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【つの版】ユダヤの秘密05・聖妃受洗

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

9世紀末、ハザールは東方の遊牧民ペチェネグの侵入で混乱していました。この頃キエフの北方にリューリクが到来し、北欧系のルーシ(ヴァリャーグ、ヴァイキング)による支配を再建します。

『原初年代記』などには彼らの事績が伝説的に記されていますが、イスラムや東ローマなど別の同時代史料と突き合わせるに、年代が30年ぐらい遡らされているようです。ここでは適度に修正します。日本書紀などでも年代に関してちょくちょく操作されており、よくあることです。また東ローマやルーシの記録は世界創造紀元、イスラムの記録はヒジュラ紀元で年数が表記されていますが、ここでは便宜上キリスト誕生紀元(西暦紀元)に統一します。

◆VINLAND◆

◆SAGA◆

基輔羅斯

在位17年目(到来を862年とすると879年、892年とすると909年)にリューリクが逝去すると、子のイーゴリが跡を継ぎます。しかし彼が幼かった(あるいは若かった)ので、親族のオレグが摂政・共同統治者となります。ハザールにおけるカガンとベクのような二重王政でしょう。彼らの名はノルド語のイングヴァル(Ingvar)とヘルギ(Helgi)に相当し、イーゴリとオレグは東スラヴ語訛りです。イーゴリは東ローマの記録にIngor,Ingerとあるため、当時はノルド語で発音されていたようです。

彼らの時代、南のキエフもアスコルドジールという二人の支配者を戴いていました。リューリクが部下を派遣して治めさせていたともいい、北欧系のルーシたちでしょう。イーゴリとオレグは即位3年目(912年か)にキエフを奇襲して攻め取りました。彼らは周辺諸部族がハザールに貢納(毛皮)を支払っていたのをやめさせ、それより軽い額で自分たちにのみ貢納するよう命じます。アラブの大征服と同じく「減税」を餌に味方を増やしたわけです。

以後リューリク家のルーシ王国はキエフを首都と定めたので、これを歴史学ではキエフ・ルーシと呼びますが、史料上は単にルーシと呼ばれます。君主はカガンではなくクニャージと呼ばれ、これはドイツ語ケーニッヒ、英語キングと同じく「族長」「王」ほどの意味ですが、のちに各地に乱立したため西欧でいうプリンス(公爵)として扱われ、公とか大公と漢訳されます。

『原初年代記』では、オレグが907年と912年に兵を率いてツァーリグラード(帝都、コンスタンティノポリス)を攻撃し、皇帝レオーン6世と講和条約を結んだとあります。また『ノヴゴロド第一年代記』では、イーゴリが920年、オレグが922年にツァーリグラードを攻めたとあります。

しかし、いずれも東ローマ側の記録にありません。記録ではルーシの襲撃は860年、941年、1043年の3回だけです(記録に残っていないだけかも知れませんが)。たぶん912年のは30年下げた942年でしょうが、とするとキエフの占領から30年後です。この間はキエフ周辺の地盤固めを行っていたのでしょう。もしくはリューリク到来やキエフ占領がもっと遅かったのでしょうか。

北勃改宗

キエフを失ったハザールの力はさらに弱まります。イスラム系の史料では、ヒジュラ暦300年(西暦912/913年)頃に「ルスがバクーを襲った」とあり、カスピ海までルーシが侵入していました。彼らはドニエプル流域のキエフ・ルーシではなく、ヴォルガ流域にいた別のルーシでしょう。

またハザールの北の属国であるヴォルガ・ブルガール王国は、10世紀初頭にイスラム教を受容し、922年にはアッバース朝のカリフの使者を迎え入れています。使者はハザールを通らずバグダードからイランへ向かい、ブハラからホラズム(アラル海南岸)を経てオグズ族の庇護を受け、ウラル川を遡って北上し、目的地に着いています。使者の報告にはルス人(ルーシ)に関する目撃情報もあり、その体格の良さを讃えています。

