【つの版】ユダヤの謎17・東西戦乱
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
4世紀末、ついにキリスト教はローマの国教となり、キリスト教以外の宗教を信仰することは禁止されました。しかし、ただちに全国の「異教」の神殿やシナゴーグが破壊されたわけではありません。皇帝の命令で破壊されたりキリスト教徒の暴徒が襲撃することもありましたが、「異教」は何世紀にもわたって意外としぶとく生き残っています。
◆馬◆
◆娘◆
異教弾圧
エジプトのアレクサンドリアには、プトレマイオス朝以来の大図書館が存在し、ローマ時代にも学問の殿堂として栄えていました。3世紀以後はかなり衰退し、度重なる火災や戦乱で多くの蔵書は失われましたが、4世紀末時点でもセラピス神殿(セラペイオン)にはまだいくらか残っていたようです。
391年、アレクサンドリア主教テオフィロスらはセラペイオンを襲撃して破壊・略奪した…と伝えますが、先に非キリスト教徒の賊(シリア人イアンブリコスの流れをくむ魔術系カルト)が襲ってきたので反撃したまでだとか、テオフィロスが異教を侮辱したせいだとか論じられています。
近隣のムセイオン(ミューズ神殿)では、女性哲学者ヒュパティアが長となってプロティノスの系譜の新プラトン主義哲学を講義していましたが、ローマのアレクサンドリア総督の庇護下にあり、テオフィロスも手出しをしようとはしませんでした。しかしテオフィロスの後任のキュリロスは総督と政治的摩擦を起こし、「ヒュパティアが和解を妨害した」とのデマが広まります。このため415年にキリスト教徒の暴徒がムセイオンを襲撃し、ヒュパティアを殺害しました。
これは近代的啓蒙主義者やジャーナリスト方面から「キリスト教徒に殺された悲劇のヒロイン」「古代の叡智の結晶であるアレクサンドリア図書館の破壊」だとか声高に喧伝されますが(小説化や映画化もしました)、実際はヒュパティアの死後も新プラトン主義哲学は数世紀にわたって教えられ続け、キリスト教・イスラム教にも引き継がれています。
羅馬劫略
ローマ帝国が分裂したり宗教論争したりと混乱する間に、北方から様々な異民族が侵攻して来ました。中央アジアから到来した遊牧民フン族は、黒海北岸にいたゲルマン系のゴート族を攻撃し、375年に西へ押し出します。難民化した彼らはドナウ川を越えてローマ帝国領内に侵入し、皇帝ウァレンスを戦死させ、トラキア・ダキア・パンノニアを荒らし回ります。皇帝テオドシウスは彼らと同盟を結んで領内の居住を認め、外敵を防がせました。
漢や魏晋が南匈奴・烏桓・鮮卑に対してしたのと同じです。フン族は匈奴が西へ移動したものと思われ、イラン系・テュルク系・ゲルマン系など多数の遊牧部族を服属させて雪玉式に膨れ上がりました。
この頃テオドシウスがアリウス派を迫害したため、アリウス派はゴート族に布教を行い、王族を信徒として勢力を広げました。皇帝や総主教がいかに異端を攻撃しても、従わない人々は常に存在します。
フン族は395年にローマ領内へ侵入し、トラキアを経てアルメニア・カッパドキア・シリアにまで襲来しました。東ローマ帝国はゴート族と協力してどうにかフン族を追い払いますが、彼らの一部は西へ移動し、ヴァンダル族やスエビ族らをガリアへ追い出します。もっともフン族は一枚岩ではなく、ローマ側の傭兵となって同じフン族と戦う集団もいました。
一方、西ゴート族の王アラリックは東ローマと給金を巡って争い、バルカン半島からイタリアへ侵入します。皇帝ホノリウスはラヴェンナに引きこもっており、宰相スティリコがゴート族と戦いました。しかしホノリウスはスティリコと不仲になり、408年に処刑します。アラリックはローマを包囲しつつホノリウスと交渉しますが決裂し、410年にローマを略奪しました。
都市ローマは、前387年頃にケルト人に占領されたことを除けば、蛮族に征服されたことはありませんでした。首都機能が各地に移転して権威を失っていたとはいえ、このことはローマ帝国の人々に大きな衝撃を与えます。『ヨハネの黙示録』に記された最終戦争、ローマ帝国への神の怒りがようやくやって来たのでしょうか。しかしローマ帝国は今やキリスト教を国教としており、悪の王国ではなく神の王国となったはずです。
