【つの版】ユダヤの謎18・無明時代
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
東ローマ帝国はキリスト教三位一体派を国教とし、異端や異教を激しく弾圧します。これにより多くの亡命者がペルシア帝国へ向かい、やがて両帝国の間にユーラシア西部を二分する大戦争が始まります。
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匈奴突厥
クシャーナ朝がサーサーン朝ペルシアに敗れて衰退すると、中央アジアにはエフタルが現れます。彼らは匈奴の一派が西へ遷り、ジュンガリアの烏孫の西北、カザフスタンに建てた国で、漢籍では悦般や嚈噠とも呼ばれました。フン族も彼らの一派と思われ、インドやペルシアでは「白いフーナ」と呼んでいます。モンゴル高原の柔然に圧迫され、5世紀に南下してソグディアナを征服、北インドのグプタ朝の衰退に乗じて勢力を広げます。
ペルシアはこれと戦いますが敵わず、エフタルはその軍事力を背景として帝位継承にまで介入するようになります。エフタルの版図はジュンガリア・タリム盆地・アラル海・アフガニスタン・北インドにまで達し、クシャーナ朝に匹敵する帝国となりますが、6世紀中頃に興った突厥に敗れ衰退します。
突厥は柔然に服属していたテュルク系部族ですが、勢力を強めて自立し、柔然を滅ぼしてモンゴル高原を領有します。初代カガン(皇帝)の土門は、弟の室点蜜(イステミ)を西方のカガンとし、エフタルを討伐させます。室点蜜はペルシアと手を組み、エフタルを挟み撃ちして滅ぼしますが、絹の貿易を巡ってペルシアと争いとなり、568年に東ローマへ使節を送って同盟しました。東ローマも返礼の使者を送り、両者は手を組んでペルシアに対抗します。
柔然やエフタルの残党は西へ逃れてアヴァール人となり、黒海北岸を経てドナウ川北岸に現れ、東ローマ帝国と交渉してこの地に定着します(アヴァール・カガン国)。室点蜜の子・達頭可汗は「我らの敵と手を結ぶとは」と東ローマを非難し、一時はクリミア半島まで攻め寄せました。
アヴァール人が定着したドナウ川北岸は、おおよそルーマニアとハンガリーをあわせた領域で、ダキア及びパンノニアに相当します。この地は黒海北岸から続く遊牧の適地で、東方の騎馬遊牧民が居着く地域であり、フン族もマジャール人もここに居座って諸国を脅かしました。
なお、この頃東ローマには中央アジア(突厥)経由で蚕の卵と養蚕技術が伝来しています。東ローマの首都コンスタンティノポリスは黒海と地中海を結ぶ地にあり、クリミア半島を経て中央アジア(中央ユーラシア)に交易路が通じていました。のちのマルコ・ポーロもこのルートでチャイナに赴いています。絹の道はタリム盆地ルートやインド洋ルートばかりではありません。
無明時代
572年から東ローマはカフカース南部を巡ってペルシアと争っており、戦線はメソポタミア北部からシリア、アナトリアにまで拡大していました。578年にユスティヌス2世が、579年にホスロー1世が崩御した後も戦争はおさまらず、将軍から皇帝に即位したマウリキウスとホルミズド4世の間で攻防が続きます。西突厥は東ローマと関係を修復し、背後からペルシアを攻撃して漁夫の利を得ようとしていました。
東ローマとペルシアの間には、ゴラン高原のガッサーン王国、イエメンのヒムヤル王国、アラビア半島中央部(ナジュド)のキンダ王国、イラク南部(ヒーラ)のラフム朝など、アラビア系諸部族の王国群が存在しました。彼らは部族ごとにキリスト教の諸宗派やユダヤ教、アラビア土着の神々などを雑多に崇めており、イスラム教ではこの時代を「ジャーヒリーヤ(無明の時代、無知蒙昧にも唯一神を知らぬ時代)」と呼んでいます。ムハンマドが生まれたのはこのような時代でした。
484年から572年にかけて、パレスチナではサマリア人やユダヤ人の反乱がしばしば起きていました(ペルシアの支援もあったでしょう)。ユスティニアヌスは南アラビアから移住してきたガッサーン族をキリスト教徒とし、反乱を鎮圧させています。彼らはゴラン高原を中心としてヨルダン川の東に勢力を広げ、ペルシアとの緩衝国となりましたが、しばしばキリスト教の異端を庇護するなどして東ローマから睨まれてもいます。
