【つの版】日本刀備忘録14:相伝流行
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇による建武の新政は2年で崩壊し、足利尊氏は持明院統の天皇を擁立して南北朝時代が到来しました。戦乱により刀剣・武具の需要は増大し、各地に新しい刀工の流派が現れます。前回は東国を見てきましたから、今回は畿内・西国です。
◆刀剣◆
◆乱舞◆
山城信国
鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて、京都では来派の刀工が活躍していました。国行・国俊の跡を継いだ国光の在銘作刀年代は正和2年(1313年)から貞治2年(1363年)まで50年に及び(現存するものは1327年から1351年まで)ますが、作風からして1333年に鎌倉幕府が滅亡した後、南北朝時代に二代目に代替わりしたとの説があります。後期の国光や次代の国次は、相州の正宗などの作風の影響を受けています。またこの頃、京都には相州伝の流れをくむ信国派や長谷部派が出現しました。
慶長6年(1601年)に筑前初代信国吉貞が記した注によれば、信国派の祖である初代信国は、「元応年間(1319-21年)頃に了戒(来国俊の子、在銘は1290-1314年)の弟子となって鍛冶を行うこと数十年、京五条坊門(現京都市下京区佛光寺付近)に住んで初めて信国と打った」とされます。文明15年(1483年)頃の能阿弥本銘尽に「五条坊門堀河に住す。今に信国と打つ。建武(1334-36年)の頃より2-3代いずれも信国と打つ」とあり、初代信国の作刀を建武年間からとします。しかし信国の建武銘は現存せず、年代銘刀は延文3年(1358年)から貞治5年(1366年)までです。「元応年間から数十年」というからには30-40年ぐらいは後でしょう。
また長享年間(1487-89年)の銘尽によると、信国は信久の子で、信定・定国という子らがおり、定国は「後に信国と打つと口伝に在り」と記されています。さらに元亀元年(1570年)の刀剣目利書では、初代信国の父信久は了戒の孫にあたり、定国は初代信国の曾孫だとします。一方慶長16年(1611年)頃の『古今銘尽』では「信久の子ではなく(了戒の子)国久の子で、鎌倉の貞宗が老後の時に弟子入りした」とします。要は、信国は来派に加えて相州貞宗の流れもくみ、新たな作刀流派を起こしたわけです。
初代信国の子や孫も「信国」の名を受け継ぎ、室町幕府に仕えて90年近く京都で活動しましたが、4代目の信国吉家は永享12年(1440年)頃に豊前国(現福岡県東部及び大分県北西部)に移住し、宇佐の安心院吉門に仕えました。天正10年(1582年)に安心院家が大友宗麟に滅ぼされると、12代目の信国吉貞は筑前国へ逃れ、慶長7年(1602年)に黒田長政に仕えました。また初代信国の弟・源五郎は越後の豪族山村氏に仕え別派を興したといいます。
長谷部国重
長谷部派の祖・長谷部国重は、大和国の刀工・千手院国重の子です。通称を長兵衛といい、父より鍛刀の術を学んだのち、郷里を離れて鎌倉に赴き、正宗門下の広光を師として相州伝を学びました。彼は鎌倉の長谷部郷(現鎌倉市長谷)に居住して長谷部氏を名乗り、父の名を継いで国重と称し、京都五条坊門の猪熊に移住して作刀に当たったといいます。信国が来派と相州伝を融合させたのに対し、国重は千手院派と相州伝を融合させたのです。
この初代・長谷部国重の代表作が、国宝に指定されている名刀「へし切長谷部」です。もとは大太刀ですが磨上げられて打刀となっており、いつの頃からか織田信長の手に渡りました。伝説によれば、信長は茶坊主の観内が無礼を働いたため成敗せんとし、この刀を携えて追いかけました。観内は台所へ逃げて膳棚の下に隠れましたが、信長は刀を棚の中に挿し込み、刀身を観内の体に押し当てて圧力をかけ、突き刺すのでも振り抜いて薙ぎ切るのでもなく「圧し切り」にして殺しました。それでこの刀を「へし切」と呼ぶようになったといいます(棚ごとぶった切ったわけではありません)。
天正3年(1575年)、播磨の大名・小寺政職の使者として岐阜城に信長を訪れた黒田官兵衛孝高は、毛利氏が治める中国攻めの策を提言して気に入られ、「へし切」を下賜されたといいます。また官兵衛の子・吉兵衛(長政)が織田家に人質として預けられていた頃、信長が長政に下賜したとも、信長から秀吉の所有を経て長政に下賜されたともいいます。由来は諸説あるものの、以後この「へし切」は黒田家の家宝として伝来し、現在も福岡市博物館に所蔵されています。