ハザールを介さずヴォルガ・ブルガールとイスラム世界が直接交流し、かつイスラム教に改宗したのですから、多宗教が共存しているとはいえユダヤ教を奉じるハザールとしては困ったことです。アッバース朝が健在なら挟み撃ちにされかねませんが、幸い両国の同盟はお流れになったようです。

HLGW

バルカン半島ではブルガリア王シメオンが勢力を伸ばし、913年にはコンスタンティノポリスを包囲し、トラキアやギリシアを占領して「ローマ人とブルガリア人の皇帝(バシレウス)」と僭称しました。しかし927年に彼が崩御すると、ブルガリアは東ローマと和平を結び、国内安定に切り替えます。

東ローマ皇帝ロマノス1世(在位:920-944)は、これを機に国を立て直し、小アジアのイスラム勢力を駆逐して領土を広げました。941年、ルーシの王イーゴリ(Ingor,Inger)は多数の船を率いてドニエプル川を下り、黒海を南下してコンスタンティノポリスへ遠征します。これは『原初年代記』のみならず東ローマ、神聖ローマの史料にも見える史実で、ルーシの船が「海の火」によって追い払われたという大筋でも一致します。

『原初年代記』では、翌年イーゴリがペチェネグの傭兵にブルガリアを攻撃させ、東ローマから講和条約を引き出したとしますが、東ローマ側にそのような記録はありません。一方、ハザール王ヨセフの臣下がハスダイに書き送ったとされる『シェフター文書』にはこう記されています。

我が主人である王ヨセフの治世に、悪党のロマノスがユダヤ人を追放した。王ヨセフはこれに怒り、国内の無割礼者(キリスト教徒)を追放した。そこでロマノスは多くの財宝をルシヤの王HLGWに贈りハザールを攻撃させた。HLGWはSMKR(ケルチ海峡東岸のトムタラカン)を夜襲し、その町には長官ラブ=ハシュモナイがいなかったため、強盗のようにこれを奪った。
これを知ったBWLSCJ(バリクチ)、すなわち尊敬すべきペサフ(漁師、ハザールの海軍総督か)はロマノスの都市を襲い男女を殺した。ペサフは三つの大都市、数多くの従属都市を奪い、シュルシュン(クリミア半島のヘルソン)を攻撃して貢納を課した。さらにHLGWとの戦いに向かい、数カ月後に屈服させ、彼がSMKR から奪った戦利品を取り返した。
HLGWは『ロマノスが私を唆したのだ』と言ったので、ペサフは『ならばロマノスと戦え。さもなくば殺す』と脅した。HLGWはコンスタンティノポリスへ赴き、4ヶ月の間海で戦ったが、マケドニア人(東ローマ人)は「火」を使ったので、HLGWは敗れた。HLGWは逃げ、祖国へ戻ることを恥じて、海路でペルシアへ赴き、そこで軍勢と共に客死した。こうしてルスはハザールに従属した。

さらに、同時代のイランの歴史家ミスカワイフ(1030年没)は著書『諸民族の経験』で次のように記述しています。

ヒジュラ紀元332年(西暦943/944)、アッ=ルシヤ(ルーシ)の軍勢が来て(アゼルバイジャン内陸の町)バルダに向かい、ここを占領して住民を捕虜とした。アッ=ルシヤは自国に隣接する海(黒海)を渡りクラ川に至った。サーッラル朝のマルズバーン(君主)であるイブン・ムハンマドが迎撃したが敗北し、バルダはアッ=ルシヤに占領された。

クラ川はアラス川と共に、南カフカースを東西に貫いてカスピ海に注ぐ交通の大動脈です。上流部は黒海に近く、ルーシはこれを利用したのです。

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アッ=ルシヤは住人に信仰の自由を認める一方、服従を要求し、城塞の防備を固めた。しかし反発する住民が蜂起すると、アッ=ルシヤは多数の住民を虐殺し、その財産を奪った。マルズバーンは偽りの退却でアッ=ルシヤをおびき寄せると、伏兵で彼らを打ち破り、その首領を殺した。アッ=ルシヤはバルダに立てこもり、他方でマルズバーンは、アゼルバイジャンの平定に乗り出したハムダーン朝に対抗するため、バルダ攻囲を部下に委ねて南方に去った。この間、アッ=ルシヤの間に疫病が流行り、人数を減らしたアッ=ルシヤは、運べる限りの財宝や女子供を連れてバルダを去った。