北アフリカ・ヌミディアのヒッポの司教アウグスティヌスは、『神の国』を著してこの動揺を鎮めました。彼によればローマ帝国はアッシリアやペルシアのような「地の国」に過ぎず、イエスが説いた「神の国」ではありません。教会組織も「地の国」における信徒らの集まりに過ぎず、世俗の要素が存在するものの、世俗の国家よりは神に近いものとして優位性があるとします。ゆえに、たかが地上の一都市に過ぎないローマが略奪されたからとて、必要以上に恐れることも、神の救いを疑う理由もないのです。
他にもアウグスティヌスは「人間はアダム以来の原罪を持ち、子々孫々に受け継がれている」とか「ユダヤ教が担っていた神の教えは、キリスト誕生によって教会に受け継がれた」と説き、これらは西方教会における重要な教義となりました(東方教会ではアウグスティヌスを重視しません)。
また彼はユダヤ人について「彼らはキリストを殺した罪人である」としましたが、皆殺しにせよとも強制的にキリスト教に改宗させよとも唱えず、罪の生き証人として存在させ続ける方がよいとしました。彼らが国を失い離散の運命にあるこの悲惨な状態こそが、神が彼らを罰している証拠であり、キリスト教の正しさを証明するというのです。復讐は神に任せよと聖書に書かれていますし、殺人者カインも神は生かしておいて、罪の報いとしての苦悩を味わわせたといいます。彼らが悔い改めてキリスト教に帰依するなら神の御心に叶いますし、悔い改めなければ最後の審判で地獄へ行くだけです。
こうして、ユダヤ人はキリスト教社会での存在を「寛容にも」許可され、差別や迫害を受け続けながらも根絶されることはありませんでした。ユダヤ教徒には有難迷惑としても、ローマ帝国の寛容の精神、キリスト教の慈悲の精神には叶いますし、教会の自尊心を満足させられます。組織的に弾圧すれば激しく抵抗するでしょうし、民衆の不満のはけ口として残しておくのも統治のためには必要です。
お偉方の御託はともかく、歴史は情け容赦なく進みます。ヴァンダル族、スエビ族、イラン系のアラン族はガリアを駆け抜けてヒスパニアに入り、西ゴート族も西ローマから南ガリアとヒスパニアを割譲されて西へ向かいます。
429年、ヴァンダル族の王ガイセリックはジブラルタル海峡を渡って北アフリカに入り、東のカルタゴ目指して進軍します。豊かな穀倉地帯であった北アフリカは蹂躙され、76歳のアウグスティヌスはヒッポを蛮族が包囲する中で世を去りました。ガイセリックはそのままヌミディアやカルタゴ、シチリアなどを征服してヴァンダル王国を建国し、西ローマ帝国を南から脅かします。彼らはアリウス派を信仰しており、三位一体派は弾圧されました。
北方ではフン族の王アッティラが西ローマ帝国を脅かし、貢納や皇女を要求していましたが、451年にガリアへ侵入するもカタラウヌムの戦いで敗れました。452年にはイタリアへ侵入して荒らし回りますが、疫病が流行して撤退しました(ローマ司教レオの説得によるとの伝説は眉唾ものです)。そして453年、アッティラは脳卒中によってか急死しました。
イタリアのローマ人は喜びますが、ガイセリックは西ローマ帝国の後継者争いに関与して船でイタリアへ侵攻し、455年に再びローマを略奪します。殺戮は比較的少なかったものの、多数の財宝が略奪され、住民の多くは奴隷や身代金目的の人質として連れ去られました。
東西戦乱
西ローマ帝国皇帝の権威はラヴェンナ周辺にしか及ばなくなり、ゲルマン系の将軍や政治家が実権を握って権力を争ったのち、476年に最後の皇帝ロムルス・アウグストゥルスが廃位され、西ローマ帝国は滅亡しました。ネポスという帝位請求者もいましたが、ダルマティア(クロアチア西部)にしか支配権は及ばず480年に暗殺されます。
当時の東ローマ皇帝ゼノンは、これで唯一のローマ皇帝となったわけです。しかしイタリアには将軍オドアケル、北アフリカやシチリアにはヴァンダル王ガイセリック、ヒスパニアには西ゴート王、ガリアやゲルマニアにはフランク族などが割拠しており、ゼノンを宗主とするのはオドアケルだけです。彼は周辺諸国と和平を結んでイタリアの統治に専念しますが、やがてゼノンと対立するようになっていきます。
488年、ゼノンは東ゴート族の王テオドリックを副帝に任じて西ローマ帝国の統治を委ね、イタリアへ派遣します。テオドリックは493年にオドアケルを殺し、ゼノンの後継者アナスタシウスから西方統治の大権を承認されました。テオドリックは西ゴート王国の摂政を兼ね、西方諸国の盟主として善政を敷き、都市ローマをも再建して大いに讃えられました。