イエメンのヒムヤル王国は、紅海とアラビア海を繋ぐ重要な位置にあり、エジプトやエチオピアの影響を受けています。4世紀頃にはキリスト教とユダヤ教が伝来し、互いに主導権を争った末、エチオピアのキリスト教王国アクスムに占領されたり、ペルシアに征服されたりして滅びました。
東西両面に大敵を抱えたペルシアは危機的状況にあり、590年には東方の総司令官バフラーム・チョービンが反乱、クテシフォンへ向けて進軍します。大貴族のヴィスタムらはクーデターを起こしてホルミズド4世を廃位・殺害し、妹の子にあたるホスロー2世を擁立すると、東ローマ帝国に支援を要請しました。マウリキウスはこれに応え、反乱軍は鎮圧されました。ここに両帝国の戦争は終わり、東ローマはペルシアに対して優勢となったのです。
591年にクテシフォンに戻ったホスローでしたが、ヴィスタムは功績を誇って実権を握ります。これを嫌ったホスローは彼を粛清しようとしますが、ヴィスタムは東方へ逃れて自立し、イラン高原を制圧してホスローと対立します。ホスローは東ローマや西突厥と結んでこれをどうにか鎮圧しますが、礼としてアルメニアとジョージア西部を東ローマに割譲しています。また彼はマウリキウスの娘を娶って娘婿となりました。
波斯侵攻
602年、マウリキウスがフォカスに殺され帝位を簒奪されると、ホスローは仇討ちと称して東ローマ帝国に侵攻します。ドナウ川北方からは防備が手薄になった隙を突いてアヴァール人が南下し、大量のスラヴ人と共にバルカン半島に押し寄せます。ホスローは首尾よく失われた領土を回復するとクテシフォンに戻りますが、将軍シャフルバラーズらはそのまま侵攻してシリアや小アジアを征服、コンスタンティノポリスの対岸まで迫りました。
608年、カルタゴ総督の(大)ヘラクレイオスはフォカスに反乱を起こし、610年には息子の(小)ヘラクレイオスに海軍を与えてコンスタンティノポリスへ向かわせました。帝都はわずか2日で開城し、フォカスは処刑され、ヘラクレイオスが皇帝に即位します。この時、帝国は滅亡寸前でした。
シャフルバラーズの軍勢はアンティオキアを包囲し、パレスチナまで進軍しました。これに呼応して、長年虐げられてきたユダヤ人は大規模な反乱を起こし、ローマ人を虐殺します。そしてテュロスやアッコン、ティベリアス、ダマスカスなど各地から2万人のユダヤ人が集まり、ペルシア軍に加勢したといいます。これは当時この地域に住んでいたユダヤ人の1割に相当したとされ、残り9割も固唾を呑んで解放を待ち望んでいたことでしょう。
ティベリアのベニヤミン、フシエルの子ネヘミヤらがペルシア軍に加わり、ユダヤ人を指揮しました。613年には「海辺のカイザリア」が、614年にはアエリア・カピトリナ(エルサレム)が陥落し、ネヘミヤはエルサレムの支配者に任命されました。バル・コクバの死からユダヤ民族が470年も待ち望んだ解放の日がやって来たのです。ネヘミヤは第三神殿の建設を計画し、大祭司を任命するため系図を調べ始めました。
しかし数カ月後、キリスト教徒の反乱によってエルサレムは奪還され、ネヘミヤはカイザリアのシャフルバラーズの陣営へ逃げ込みます。反乱は鎮圧されたものの、シャフルバラーズはユダヤ人によるエルサレム統治を危ぶみ、617年にはキリスト教徒にエルサレムを返還したといいます。キリスト教徒の方がユダヤ人より数が多く、敵に回すのは得策ではありません。ユダヤ人も一応支援はされましたが、エルサレムを都としてユダヤ国家を再建するという目標はまたしても幻に終わったのです。
エルサレムはキリスト教徒にとっても聖地で、キリスト教の教会が立ち並んでおり、多数の聖遺物がありました。特に「聖なる十字架」はイエスが磔刑にされた実物とされ、コンスタンティヌスの母ヘレナにより「聖なる釘」と共に発見され、聖墳墓教会に納められていました。ペルシア軍はこれを略奪し、破壊こそしませんでしたがユーフラテスの東へ持ち去っています。
