【つの版】度量衡比較・貨幣10
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
始皇帝による天下統一後、チャイナでは円形方孔の青銅貨幣「銅銭」が基軸通貨となりました。当初は半両銭(8g)でしたが、漢の武帝はより軽い五銖銭(3.3g)を大量発行して軍事費にあて、天下には銭が溢れかえります。
◆なんだ◆
◆漢だと◆
漢代歳入
漢代の税制や財政について見ていきます。税とは人(兄)から穀物(禾)を抜き取る(脱)ことで、祖霊に捧げる穀物を租と言いました。田地に課す租税を田租といい、戦国時代は10分の1税が基本でしたが、漢初には収穫の15分の1に下げられます。ただ田地からどれだけ収穫があるのか査定するのには莫大な手間がかかるため、次第に面積あたりの定額税となり、文帝の時代には廃止されたこともあります。次の景帝の時には30分の1税として復活しました。穀物や糧秣以外の農作物、田地以外からの各種生産物に対しての税率は定かでありませんが、おそらく10分の1税と考えられています。
田租が減らされたぶん、人民には人頭税、財産税、商業税、労働税、兵役など多種多様な税が課せられます。人頭税は二種類あり、数え3歳から14歳までの男女には年20銭(6000円)ずつ、15歳から60歳までの男女には年120銭(3.6万円、1算)を納める義務がありました。前者を口銭、後者を算賦といいます。武帝時代には各々3銭ずつ上乗せされましたが、武帝の次の昭帝は数え7歳から14歳までと、15歳から56歳までに変更しました。また妊婦は算賦を免除されましたが、奴婢には年2算(240銭=7.2万円)、数え15歳から30歳で未婚の女性は年5算(600銭=18万円)が課されました。奴婢を所有して労働させるぶん税金を多くかけるし、適齢期に結婚せず子を儲けないのは国家の損失だ、というわけです。なぜか男性には課されませんでした。
財産税は算緡と呼ばれ、初期は市籍に登録された専業商家のみに課せれましたが、武帝以降は商業・手工業・鉱業を営む者に課されました。商業を営む戸(家)は、土地・奴婢を含むあらゆる財産2000銭(60万円)につき年に1算(3.6万円)、手工業と鉱業ならば4000銭(120万円)につき年1算です。また武帝は車と船にも課税し、官吏でない者が車や船を持てば1台・1隻ごとに1算、商人が所有していれば2算ずつ課されました。算緡令には厳しい罰則があり、家長が報告しなかった場合は売上利益を没収のうえ労働1年、財産を偽って報告した者は財産を没収の上に国境警備5年が課されました。
これは民間の商業を抑制し、農業を奨励する政策(農本主義・重農政策)によるものです。始皇帝の父が大商人の呂不韋から支援されて秦王になったように、チャイナでも商業は活発でしたが、始皇帝や漢の武帝は中央集権のために民間の商業を弾圧し、国家が物資を統制する経済政策をとりました。
始皇帝は金銀や珠玉を貨幣とせず銅銭のみを流通させよと命じましたし、武帝は国家が物価安定のため物資を強制的に徴収・転売する均輸・平準法を採用しました。また後述のように塩や鉄を国家の専売としています。
儒教でも法家でも、商人は国の安定を乱すものとみなされていました。人民がみな農業に携わって文句も言わず生産を行い、国がそれを吸い上げて市場を開き、不足したところへ補えばよい、という思想です。小さな都市国家ならそれでいいかも知れませんが、現実問題として国がそれをやるのは多大な手間がかかり、現実的ではありません。しかし武帝は各地への大遠征の軍事費を吸い上げるため、これを実行に移したのです。
それでも商業を全て廃止するのは無理で、商業税も課されました。商人や手工業品販売者、高利貸し(上限は月利3%)等は国家に業者として登録するよう義務付けられ、その利益に毎月課税されます。税率は定かでありませんが、2-10%の間といい、未登録の業者はその場で割高に徴収されました。
また数え15歳から60歳までの男女は、半年に1ヶ月(文帝以後は年に1ヶ月)の割合で、在地郡県での公共事業における労働を義務付けられました。これを賦(原義は武力で強制して財を取り立てること)といい、月300銭(9万円)を納付すれば免除されました(更賦)。カネモチは労役を免れ、貧乏人はタダで働かされる仕組みです。労働は農耕や機織り、城壁や道路の修理築造など様々で、期日までに従わなければ処罰されます。秦代には強制労働に駆り出された人夫らが反乱を起こし、秦を滅ぼす原動力となりました。
