わたしと言う人間②

わたしには恐らく感覚鈍麻もある。
多分だけれど、痛みを感じにくい。
けれどよくわからない。酷い頭痛持ちでもあるからだ。
ただ医者からも「痛みに強いね」と言われたことがあるので、恐らく間違いないだろう。

10代の頃に頭痛で精密検査を受けた際、眠っている時も脳が活発に働いていて、全く休めていないと言われた。
今回、自分のことをnoteに記していこうと思ったのも、似たようなことが原因だ。

わたしは現在、悪夢障害に悩まされている。

さて、なぜ恐らく痛みに鈍いと思うかと言うと、やはり10代の頃に遡る。
お腹が痛くて、痛くて、わたしは病院へ向かった。
当時急性胃炎を繰り返していたので、またその類だと思った。
しかしいつもなら20分歩けば着く病院へ行くのに、1時間以上を要した。
自分でもいつもの痛みとは違うなと思った。
結果、虫垂炎で即入院となったが、1時間も歩いていたため体力の消耗があまりに激しく、市内で一番大きな病院へ搬送され、その上ICUに入れられた。
なぜそのようなことになったのかは、正直理解はしていないが、1週間ほどICUに入院していたと思う。

手術を受ける体力が残っていなかったため、薬で散らして退院したが、1ヶ月半で再発。
その時は流石に自分でもおかしいと思い、救急車を呼び、そのまま緊急手術となった。

それから数年後。20代の頃だ。
またわたしは激しい腹痛に襲われる。
その時も何かがおかしいと思い、父親に病院へ連れて行ってくれないか相談をしたが「大丈夫だから我慢しなさい」と言われた。
しばらく我慢をしたがやはりどうにもおかしい。しかし父親は大きなイビキをかいているし、他に家族もいないので(正確に言えば姉が2人いるが、2人とも結婚をして家を出た後だった)、致し方なく救急車を呼んだ。
駆けつけた救急隊員が「なぜもっと早く救急車を呼ばなかったんですか!?」と、わたしを叱った。
「父親に我慢しろと言われたので」と答えると「我慢しろって…」と、救急隊員の口が歪んだような覚えがある。
その優しさがとても嬉しかった。
救急車、呼んでも良かったんだと安心した。

救急車内と病院で胃液から何から吐き切り、点滴を受け、朝の5時過ぎに帰宅しても良いと言われた。
寝巻きのままで、一切の手ぶらでどう帰れば良いかと思ったが、父親は宛にならないので当時の恋人(現在の夫)に連絡をしたら、すぐに迎えに来てくれた。
家に帰ると、父親は起きてきたが、救急隊員が訪れたことにも、わたしが居なくなっていたことにも気がつかなかったらしい。
わたしはシャワーを浴びて仕事へ行った。

わたしの親は貧乏で、そしてネグレクトだった。
それに気づいたのは「お姉ちゃんがうちの親はネグレクトだったと言っていたが、わたしはそうは思わない」と、次女がわたしに言ってきたからだ。
その時にストンと「あ、ネグレクトだったんだ。虐待されていたんだ」と胸に落ちてきた。

幼稚園の頃に酷い肺炎に罹って、1ヶ月以上入院をした。
その時に母親が「この子は次肺炎になったら死にますよ」と、医師にこっ酷く叱られている姿を見た。
風邪を引くといつも気管支炎や中耳炎になっており、中耳炎の手術も受けたのを覚えている。
自分の体が弱いのかと思っていたが、風邪を引いても病院へ連れて行ってもらえなかったため、悪化していたのかも知れない。
姉が虫垂炎で救急搬送された時も「手術開始があと5分遅れていたら、腹膜が爆発してあの子は死んでましたよ」と、母が医師に怒鳴られていた。
もしかしたらわたしたちは、あの病院ではお馴染みの患者だったのかも知れない。

わたしだけではなく、2人の姉も痛みに鈍いと思う。
それはもしかしたら「痛いと言うだけ無駄だ」と、子供の頃に学んだのかも知れない。

わたしは子供の頃の記憶がほとんどないが、親がネグレクトだと気づいて思い出したことが幾つかある。

当時母親はとあるバンドに非常に熱を上げており、チケットすら持たずにライブ会場へ足を運んでいた。
ダフ屋からチケットを購入してライブを観るためだ。
そうして母親と一緒にライブを観たこともある。
当時わたしはまだ幼児だったので、もしかしたらわたしの分のチケットはいらなかったのかも知れない。
ある日、姉たちとわたし3人を連れて会場に訪れた母は、いつものようにダフ屋と交渉をはじめる。
しばらくすると「自分の分のチケットしか見つからなかった」と、ジュースを買うお金を姉に持たせて、3人で近くのビルで待つように言いつけた。
長女が幾つの時だろうか。
わたしが小2の頃に両親は離婚しているので、少なくとも中学生に上がる前だ。
外が暗くて、怖いような、不思議な感覚だったのを覚えている。

夜は怖い。

幼稚園の頃だったと思う。
ある日わたしは隣で寝ていた母親が起きた気配を感じた。
子供たちを寝かしつけた後に、父親と2人で飲み会に参加する約束をしていたようだ。
わたしは「お母さん行かないで」と泣いた。
子供部屋で寝ている姉たちも起きてしまうと、両親はわたしも一緒に車に乗せた。
そして行きの車の中でわたしは寝てしまったらしい。
次に目覚めた時には、真っ暗な車内に一人だった。
フロントガラスの向こうに、当時母が勤めていたファミリーレストランの明かりが見えた。
わたしは一人で、息を潜めて泣いた。
誰にも気づかれぬようにできる限り体を小さく丸めて泣いた。
あの光景と、あの恐怖を、わたしは忘れない。


満腹感と、空腹感にも鈍いと思う。
思えば幼少期、まともな食事をしたような記憶がない。
母の手料理といえば、生のほうれん草に油で焦がしたベーコンを載せたほうれん草サラダくらいだ。
子供の頃はそれがなんて美味しいんだと思っていたが、大人になって自分で作ってみると、全然美味しくなかった。
わたしはほうれん草が嫌いになった。

当時の家の中で覚えていることといえば、間取りと、足の踏み場さえない汚部屋と、長女が踏み台を使って食器を洗っている姿だ。

わたしは今でも片付けができない。

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