さらにペルシア軍は618年にエジプトを征服し、北からはアヴァール人とスラヴ人が押し寄せてギリシアに居座ります。ヘラクレイオスはホスローに和平の使者を送りますが、ホスローは「その王国は余のものであり、余はマウリキウスの息子テオドシウスを王位につけるであろう。貴様は余の命令なしに勝手に支配権を振るい、余の所有物である宝物を貢ぎ物として捧げに来ておるが、余は貴様を掌中に納めるまで戦いをやめはせぬ」と返答しました。
622年にはロドス島やエーゲ海の島々まで奪われ、帝都コンスタンティノポリスはペルシア軍に包囲されます。堅牢無比な海上の帝都はそうそう陥落するものではありませんが、絶望したヘラクレイオスは「カルタゴに遷都しようか」と弱音を吐く有様でした。
拂菻反撃
一方、619年に即位した西突厥の統葉護可汗(トンヤブグ・カガン)は、ペルシアの兵力が西へ集中した隙を突いて東イラン(ホラーサーン)の街トゥースを攻めています。ホスローはアルメニア王族のスムバトを遣わして撃破させましたが、ヘラクレイオスはこれに勇気づけられてかペルシアに抵抗する決意を固めました。重税を課して軍資金をかき集めると、622年4月に軍勢を整えて東へ向かい、小アジアからペルシア軍を追い払います。
623年にはアヴァール人に莫大な貢納金を支払って講和し、624年からペルシアとの戦争を再開します。彼はアルメニアなどカフカース南部を奪い返し、メソポタミア北部に進軍します。これに対し、626年にペルシア軍はアヴァール人やスラヴ人と手を組んでコンスタンティノポリスを包囲しますが、信仰心で結束した東ローマ軍の指揮は高く、包囲は失敗しました。
また西突厥はヘラクレイオスに加勢してトハーリスターンに侵入し、カフカースの北からハザール部族を援軍として遣わしました。彼らはヘラクレイオスと協力してトビリシを攻め取っています。この時、ヘラクレイオスはハザールの王ジエベル(西突厥の可汗とも)と会見し、王冠を手ずから彼の頭に載せ、皇女を彼の妃にすることを約束したといいます。
隋書北狄伝鉄勒条等によれば、鉄勒(テュルク)は獨洛河(モンゴル高原のトーラ川)の北から拂菻(東ローマ帝国)の東まで広く分布しており、東西突厥に服属しています。このうち康国(サマルカンド)の北、阿得水(イティル、ヴォルガ川)の傍らには訶咥、曷截(ハザール)、撥忽、比干、具海、曷比悉、何嵯蘇、拔也未、渇達(謁達)などの十部族がおり、得嶷海(カスピ海)の東西には蘇路羯(サラグル)、三索咽、蔑促、薩忽(隆忽)などの諸姓、拂菻の東には恩屈(オノグル)、阿蘭(アラン)、北褥九離(ペチェネグ)、伏温昏(ブルガール)などがいると記されています。
627年、ハザール軍はカスピ海の西のデルベント要塞を陥落させ、アルバニア(アゼルバイジャン北部)へ攻め込みます。東ローマ・ハザール連合軍はティグリス川を渡ってメソポタミアに侵攻し、ニネヴェでペルシア軍を撃破しました。シャフルバラーズら大貴族はホスローを見限り、彼の息子カワードを帝位に擁立、628年にホスローを処刑して講和しました。
「聖なる十字架」は返還され、占領した全ての領土・財宝・捕虜も還され、ペルシア帝国の存続と引き換えに莫大な賠償金が支払われます。満足したヘラクレイオスは歓呼に包まれて凱旋し、両大国の戦争は終結しました。
なお西突厥では628年に統葉護可汗が内紛で殺され、以後はカガンが数年ごとに交替する混乱期に入り、最終的に唐に服属するに至っています。
ヘラクレイオスは聖なる十字架を聖墳墓教会に返還すべく、エルサレムを訪れます。ティベリアのベニヤミンはエルサレムを統治していましたが、キリスト教の洗礼を受けてヘラクレイオスを歓迎します。ユダヤ人はエルサレムから追放され、前にもまして迫害されるようになりました。ペルシアでは帝位を巡って争いが続き、ヘラクレイオスは莫大な資金を費やし多大な犠牲を払ったものの、最終的な勝者となったかに見えました。
しかし、まもなくアラビア半島から恐るべき武装集団がやってきます。彼らは唯一神から啓示を受けた預言者ムハンマドの後継者と称していましたが、ユダヤ教徒でもキリスト教徒でもゾロアスター教徒でもありませんでした。
◆الله أكبر◆
◆الله أكبر◆
【続く】
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