労働税の他に、兵役も課されます。これは数え17歳から60歳(昭帝以後は数え23歳から55歳)の成人男性に課され、1年間の訓練、1年間の衛士(衛兵勤務)、1年間の在官(予備役)の合計3年間です。金銭による兵役代行(践更)の相場は毎月2000銭(60万円)で、3年36ヶ月なら7.2万銭(2160万円)にもなり、カネモチでなければ兵役逃れはできません。また数え15歳から60歳の男女には毎年3日の辺境防備が課され、一応食糧が支給されましたが、これを免れるには300銭(9万円)が必要です。
武帝はこうした厳しい法律を制定し、「酷吏」と恐れられた忠実な臣下を用いて天下から莫大なカネと財を吸い上げました。漢書などによれば、当時の歳入は中央政府が70.5億銭(70億5000万銭=70万5000金)、地方が92.7億銭(92万7000金)、合計163.2億銭(163万2000金)余りにも達しました。1億銭=1万金=300億円とすると、中央が2兆円余、地方が2.78兆円余、合計で5兆円近くにもなります。これはローマ帝国の国家予算の2倍ですが、私有財産や商業を庇護したローマとは大きく異るため一概に比較はできません。
内訳を見ると、中央政府の歳入のうち田租(地租)は10億銭、藁税が0.8億銭、算賦(人頭税)は20.7億銭。地方の歳入のうち田租は60億銭、藁税が12億銭、算賦は中央と同じく20.7億銭。田租と藁税の合計は92.8億銭、算賦の合計は41.4億銭で、1人120銭とすると人頭税を課せられる人民は3450万人います。これに子供や老人、奴婢などを加えれば、漢代の最大人口は5000-6000万人程度と見積もられています。これが当時の産業規模で支えられる限界で、これを超えると食糧が行き渡らなくなり反乱が勃発します。
全てを足しても124.2億銭で、163.2億銭には39億銭足りませんが、このうち1億を雑収入(商業税など)とし、38億銭(1.14兆円)は塩と鉄の専売制による利益です。武帝の時は酒も専売制でしたが昭帝の時に自由化されました。鉄は農具や武具として国家が大量に必要としますからいいとして、塩は食糧の保存や味付けなど生活に密着しており、その供給を制御することは国家に莫大な富をもたらしました。国に秘密で塩や鉄を作り流通させることは国家反逆罪に等しく、厳罰をもって禁じられましたが、民間では様々な抜け道を備えて私塩が密売されています。
これが可能になったのは、呉楚七国の乱で東方の諸侯王を平定し、中央政府が沿岸部に直接進出することが可能になったからです。呉王劉濞は国内で銅と海塩の専売を行って莫大な富を得ており、領民は税を免除され、兵役の代わりに出すカネも少なくて済んだといいます。
労役や兵役を金銭に換算することは難しいですが、全てひっくるめればローマ帝国よりは多くのカネになったでしょう。ローマも格差社会であったとはいえ、武帝時代の漢は専制君主の一声で戦争や辺境守備に人民が駆り出され、重税と厳罰がのしかかるマッポーの世でした。
漢代歳出
しからば、歳出はどうでしょうか。歳入163億余銭のうち帝室財政は33.3億銭(1兆円)、国家財政は130億銭(3.9兆円)ほどです。このうち軍事費は40億銭(1.2兆円)、官吏給与が9億銭(2700億円)で、その他の経費は臨機応変でした。
兵卒には食糧と衣服が現物支給され、毎月3.33石(66.6リットル)の穀物が受けられますが、粟(脱穀していない穀物)の方が多く、脱穀すれば2石(40リットル)程、1日平均1.34リットルです。1人あたり年40石として、1石100銭(3万円)なら月給10万円、年給120万円。兵卒100万人を養うには年4000万石=40億銭が必要で、衣服や武具は別計算です。将校や将軍はもっと貰っていたでしょう。
彼らの主な業務は巡回警備や連絡、文書の搬送、日干し煉瓦の作成や屯田での耕作です。敵が来れば砦から知らせ、甲冑を着用して弩を持ち、城壁から発射して迎え撃ちました。遠征に駆り出されるのは大変で、莫大な食糧を必要としますし、運搬に使う牛車や軍馬も日々糧秣を必要とします。孫子の兵法にいうとおり、10万の大軍を動かすには1日千金(武帝以後なら1万銭=3億円)かかるため、10日で30億円、100日で300億円、300日やれば900億円が吹っ飛びます。武帝は匈奴を討つため数十万の大軍を動かしたので年に10億銭(3000億円)以上かかり、数を調達するため罪人や商人を無理やり遠征軍に加え、戦闘のプロである騎馬遊牧民を雇い入れたりもしています。
官吏の最低賃金は月給600銭(18万円)で、年収7200銭(216万円)。中級役人なら月1200銭(36万円)、辺境防衛施設の副官は月2000銭(60万円)、長官は月6000銭(180万円)です。官吏は12万人いますから、官吏給与予算9億銭を12万人で割れば平均7500銭(225万円)です。