初代の活動時期は建武年間とも言われます。2代目の長谷部長兵衛国重は初銘を国信といい、京都油小路に居住して作刀を行いました。作例に太刀は少なく、短刀や脇差が多かったようです。3代目は長谷部六郎左衛門国重と銘を切り、京都を離れて摂津国の天王寺や伊丹で作刀を行っています。
相伝備前
相州伝は備前の刀工にも流行し、両者の技法を兼ね備えた「相伝備前」と呼ばれる新たな伝法が生み出されました。その代表が備前長船兼光です。
長船派は古備前派の近忠・光忠父子を祖とし、光忠の子・長光、その子・景光は鎌倉時代後期に活動しました。景光の子が兼光で、文永年間に活動した備前長船住孫左衛門兼光(大兼光)と区別して二代目兼光とも呼ばれます。在銘紀年は元亨(1321-24年)から応安(1368-75年)まで50年に及び、初期の兼光は父・景光の作風を受け継いでいますが、後期には相州伝の作風に傾いていきます。このため兼光も二代ある(二代目は延文兼光)とされてきましたが、実際は同じ刀工の作風の変化のようです。元亨年間に20代としても応安年間には60歳か70歳で、当時としては長寿ではあったのでしょう。
能阿弥本銘尽によると、室町幕府初代将軍・足利尊氏は兼光を御用鍛冶として取り立て、屋敷を与えて厚遇しました。また近世の伝承では、建武の乱で敗れた尊氏が京都から九州へ向かう途中に兼光と出会い、甲冑をも両断する名刀を献上されたといいます。
兼光作の名物としては、「波游ぎ兼光」というものがあります。もとは上杉家に伝来し、豊臣秀次に伝わり、文禄4年(1595年)に秀次が切腹した際介錯に用いられたといいます。そして秀吉に没収された後、慶長2年(1597年)に羽柴秀俊(小早川秀秋)に下賜されました。
伝説によれば、秀秋(または秀次)が川岸で曲者に襲われた際この刀で斬りつけたものの、相手はそのまま川に飛び込み、対岸にたどり着きました。ところが上陸するやばったり倒れて息絶えたので、「斬られたことにも気づかぬ切れ味」として「波游ぎ」の異名がついたといいます。また太刀から磨上げて打刀にしたのも彼だとされます。
彼が慶長7年(1602年)に没すると「波游ぎ」は家康に没収され、家康の6男(庶子)の松平忠輝に与えられました。忠輝は元和2年(1616年)に改易されて伊勢朝熊・飛騨高山・信州諏訪と配流されますが、「波游ぎ」は携行が許されています。本阿弥家はこれを「信国の作で金100枚」と鑑定して安く買い叩こうとしましたが、忠輝は手放すことなく天和3年(1683年)に諏訪で没しました。その後「波游ぎ」は筑後柳川藩の立花家に買い取られ(諸説あり)、昭和29年まで家宝として伝来しています。
兼光の他の名物には、米沢藩上杉家に伝わった「水神切兼光」や「後家兼光(無銘)」、福島正則が所持していた「福島兼光」、寛永13年(1636年)に土佐藩主山内忠義が2代将軍秀忠の形見として家光より拝領した「一国兼光」などがあります。水神切兼光の銘は「康永二年(1343年)十一月日」、福島兼光の銘は「観応(1350-1352年)□年八月日」、一国兼光の銘は「文和二二年(4年、西暦1355年)乙未十二月日」とあります。また明治時代に土佐山内家に献上された「今村兼光(大兼光)」には「建武三年(1336年)丙子十二月日」の年号銘が刻まれています。
兼光と同時代の長船派の刀工には長義(「ちょうぎ」とも)がいます。彼は長光の兄弟の真長の孫で、父は光長、兄は長重といい、景光や兼光とは別の系統に属しました。しかし備前鍛冶の中では最も相州伝の作風を伝えており、また初期の作には南朝年号が用いられています。加賀前田家に伝わる「大坂長義」には「備州長船住長義 正平十五年(西暦1360年)五月日」とあり、これは南朝年号で、北朝では延文5年にあたります。当時の備前国守護は北朝・幕府側の赤松則祐ですが、近隣の山名時氏は正平18年/北朝の貞治2年(1363年)までは南朝側だったため、その影響でしょう。
長義の他の名物には、小田原北条氏から足利長尾氏、尾張徳川家へ伝来した「本作長義」(山姥切国広はこれを写したもの)、常陸佐竹家に伝来した「八文字長義」、小田原大久保家に伝来した「六股長義」などがあります。
また石見国(現島根県西部)では、南北朝時代から室町時代にかけて直綱と名乗る刀工が四代に渡って作刀を行っています。特に二代目の作は評価が高く、良業物とされました。その姿形は相伝備前に似ており、影響があったものと思われます。
筑前左文字
