのでしょうか。いわゆる熊野古道は河内や伊勢から熊野を目指すルートが主であり、熊野と吉野を繋ぐルートは「大峯奥駈道」という険阻な道です。

いかに神武らが半神的な存在でも、この道を踏破してまで奈良盆地を目指したでしょうか。天武天皇のように伊勢や尾張に進み、東国で勢力をたくわえて、伊賀や名張を経て奈良盆地を攻める、というのが現実的にも思えます。神武が熊野から吉野を経てヤマトを目指したという神話は、このあたりのまつろわぬ民を日本国に服属させる口実として新たに作られた、と考えるのは穿ち過ぎでしょうか。

また、この「大峯奥駈道」を開いたとされるのが修験道の開祖役小角です。彼は『続日本紀』によれば葛木山に拠点を置く呪術師で、鬼神を使役する術を修めていましたが、人心を惑わしたとして文武天皇3年(699年)に伊豆大島へ流刑にされたといいます。吉野山の金峯山寺は役小角が開いたと伝えられますから、713年完成の『古事記』、720年完成の『日本書紀』における神武天皇の神話は、役小角ら山林修行者のルート・聖地を国家が抑えたことを表すのかも知れません。

熊野信仰

平安時代の法制書『新抄格勅符抄』によると、「天平神護2年(766年)に速玉(はやたま)神と熊野牟須美(むすび)神にそれぞれ4戸の神封を施入した」とあり、延喜元年(901年)成立の国史『日本三代実録』には貞観元年(859年)と貞観5年(863年)に「速玉神」「熊野坐神」が従五位上に昇階したと記され、延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳』に「熊野坐神社」「熊野速玉大社」の二社が記されます。

永観2年(984年)の『三宝絵詞』では熊野両所として速玉神と牟須美神をあげており、永保3年(1083年)の『熊野本宮別当三綱大衆等解』で始めて本宮・新宮・那智の三社を熊野三山としています。牟須美神は那智の祭神とされますが、もとは速玉神と共に新宮に祀られていた神が那智の神とされたともいいます。速玉神を祀る新宮に対して坐神・本宮というぐらいですから、熊野本宮大社こそ熊野本来の地主神だったのでしょう。熊が出るから熊野というわけではなく、本宮が川の屈曲部(隈)にある平地(野、大斎原)に所在したためと思われます。

平安時代には修験道の霊地として神仏習合が進み、熊野三山の各々がブッダの化身(権現)とみなされ、本宮が阿弥陀如来、新宮が薬師如来、那智が千手観音であるなどと説かれました。また本宮の祭神は家津美御子(けつみみこ)神と呼ばれ、記紀でいうスサノオとされ、速玉神はイザナギ、牟須美神はイザナミであるなどと説かれました。熊野にイザナミが葬られたという伝承が「ここが根の国である」と解されていったのでしょう。

皇室ゆかりの地でもあることから、宇多天皇(在位887-897)はしばしば熊野へ参詣し、以後歴代の多くの天皇や上皇・法皇・貴族が熊野参詣を行うようになりました。このため祭神が多数付け加えられ、『中右記』天仁2年(1109年)条には三所権現に加えて五所王子・一万眷属・十万金剛童子・勧請十五所・飛行夜叉・米持金剛童子の名が挙げられています。これらをあわせて「十二所権現」といい、各々に本地仏が配当されました。また三宮では各々の神を合わせ祀るようになりますが、まだ徐福の名はありません。

平安時代中期から後期にかけて、末法を迎えたとして浄土信仰が高まると、熊野は浄土とみなされ、吉野山・高野山・金峯山とともに巡礼地として繁栄しました。参詣のために畿内や伊勢と熊野を結ぶ街道が整備され、紀伊路・中辺路の街道沿いには九十九王子と呼ばれる祠が立ち並びました。王子や若宮とは新たに付け加わった祭神をいい、各地に地名が残っています。

さらに那智勝浦から海の彼方の補陀落浄土(観音菩薩の住む楽園)へ渡海するという補陀落渡海も行われました。日本書紀にもスクナヒコナ神が「熊野の御崎から常世郷へ去った」とあり、神武の兄ミケイリノも「熊野の海上から波の穂を踏んで常世へ去った」とされますから、古くから熊野は海の彼方の常世に通じる地と考えられていたようです。

権現垂迹

平安時代末期の「長寛勘文」に引用された『熊野権現垂迹縁起』によると、熊野権現は唐の天台山から渡ってきたとされます。

むかし甲寅の年、唐の天台山の王子信(晋)の旧跡が日本国鎮西(九州)の英彦山に天降った。その形は八角の水晶の石で、高さは三尺六寸(1m余)であった。そこで5年を経た戊午年、伊予国の石鎚山に渡り、6年を経た甲子の年に淡路国の諭鶴羽山に渡り、6年を経た庚午年3月23日、紀伊国牟婁郡の切部山の西の海の、玉那木の淵の上の松の木のもとに渡った。57年後の庚午年3月23日、熊野新宮の南の神蔵峯(神倉神社)に降臨した。61年後、新宮の東の阿須賀神社の北、石淵の谷に勧請した。始め結玉家津美御子(ゆりたま・けつみみこ)といい、丹生の社である。13年後、壬午年に本宮の大斎原(おおゆのはら)の三本の一位の木の梢に3つの月の形で天降った。
8年後、庚寅年に、石田川の南に河内の住人・熊野部千輿定(くまのべの・ちよさだ)という犬飼(猟師)がおり、長さ一丈五尺(4.5m)の猪を射た。跡を追って行くと大斎原に着き、猪は一位の木の下で死んでいた。千輿定は猪の肉を取って喰い、その木の下で一夜を明かしたが、ふと梢に月を見つけて「なぜ虚空を離れて木の梢におられるか」と問うた。すると月は「我は熊野三所権現なり。一社は證誠大菩薩(本宮)、他の2つの月は両所権現なり」と答えた。云々…

