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【つの版】ウマと人類史:中世後期編04・紅巾之乱

 ドーモ、あけましておめでとうございます。三宅つのです。前回の続きです。

 14世紀前半、モンゴル帝国の諸国はジョチ・ウルスを除いて動揺していました。帝国の盟主たる大元ウルスでは帝位と実権を巡る争いが収まりつつありましたが、最大の財源であるチャイナ中南部で大反乱が勃発します。

◆紅◆

◆巾◆

脱脱丞相

 1333年に14歳で帝位に擁立されたトゴン・テムルは、1340年に権臣バヤンと皇太后ブダシリを排除し、バヤンの甥でメルキト部出身のトクトが政権を握りました。彼の父マジャルタイは1341年に中書右丞相となり、トクトは知枢密院事となった後、10月に父から位を譲られます。トクトは漢人の文化を尊重し、バヤンが廃止した科挙を復活させています。

 科挙制度は隋唐に始まり、宋で盛んになりました。遼や金、高麗でも行われましたが、宋では科挙官僚が皇帝の手足として優遇されています。しかしモンゴル帝国では門閥や縁故や功績により柔軟な人材登用が行われたため、科挙は特に必要なしとして1313年まで実施されませんでした。これを不満とした人々の運動で科挙は再開され、合格者は比較的優遇されましたが、他の人材登用ルートもあったため、科挙にこだわる必要はありませんでした。科挙は膨大な漢文知識を詰め込んだ教養豊かな人材は得られますが、多種多様な才能を発揮する人材を発掘するには問題があったようです。

 また1343年3月には遼・金・宋の正史編纂事業の総裁となり、1344年に遼史金史、1345年に宋史を完成させました。各朝についてはすでに様々な史書があり、それをまとめることで短期間に完成したのですが、短期間ゆえに不備も多く、矛盾するところもあるようです。また脱脱は名誉総裁であり、実際にまとめたのは翰林学士の欧陽玄ら六人でした。

 しかし1344年5月、トクトの専横を疎ましく思ったトゴン・テムルはマジャルタイとトクトを冤罪によって辞職させ、ベルケ・ブカを丞相とします。同じ頃に黄河下流域で洪水が発生しますが、この政変によって対応が遅れ、一帯は大きな被害を受けます。1347年にマジャルタイが逝去して冤罪が明らかになると、1349年にトクトは呼び戻されます。彼は1350年に至正交鈔を発行して資金源とし、1351年に賈魯に命じて黄河の改修工事を行わせました。

 彼は官民合わせて17万人を動員し、わずか3ヶ月で工事を完成させ、黄河の氾濫を食い止めました。続いて河南の鄭州でも治水工事を行い、大きな功績をあげています。この大工事が人民の不平不満を呼んだという言説もありますが、河南・河北など漢地(カタイ)では直接恩恵を被ったのに対し、直接恩恵を受けない江南(マンジ)での負担が大きかったともいいます。

 江南で反乱の口火を切ったのは、浙江省台州出身の方国珍でした。彼は塩の密売業者で、1348年に「海賊と手を組んでいる」との密告を受けて逮捕されそうになります。そこでやむなく海中の島に数千人の手下を率いて移り、実際に海賊行為を始めたのです。いわゆる「倭寇」の活動はこの頃から盛んになりますが、彼が倭寇と関係があったか定かではありません。方国珍は浙江・福建の沿岸部で活動し、物資輸送船を襲ってしばしば勝利しました。

紅巾之乱

 これに続いて、1351年に黄河流域で反乱が勃発します。趙州欒城(河北省石家荘市欒城)に韓山童という人がおり、白蓮教というカルト宗教を喧伝していました。これは仏教の浄土信仰(浄土教)にマニ教(明教)と弥勒信仰が習合したもので、汚れた現世の浄化と救世主・弥勒菩薩の下生(降臨)を叫ぶ、典型的な終末論カルトです。相次ぐ災害や重税、蛮夷の支配に鬱屈した人々はこの宗教に救いを求め、暴動や反乱を引き起こすことになります。