しかし、518年に東帝アナスタシウスが崩御し、ユスティヌスが帝位に着くと雲行きが怪しくなります。ユスティヌスは老齢で無学な人物で、実権を握るのは甥のユスティニアヌスでした。東ローマ帝国ではお定まりの神学論争が政治と直結して続いており、単性論派のアナスタシウス、アリウス派のテオドリックに対抗して、ユスティニアヌスは三位一体派と手を組みます。
523年頃からユスティニアヌスは東ゴート王国へ「異端だ」と介入を繰り返し、同じ三位一体派のフランク族と組んで脅かします。526年にテオドリックが世を去り、527年にユスティヌスが崩御すると、ユスティニアヌスの時代がやって来ます。彼は内乱を制して国政を固め、西へ目を向けます。
532年にはペルシア帝国と和平を締結し、533年には将軍ベリサリウスを派遣してヴァンダル王国を征服、535年にはイタリアへ向かわせ東ゴート王国を攻撃させます。この戦争は554年まで続き、イタリアは戦火と疫病で荒れ果てました(542年から60年に渡りペストの大流行が起きています)。ユスティニアヌスはイベリア南部も少し攻め取り、ローマ帝国をガワだけは取り戻しますが、もはや内実はボロボロです。
またユスティニアヌスは三位一体派のキリスト教を正統教義としており、異端や異教を激しく迫害しました。529年にはアテナイのアカデメイア(プラトン哲学の学院)を閉鎖しています。マニ教や多神教は積極的に弾圧し、神殿を閉鎖し、多数の異民族をキリスト教に改宗させました。ペルシアとの戦いに備えてアラビアやイエメンへも伝道使節を派遣しています。
ユダヤ人も例外ではありません。彼らは市民権を制限され、宗教上の恩恵を脅かされます。皇帝はシナゴーグ内部の事柄にも介入し、一時的にしろ「礼拝にヘブライ語を使うな」と命じたこともありました。抵抗すれば処刑や肉体的な刑罰、追放や財産没収で脅され、シナゴーグを教会にして強制的にキリスト教に改宗させることも行われました。
波斯名君
ティベリアのユダヤ教総主教(ナスィ)もすでにおらず、キリスト教会や東ローマ帝国によるユダヤ人への弾圧は激しくなる一方で、待てど暮らせどローマは滅んでくれません。こうなれば、かつてユダヤ人がペルシアに解放されパルティアと手を組んだように、東方の大国サーサーン朝ペルシア帝国に期待するしかありません。当時は名君ホスロー1世が君臨していました。
彼はゾロアスター教徒ですが、東ローマから亡命したネストリウス派キリスト教徒や哲学者を庇護するなど、宗教的には寛容です(社会不安を起こしたマズダク教は潰しましたが)。シリアやアルメニア、インドやチャイナからも学者や医者が招聘され、ジュンディーシャープールの学院で自由な議論を戦わせます。また多くの文献がペルシア語(パフラヴィー語)に翻訳されました。当時の文明人が身を寄せるには最善と言えるでしょう。
ゾロアスター教の伝説では、アレクサンドロス大王がペルシア帝国を滅ぼした際、世界中にペルシアの叡智が流出したといいます。ホスロー1世はまさに世界中から叡智を結集し、ペルシアを大いに繁栄させたのです。善神アフラ・マズダー(叡智の主)も喜んだことでしょう。人々は彼をアヌーシルワーン(不滅の霊魂)と呼んで褒め讃えました。
ホスロー1世は562年に東ローマと戦ってアンティオキアまで迫り、ペルシア側に有利な条件で講和を結びました。また東方ではブハラで西突厥と戦い、南はイエメンを攻撃して、この地を支配していたエチオピアのアクスム王国を撃退しました。これは西暦570年にあたりますが、この頃アラビア半島の都市メッカにムハンマドが生まれています。
565年にユスティニアヌスが崩御すると、甥のユスティヌス2世が即位しますが、財政はすでに破綻状態で、国内は宗派対立や異民族の侵入でボロボロになっていました。せっかく奪還したイタリア半島も大部分がランゴバルド族に奪われ、シチリアやラヴェンナを確保するにとどまります。対するペルシア帝国は日の出の勢いで、多くの亡命者を迎え入れました。
東と西の帝国は、ユーラシア大陸を巻き込んだ大戦争に突入します。それはひとつの時代を終わらせる光と闇の最終戦争でした。そしてアラビア半島に新たな啓示が降り、世界史を大きく塗り替えることになるのです。
◆馬◆
◆娘◆
【続く】
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