天台山は浙江省台州市天台県にある霊山で、古来仏教・道教の聖地であり、神仙として知られる周の王子晋を守護神として祀っていました。6世紀には天台智顗が天台宗を開き、鑑真・最澄らによって日本に伝えられました。そこから王子晋の旧跡(遺物)が奇妙な形で渡来したというのです。

14世紀中頃の『神道集』にはこれを引用し、「熊野権現とは役行者・婆羅門僧正の本地であり、王子晋の旧跡を慕って唐の霊山から英彦山に降臨した。そこから長い年月をかけて熊野権現として示現したが、これは神武天皇43年壬寅(42年。紀元前619年)のことである。それより1300余年を経て40数代目の天皇の頃(文武天皇は42代)、役行者・婆羅門僧正らが参詣して本地を顕した」云々とします。また天竺マガダ国から渡来したともいい、いろいろと怪しく不思議な話が伝わっています。

「熊野に徐福が来た」という伝説は、このような話を背景としてチャイナの徐福伝説をもとに作られたと見るのが妥当でしょう。王子晋が云々というのは若宮・御子神を「王子」と呼んだことからの付会と思われ、より知名度がある徐福のことすれば、舶来品を有難がる日本人ばかりかチャイニーズにもご利益を売り込めます。彼は始皇帝の王子ではありませんが、そんなもんは説話の世界では自由自在です。

中世日本神話は融通無碍に神仏や神仙を繋ぎ合わせ、荒唐無稽な話を作り上げては語り伝えています。それを「日本紀にも書かれている」とか言えば、割とまかり通ったのです。こういうのを「中世日本紀」といいます。

平安時代から室町時代にかけて、熊野の御師(おし、祈祷師)は全国各地に派遣され、巡礼ツアーパックを作り、旅行代理店として活動し多額の金銭を熊野にもたらしました。遥か彼方の琉球王国にまでも熊野権現が勧請され、琉球八社に数えられています。このため沖縄にも徐福伝説が届きました。

日本全国には3000社もの熊野神社が存在し、十二所神社とされている場合もありますが、これは熊野権現として勧請されたものが明治時代に神仏分離令で神社化されたものです。各々の土地では海の神、山の神などとしてその地なりの信仰を集めています。

ただ、島根県松江市八雲町(出雲国意宇郡)に鎮座する熊野大社は、紀州熊野とは別の系統に属するとも、この社から紀州へ勧請されたともいいます。この社は杵築の出雲大社と並び出雲国一宮とされ、『出雲国風土記』では祭神を「伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命(いざなぎのまなこ・くまのにます・かぶろのみこと)」とします。また櫛御気野(くしみけぬ)命といい、『先代旧事本紀』では「出雲国熊野に坐す建速素盞嗚(スサノオ)尊」とします。熊野本宮大社の祭神・家津美御子(けつみみこ)神もスサノオとされますし、クシミケとは「奇し御饌」、ケツミミコとは「食つ美御子」という意味でしょうから、両者は同じ神なのでしょう。

熊野と徐福

それはそれとして、熊野に徐福信仰が存在することは確かな事実です。和歌山県新宮市の阿須賀神社には「蓬莱山」と呼ばれる丘(標高48m)があり、徐福が到来したと伝えられ、摂末社として徐福之宮があります。またクスノキ科クロモジ属の常緑低木・テンダイウヤク(天台烏薬)があり、これこそ徐福が求めた不老不死の妙薬だと売り込んでいますが、江戸時代の享保年間(1716-1735)にチャイナから伝わったものに過ぎません。天台山の漢方薬だということで、コマーシャル・トークのため尾鰭がついたのでしょう。

その南には、平成6年(1994年)に完成した徐福公園があります。ここはもと楠藪といい、元文元年(1736年)に紀州藩主・徳川宗直が「秦徐福之墓」を建立しました。その文字は、初代藩主・徳川頼宣が儒者の李梅渓(1617-1682)に揮毫させたものとされます。

李梅渓の父・李一恕(1571-1634)は朝鮮の人でしたが、文禄の役で浅野長政の軍に捕らえられ、日本に連れて来られました。のち徳川家に仕え、頼宣の侍講(儒書の講義者)となっています。

無学祖元が参詣したという徐福祠は、新宮の速玉大社かその周辺に存在したものと思われます。ただし速玉大社から30kmほど北東、三重県熊野市波田須(はだす)町にも、徐福ノ宮と呼ばれる神社が存在します。

人口150人あまりの限界集落に過ぎませんが、徐福伝説の界隈では「聖地」のひとつとして注目を集めています。波田須という地名は「秦住」がもとであるとか、秦の半両銭が出土したとか、不老不死の薬とされるアシタバやテンダイウヤクが存在するとか…まあ学術的にはともかく、村おこしのためにいろいろ取り組んでいるようですね。訪ねてみてはいかがでしょうか。

◆凪◆

◆明日◆

熊野と徐福の関わりはこのような感じです。では最後の聖地、富士山を目指すとしましょう。熊野からは太平洋の彼方に富士山を遠望することができ、役小角も伊豆大島に流された後、空を飛んで富士山に赴いたという伝説があります。やはり常世国、補陀落浄土は東海の彼方にあるのでしょうか。

【続く】

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