HLGWは明らかにノルド語ヘルギ(Helgi)、東スラヴ語形オレグ(Oleg)にあたりますが、ルーシの年代記にはキエフのオレグがハザールやアゼルバイジャン、ペルシアまで遠征したとは書かれていません。偶然名前が同じだけの別人の可能性はありますが、もし同一人物なら、コンスタンティノポリスで敗北した後に東方へ遠征したのでしょうか。あるいはハザール側がルーシに関して適当なことを言っただけでしょうか。判然とはしません。

ともあれ10世紀にはルーシはイスラム側に結構知られる存在だったようで、イスタフリーの『地理誌』(951年)にはこうあります。

ルーシには三種類ある。一種は(ドナウの)ブルガールに近く、その王はクヤバ(キエフ)と呼ばれる都市に住している。クヤバはブルガールよりも大きい。最も離れた種はサラヴィヤ(スラヴ)と呼ばれる。第三の種はアルサニヤ(ルーシの国)と呼ばれ、その王はアルサに住する。人々はクヤバに交易に訪れる。
アルサについて言うと、異邦人にしてここに立ち入った者について言及されることはない。と言うのも、外国から自分たちの土地に立ち入る者をみな殺してしまうからである。そして交易のため水路を移動し、自分たちのことについては誰にも語らず、同行することも許さず、その国に立ち入らせない。アルサからはクロテンや錫がもたらされる。

現存するルーシ側の史料はキエフやノヴゴロドに偏っていますが、この「アルサニヤ」こそヴォルガ川上流部に割拠し、カスピ海に侵入した方のルーシだったのかも知れません。954-961年の『ハザール書簡』で、ハザール王ヨセフはハスダイにこう語っています。

私はイティル(ヴォルガ)の三角洲に住み、神の助けを借りて河口を守っている。船に乗ってやって来るルス(ルーシ)がムスリムのもとへ(商売に)行くためカスピ海に入るのは許可するが、陸路で来る敵(遊牧民)がデルベントへ侵入するのは許可しない。私は彼らと戦う。もし私が好機を与えれば彼らはバグダードに至るまでムスリムの国全体を掠奪するだろう。

後世のヨーロッパ人は「ハザールがなければ欧州はイスラム化していたであろう」と唱えましたが、ヨセフは「ハザールは蛮族の襲撃に対するムスリム諸国への防壁である」と書いたわけです。イスラムの国に仕えるハスダイへのリップサービスとしても、理にはかなっていますね。

二王客死

オレグの最期について、『原初年代記』はこう伝えます。ある時オレグは部族の祭司らに「あなたは自分の愛馬のせいで死ぬ」と予言され、気になってその馬をよそへやりました。何年も経ってから「あの馬はどうなった」と尋ねると「もう死んだ」というので、オレグは馬が死んだ場所へ行って笑い、馬の頭蓋骨を蹴り飛ばしました。すると頭蓋骨から毒蛇が出てきてオレグの足を咬み、彼はそれがもとで死んで、キエフ近郊に葬られたといいます。どこかで聞いたような伝説で、史実ではなさそうです。また『原初年代記』はオレグの死を912年頃としますが、30年足すとちょうどよさそうです。

『ノヴゴロド第一年代記』では「オレグはラドガへ去り、そこで死んで葬られた」とし、また異説として「海の彼方に去り、蛇に咬まれて死んだ」とも伝えます。客死したのか帰還して死ねたのかは定かでありません。