ただ彼らは庶民から賄賂を受け取り、給与以上の収入がありました。官吏とは本来国(都市国家)の市場を管理する役人であり、税や賄賂は彼らが手数料として徴収するものでしたが、国家の統制下に置くため儒教倫理とかが導入され、「賄賂を受け取って私腹を肥やすのはけしからん!」ということになりました。実際には現代社会でも賄賂は(隠れて)横行していますが。
莽新幣制
武帝の崩御後、昭帝や宣帝は民力を休養させてガタガタになった国家財政を建て直しましたが、次第に外戚の王氏が勢力を伸ばし、王莽が帝位を禅譲されて新朝の皇帝となります。彼は儒教かぶれの復古主義者で、様々な非現実的な改革を行いましたが、そのひとつが貨幣改革でした。
『漢書』食貨志によれば、彼は漢の宰相であった時(西暦2年)に周代の制度を真似て新たな貨幣を作りました。まず重さ12銖の大銭を作って五銖銭50枚にあたるとし、刀銭を復活させて契刀・錯刀と呼び、契刀は500銭、錯刀は5000銭にあたるとしました。2年後に皇帝に即位すると五銖銭を廃止し、重さ1銖の銭を小銭とし、12銖の大銭はこの小銭50枚にあたるとしました。庶民は大混乱に陥り、五銖銭を密かに使い続けましたし、銅銭を勝手に溶かして大銭や刀銭を作り大儲けしようとしたりしました。武帝が五銖銭を導入した頃にも試行錯誤が繰り返され、こうした騒動が頻発しています。
翌年には「刀銭は『劉』の字に金刀を含むから廃止する」とし、金・銀・亀(鼈甲)・貝・銭・布の六種類の貨幣を導入して、小銭を単位とする複雑怪奇な兌換制度を作りました。庶民はますます混乱し、西暦14年にはついに大小銭を廃止して重さ5銖の貨泉と重さ25銖の貨布に変え、貨泉25枚が貨布1枚にあたるとします。泉とは銭(せん)を同音で呼び替えたものです。
天下はさらに混乱し、これらの通貨はほとんど流通しませんでした。やがて王莽は反乱軍に殺され、最終的に漢の皇族の劉秀(光武帝)が帝位について漢を復興、天下を再統一します。彼は五銖銭を復活させ、王莽の銭を廃止しましたが、後世には時々王莽の貨幣が出土して珍しがられています。流れ流れて倭地にもたらされたものもあるといいます。
銅臭紛々
後漢は南匈奴を属国化するなどして北辺の防御を肩代わりさせましたが、2世紀に入ると西の羌族が反乱を繰り返し、西暦121年までの14年間の軍事費は240億銭(7.2兆円)にも達しました。年平均17億銭(5100億円)余です。
国内でも政治の腐敗が進み、外戚の梁氏は専権を振るい、皇帝は宦官を重用してこれに対抗しました。159年に梁冀が誅殺された時、財貨を朝廷が没収して競売にかけると30数億銭(1兆円)にもなり、これを国庫に納めると天下の税率が半分になったといいます。前漢の中央政府の歳入が70億銭余ですからそんなものでしょう。
梁冀を倒した桓帝、その子の霊帝の時代には宦官の権力が強まり、宦官に逆らった地方豪族たちは公職追放(党錮の禁)の憂き目に遭います。庶民も天災や悪政に対して反旗を翻し、184年に黄巾の乱を起こしますが鎮圧されます。しかしこれにより党錮の禁が解除され、反宦官派が勢力を盛り返しました。霊帝は自らの手下を増やすため、朝廷の官職をカネで買い取らせる売官を行い、俸禄1石につき1万銭で競売にかけます。二千石の高官になるには2000万銭(60億円)を朝廷に「修宮銭」として納める必要がありました。露骨な金権政治ですが、ローマでは皇帝の位さえ競売されたといいます。
185年、河北の名士に崔烈がおり、高位高官を歴任していました。しかし霊帝の政策により、官職につく者はそれに相当する銭を納める必要があり、段熲・樊陵・張温らはやむなく銭を払って高位高官につきました。三公(最高位の大臣)なら1000万銭(30億銭)、九卿なら500万銭(15億円)です。崔烈は母から500万銭を借りて司徒になりましたが、このために名声は失墜したといいます。息子の崔鈞はこう告げました。「父上が三公になるべきでないという者は今までいませんでしたが、いま天下は失望しています。論者はその銅臭(銭臭さ)を嫌うのです」。
名士でさえこうですから、他は推して知るべしです。夏侯嵩という人は有力な宦官であった曹騰の養子となり(宦官は去勢されていますから実子は作れません)、曹嵩と名乗りました。彼は高位高官を歴任し、187年には三公のひとつである太尉にまで登りますが、この時1億銭(300億円)ものカネを献上したといいます。彼は曹操の父で、夏侯惇らの叔父にあたります。
西暦189年に霊帝が崩御すると、宦官たちは外戚の大将軍・何進を始末しますが、直後に何進派の袁紹らが宦官を皆殺しにします。将軍の董卓は混乱に乗じ、兵を率いて帝都洛陽に入ると、幼い皇帝を擁立して全権を掌握しました。袁紹・曹操らはこれに従わず東方へ逃げ、諸侯とともに反董卓連合軍を結成、武装蜂起します。次回は董卓以後の貨幣を見てみましょう。
◆蒼天◆
◆航路◆
【続く】
◆