 まず韓山童は、協力者の劉福通・杜遵道・盛文郁・羅文素らとともに「石人一隻眼、挑動黄河天下反」という歌を流行らせます。次いで隻眼の石像を調達して「莫道石人一隻眼、此物一出天下反」と彫り、潁上県(安徽省阜陽市)の黄河の近くに埋めます。そして黄河の改修工事で噂通りの石像が出土すると「これぞ天下が乱れる予兆だ!」と信者が騒ぎ立て、民心を不安に陥れます。やがて韓山童は「弥勒仏の下生、明王(光の王)、宋の徽宗皇帝の八世の子孫」という触れ込みで人々の前に現れ、白馬と黒牛を犠牲として黄河へ投げ込み、蛮夷から天下を取り戻そうと宣言します。信者たちは北狄を倒し南宋を復興すべく、火の色である赤いターバン(紅巾)を目印として頭に巻いたため、これを「紅巾の乱」と呼びます。しかし騒ぎを聞いて駆けつけた県令に鎮圧され、韓山童はあっさりと逮捕・処刑されました。

 ところが、残党はしぶとく生き残って反政府活動を続け、これに呼応して各地で反乱が勃発します。1351年8月には徐州で芝麻李が王を称し、徐寿輝が湖北で呼応、10月には皇帝を称して国号を天完、元号を治平としました。1352年には安徽の濠州で郭子興が、1353年には江蘇の泰州で塩の密売人の張士誠が決起し、1354年に張士誠は国号を大周、元号を天祐として王を称しました。これにより江蘇・安徽・湖北などの地域が大元から離反したのです。高麗チベットもこれに応じて大元から自立し、独立を宣言しました。

 事態を重く見たトクトは10万余の兵を率いて出征し、1352年9月に徐州の芝麻李らを平定、1354年から張士誠を討伐すべく再び出兵します。大元の財政は江南での塩の専売制による莫大な利益が賄っており、江南から大都へ通じる海路や運河もあり、ここが離反すれば死活問題です。

 ところが、奸臣ハマの讒言によりトクトは弾劾を受けて失脚し、1356年に自害に追い込まれます。皇帝トゴン・テムルは酒色に耽って政治を顧みず、皇后で高麗出身の奇氏とその取り巻きが政権を担いました。1355年、これに乗じて劉福通らは韓山童の遺児・韓林児を安徽の亳州で擁立して小明王となし、国号を宋、元号を龍鳳としました。1357年には徐寿輝が部下の明玉珍を四川へ遣わして平定させており、大元は江南・四川を喪失します。

群雄割拠

 この間、大元はタシュ・バートルチャガン・テムルの奮戦で湖北・河南方面の紅巾軍を押し留めていますが、1357年にタシュが死去すると紅巾軍の勢力が強まり、1358年には開封を占領します。タシュの子ボロト・テムルはチャガン・テムルとともに激しく戦い、1359年には開封を奪還します。しかし大同に入り山西地方を統治するようになったボロト・テムルと、河南を担当するチャガン・テムルは勢力を争い、反目するようになりました。

 1362年にチャガン・テムルが死ぬと、彼の妹の子であるココ・テムルが後を継ぎ、ボロト・テムルとの対立関係も引き継ぎます。時に宮中では皇帝トゴン・テムルと、皇太子アユルシリダラおよびその母・奇皇后の派閥が権力争いに明け暮れており、ボロト・テムルが反皇太子側についたため、ココ・テムルは皇太子側につきます。1364年、ボロト・テムルは君側の奸を除くべく大都へ進軍し、皇帝を手中におさめました。太原に駐屯していたココ・テムルは逃亡した皇太子を迎え入れて対抗し、皇帝は1365年7月にボロト・テムルを暗殺します。ココ・テムルとアユルシリダラは大都へ戻って政権を握りますが、この間に江南の反乱は手がつけられなくなります。

 対する反乱軍も一枚岩ではなく、1360年には徐寿輝が部下の陳友諒に殺されます。陳友諒は帝位を簒奪すると国号を大漢と改めましたが、四川の明玉珍はこれに従わず自立し、1363年に大夏皇帝と称しました。張士誠は他の勢力と対抗するため大元と和睦し、南の方国珍とも同盟して勢力を広げ、1363年3月には宋を攻めて劉福通を戦死させました。張士誠はすぐに大元から離反して呉王を称します。窮地に陥った韓林児は、郭子興の跡を継いで長江下流域の軍閥となっていた朱元璋に救援を求めました。

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江南争覇

 朱元璋は、幼名を重八といい、天暦元年(1328年)に濠州の鍾離(安徽省鳳陽県)で貧農の家に生まれました。飢饉と疫病で家族は全滅し、重八だけが生き延びて近くの寺に身を寄せ、托鉢僧となって乞食していたという悲惨な生い立ちでした。彼は長じて興宗と改名しましたが、1351年に紅巾の乱が勃発して寺が焼け落ち、濠州で挙兵していた郭子興のもとに身を投じます。