オレグの死からまもなく、944/945年頃にイーゴリが殺されます。『原初年代記』『ノヴゴロド第一年代記』とも、イーゴリの死に関してはほぼ同じ記述がされています。それによると、彼は従士団を率いてキエフの北西のドレヴリャーネ族のもとへ赴き、多額の(重ねての)貢納を求めました。怒ったドレヴリャーネ族は彼らを殺してしまったというのです。

当時のルーシは(フランク王国でも)徴税システムが整っておらず、支配者は従士団を率いて各部族を巡り、直接貢納を徴収せねばなりませんでした。これをパリューヂエ(巡回)といい、東ローマの史料『帝国統治論』にも記されています。巡回徴税は11月に始まり、4月になると貢納品を集めてキエフに戻り、コンスタンティノポリスへ船出して売りさばくのです。

逗留中の飲食も貢納のうちで、逗留される側には大きな負担になりました。しかもこの地域の部族は、この頃には有力なルーシの豪族スヴェンデルド(スヴェネリド)に貢納しており、イーゴリの従士団は「スヴェンデルドの従士団は着飾っているのに、おれたちは裸同然だ」と言ってイーゴリに出発を促したとあります。要は対立するヤクザのシマに踏み込んでミカジメを取ろうとしたわけで、ぶっ殺されても文句は言えません。東ローマ遠征の失敗で戦利品が得られず、不満に思った従士団が彼を突き上げたのでしょう。

聖妃受洗

イーゴリの妃はオリガ(ノルド名ヘルガ)といい、プスコフの出身でした。彼女が生んだ跡継ぎのスヴャトスラフはまだ幼く(あるいは若く)、オリガは摂政として息子が成人するまでルーシ王国を切り盛りしました。

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彼女がまずやったことは、夫を殺したドレヴリャーネ族への凄惨な復讐でした。族長たちを宴会に招いて皆殺しにすると、その首邑イスコロステニを焼き払って征服し、見せしめとして周辺部族への統制を強めます。また悲劇を繰り返さぬよう税制を改革し、貢納を集める「ポゴスト(客人をもてなす場)」を各地に配備して、君主や代官がそこへ行くという形にしました。

950年頃に書かれた『帝国統治論』によると、彼女の息子スヴャトスラフはノヴゴロドにいたようです。後継者の年齢などから既に成人はしていたようですが、母にキエフを任せてノヴゴロドで政治経験を積んだのでしょう。

ルーシの内陸からやってくる船は、あるいはノヴゴロド(Nemogardas)から現れる。ここにはルーシの君主イーゴリ(Ingor)の子スヴャトスラフ(Sphendosthlabos)がいる。また、スモレンスク(Milinska)、ポロツク(Telioutza)、チェルニゴフ(Tzernigoga)、ヴィーシュゴロド(Bousegrade)からも現れる。彼ら全てがドニエプル(Danapris)を通り、合流地(Sambatas,soobscat')と呼ばれるキエフ(Kioaba)に集まる。(コンスタンティノス7世『帝国統治論』)

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957年頃、オリガは総勢120名の使節団を率いてコンスタンティノポリスを訪れ、東ローマ皇帝コンスタンティノス7世に謁見します。そしてキリスト教の洗礼を受けてエイレーネー(ヘレナ)という洗礼名を授かり、文明国の仲間入りを果たしました。

一方で959年には神聖ローマ帝国/東フランク王国(ドイツ)のオットー1世にも使者を送り、司教と司祭をキエフに派遣してほしいと要請しています。これは東ローマと接近しすぎるのを防ぐためかと思われますが、結局フランクの司教アダルベルトらは追い返されました。

オリガはルーシの王侯貴族で初めてキリスト教の洗礼を受けた人物であり、後世には聖人として崇敬を集めました。ただ彼女の息子スヴャトスラフは、母から改宗を勧められても「従士団にナメられるから」と洗礼を受けず、異教徒のままに成長しました。彼はやがて各地へ遠征し、ハザール王国を崩壊させることになります。

◆VINLAND◆

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【続く】

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