備前・石見のさらに西、筑前国(現福岡県北部)には、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて「左文字派」と呼ばれる流派が活動しました。戦国時代に編纂された刀剣押形集『往昔抄』によると、その祖は良西といい、談義所の西蓮国吉、実阿、源慶、安吉と続きました。このうち源慶は俗名を安吉、通称を左衛門三郎といい、これを略した「左」の一文字を銘に切ったため「左文字」と呼びます。源慶は先祖伝来の作風から脱却して相州伝を学び、左文字派を創始したため「大左」とも呼ばれます。しかし左文字派は南北朝時代に南朝に味方して敗れ、長門・筑後・肥前などへ散らばりました。
「筑州住 左」の銘を持つ名物のうち、有名なのが「江雪左文字」です。もと小田原北条家の家臣で北条時行の末裔と称した板部岡江雪斎の佩刀であったことに由来し、小田原北条家が滅ぶと秀吉に献上され、のち家康の手に渡りました。家康はこれを10男の頼宣に授け、以後は彼の子孫である紀州徳川家に伝来しています。在銘の名物には、他に細川家に伝来していた短刀の「小夜左文字」、秀吉から家康に下賜され、三河井上家に伝わった「聚楽(太閤)左文字」があります。
無銘ながら歴史的に重要な刀が「義元左文字」です。これは戦国時代に細川晴元の側近として権勢を振るった三好政長(法名は半隠軒宗三)の所持していたもので三好左文字・宗三左文字ともいい、天文5年(1536年)に細川晴元の正室の妹(三条の方)が武田晴信(信玄)に嫁いだ際、晴信の父・信虎へ贈られました。翌年信虎の娘が駿河の今川義元に嫁いだ時、引き出物として贈られましたが、永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで義元が戦死し、織田信長の手に渡りました。信長が本能寺の変で死ぬと行方不明となりましたが、松尾大社の神官から秀吉に献上され、秀頼を経て家康の手に渡りました。以後は徳川将軍家の家宝となり、明暦の大火で焼身となったのち焼き直しされ、明治時代に信長を祀る建勲神社に奉納されています。伝来に怪しさはありますが、多くの大名や天下人の手に渡ったとされる刀です。
菊池延寿
肥後国菊池郡(現熊本県菊池市)には、鎌倉時代末期から戦国時代にかけて「延寿派」と呼ばれる刀工集団がおり、在地領主の菊池氏の庇護を受けて作刀を行いました。流派の祖は延寿太郎国村といい、父は大和国の千手院弘村、母は山城国の来国行の娘とされます。国村は国行の子・国俊に師事して来派を学びましたが、父と共に肥後菊池氏に招かれたといいます。
延寿国村の在銘刀には「建治二年(1276年)」と記すものがありますが、来国俊は正和4年(1315年)に75歳と刻んだ銘があるため建治2年には26歳となり、弟子を取るには少し若いかもしれません。国村は正中年間(1324-26年)に63歳で没したともいい、とすると1261-63年頃の生まれで、建治2年には13-15歳の少年です。また建治(1275-78年)は文永と弘安の間の年号ですから、文永11年(1275年)に起きた蒙古襲来の再来に備えるため、京都などから優れた刀工を呼び集めたのでしょう。
菊池氏は早くから後醍醐天皇・南朝側につき、鎌倉幕府や足利尊氏と戦いを繰り広げました。伝説によると建武2年(1335年)11月、菊池武重は新田義貞率いる官軍に加わって鎌倉に籠もる足利尊氏を討伐に赴き、尊氏の弟で箱根を守る直義と戦いましたが、弓・薙刀の大半を失い敗走寸前の状態に陥りました。この時武重は付近の竹藪から竹竿を切り出させ、各自の腰刀を竿の先に結わえ付けさせて即席の槍を作らせます。これを1000名の菊池勢が一斉に構えて反撃に転じると、3倍の敵を敗走させたので、世にこれを「菊池千本槍」と呼んで讃えたといいます。これは明治時代の創作だそうですが、戦国時代頃までには短刀に長柄をつけたような「菊池槍」が菊池氏によって用いられており、穂先は延寿派の刀工が打ったとされています。
南北朝の戦乱は60年の長きに渡り、北朝の天子を奉じた足利尊氏も南朝側の襲撃や内ゲバに悩まされ続けます。南朝側の武士や悪党は物資調達のため高麗やチャイナにまで遠征し、鋭い刀を振るって戦う凶悪な海賊「倭寇」として恐れられました。日本刀(倭刀)は交易品としてばかりでなく、倭寇の振るう恐るべき武器として海外に知られていくことになります。
◆刀剣◆
◆乱舞◆
【続く】
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