 郭子興は彼の面構えを気に入り、十夫長(十人隊長)に任命しました。興宗はこれより朱元璋、あざなを国瑞と名乗り、貧民の味方であると吹聴して勢力を強めます。郭子興は養女の馬氏を彼に娶らせ、徐達常遇春李善長ら有能な者たちが朱元璋の周りに集い始めました。李善長は「漢の高祖劉邦は農民の出身だ。あなたはその真似をすればよい」と進言し、朱元璋は劉邦を意識して行動するようになったといいます。

 1355年に郭子興が死去すると、その子の郭天叙、妻の弟の張天佑が勢力を引き継ぎますが、相次いで戦死したため朱元璋が勢力を引き継ぎます(朱元璋による謀殺とも)。彼は1356年に長江下流域の集慶路(南京)を占領して応天府と改め、呉国公と称して勢力を広げ、劉基・宋濂ら知識人を幕僚に加えて名声を高めました。時に西方では徐寿輝、北方では韓林児、東方では張士誠が割拠しており、朱元璋は江南をめぐってこれらと競り合います。

 1360年、大漢皇帝となった陳友諒は大軍を率いて応天府に迫り、張士誠と手を組んで朱元璋を挟み撃ちにしようとします。応天府は動揺しますが、劉基は決戦あるのみと主張し、将兵を偽って降伏させ、漢軍を誘き寄せて大破しました。武漢まで撤退した陳友諒は鄱陽湖付近を朱元璋に奪われますが、1363年に大軍を率いて鄱陽湖へ攻め寄せます。

 朱元璋は張士誠の侵攻を防いでいましたが、急いで休戦すると水軍をかき集めて出陣し、両軍は鄱陽湖で決戦を行います。朱元璋は赤壁の戦いの故事にちなみ、火をつけた船を突撃させて陳友諒の船団を焼き払い、陳友諒は撤退しますが流れ矢にあたって戦死します。子の陳理が逃げ帰って帝位につきますが、もはや形勢は変えられず、1364年に朱元璋に降伏しました。

 四川の明玉珍は呉王を名乗った朱元璋に使者を送って友好関係を締結し、朱元璋は「呉と蜀のごとく協力して元を倒そう」と自分たちを三国志になぞらえています。残る張士誠も1366年から首都の蘇州を包囲され、1367年7月に陥落、張士誠は捕らえられて応天府に送られる途中で自決しました。次いで方国珍も降伏し、四川を除く江南の地はことごとく朱元璋の手中におさまります。また韓林児は1366年に応天府へ呼び寄せられますが長江で溺死し(暗殺とも)、朱元璋は白蓮教と手を切って邪教として弾圧します。

大明天命

 1368年正月、朱元璋は応天府で帝位につき、国号を大明、元号を洪武としました。これは韓山童の称した明王、韓林児の称した小明王、マニ教の漢名である明教に由来するともいいますが、五行思想の火徳の意味であって西戎金徳のモンゴルを駆逐するためだとか(国姓もで火の色ですね)、大元の国号の元ネタとなった易経の乾卦彖伝の続きに「大明始終」とあることに由来するとも、諸説あります。様々なミームを含ませたのでしょう。

哉乾。萬物資始。乃統天。雲行雨施。品物流形。大明始終。六位時成。時乘六龍以御天。乾道變化。各正性命。保合太和。乃利貞。首出庶物。萬國咸寧。(易経・乾卦彖伝)

 大元の軍権を握るココ・テムルは陝西地方の軍閥・李思斉を討伐するため西へ向かっており、中原(華北平原)の防備は手薄だったため、朱元璋は将軍の徐達に大軍を授けて北伐を行わせます。災害と戦乱に疲れた人々は次々と馳せ参じ、ココ・テムルは急いで駆けつけますが徐達に敗れ、大元の兵士らも大明に奔る有様でした。皇帝トゴン・テムルと皇太子アユルシリダラ、奇皇后らは恐れをなし、大都を放棄して上都へ逃れました。1368年8月、徐達ら率いる大明軍は大都を占領し、朱元璋は「大元の皇帝は帝位を放棄し、天命は大明皇帝に移った(元明革命)」と宣言します。

 しかし、大元はまだ滅んでいません。占領して支配していた江南(マンジ)や漢地(カタイ)で反乱が起きたため、ひとまず本拠地のモンゴル高原へと撤退しただけです。高麗やチベットは離反したものの、甘粛や雲南、マンチュリアにもモンゴル帝国の王侯貴族がおり、皇帝も皇太子も朝廷自体も健在です。大明はこれを滅ぼすべく、さらなる遠征を行います。

◆炎◆

◆明◆

【続く】

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三宅つの
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