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me and my xmas vol.5

生まれてこのかた暮らしている愛する北海道と義実家のあるニューヨークのブルックリンでの二拠点生活とこれからのわたしの暮らしこと。

ミックスカルチャーのバックグラウンドを持つ子どもたちの日本での子育てがひと段落しそうなころから、少しづつスライドするように、元保護犬の相棒と高齢親の介護サポートがはじまって、つい先日、愛犬と母を立て続けに見送りました。

はて
さて

わたしの50代後半からの再スタートの記録。
まずはロゴスの世界からこんにちは。

ここのところ北海道はぐんぐん暑さが増して日中は東京と同じ気温の日もあるようです。そんな中、コツコツと農家さんが作った良い苗を見つけては購入してあったものをようやく植え始めました。数年前に農業の入り口を習った頃は、まだ積雪のある3月からおうちで種を植え苗を作って1棟借りのビニールハウスで家庭菜園していたのですが、今のわたしの生活には苗を買ってきてベランダガーデンでちょこっとするのがちょうど良くありがたい。最近は我が家に仔猫たちがやってきて、わたしがベランダガーデンに出ると後を追いかけて出てくるので、脱走落下防止の対策方法などをインターネット上やYoutubeの猫プロ先生たちから学ぶ日々。生まれてこのかた硬派の犬派だったわたし。60年近く犬界しか知らなかった猫素人の私はまだまだ多くを学ぶ必要がありそうです。


先日体調を崩したわたしに娘が自分で育てているマローの花を摘んでレモネードを作ってくれました。大人になったなあ。


xmas xmas

このコーナーには国内のこと。最近のきらめきや心と身体のことや、日本ベースでの子育てのこと、わたしのおすすめや、思ったこと、これからのことを書いていきます。

母を見送って、ふと思うこと


母の埋葬がおわった。

お墓に戒名を彫刻してくれた墓石屋さんいわく、埋葬(お骨をお墓に入れる)は四十九日に合わせて行うのが多いらしいが、北海道では積雪があるので、亡くなった時期が冬の場合、それぞれの家庭のタイミングで行うらしい。

自分の母親の身体のなかにあった骨を、その身体を焼いた後に埋葬している、という残酷な、でも当たり前で不思議な、致し方ない、自然なことを、出来ればしないでどこか遠くへ逃げたいけどやるしかないからしている感じ。

ふと思い出してみると、お通夜も葬式もそのやり方も人間が考えたもの。

わたしは祝いごとであっても、誰かが意図的に泣かせようと演出したり、変な音楽を流してみたりするセッティングが嫌いだった。かなり幼い頃から敏感にそういう意図を感じ取り、式では泣いたりしなかった。

泣くタイミングくらい自分で選びます、みんなと足並み揃えさせるように引っ張り出そうとしないでください、と思っていた。

だから卒業式と結婚式、葬式に参列するのが嫌いだったし、決まって身体の体調が悪くなったり熱を出したりしていたようだ。

葬儀の過剰なショー的な演出もそうだが、家族をなくした人が弱って思考が彷徨っている隙間にツケ込んだ葬儀まわりの過剰請求も然り。

うちは母の希望で葬儀は家族のみで極めてシンプル。コロナ禍明けでそれがニューノーマル化していたのと、母の信仰していたお寺関係の仏具屋さんが取り仕切ってくれて、とにかく明朗会計で細かいことに自由が効いたし、逆に一般的な葬儀まわりが如何に自由な料金設定がされているかもわかった。

ゆっくりと亡くなった人を偲んでいたい時間にしなくてはいけない行政の様々なことや複雑怪奇な決まりごとなどの不具合も喪に服すように静かに見過ごされてきたのだろう。いろいろな事柄に出会うたびに驚く。


でもコロナ禍明け直後だったせいか?亡くなった病院と火葬場の対応は、この真逆だった。このわたしが言うのだからかなりである。

病室でもう少しだけでいいから時間をくださいと思ったくらい。疫病で亡くなったわけではなかったが、直後に号泣している傍から分刻みで「あと〇〇分後にエンゼルケア(亡くなった後の身体のケア)をします、そのあと〇〇後に霊安室に移動します」。人生のなかで何度もこんな事はないし、なによりも母を亡くしたのは初めてだし、わからないから全ての「え?」に出会うと悲しみでボンヤリしている頭なので思考が停止し始めて『ああ、こういうものなんだなあ』で終わらせてしまう。質問したりするようなチカラは心身ともに残っていなかった。

そして、歴史に残るコロナ禍、あらためて医療従事者のみなさんは本当に大変だったんだなあと流れ作業のように亡くなった人間の対応を余儀なくされた3年間のルーティンが垣間見えたし、長いこと看護師だった母もこんな風に気丈に決められた流れの中で仕事をこなしていたのかもしれないなと、ナースキャップに婦長バッジをつけた白衣姿の母をテキパキ動く看護師さん達に重ねて思い出して、また涙が溢れて出た。

愛着のあった身体との最後のお別れの火葬場も、焼くことを完了させるために急ぎすぎてて「ハイ!やきますよ!どんどん、どんどん」みたいなノリだった。
朝から告別式で流れるようにスケジュールをこなしていてタイミングを失っていた子どもが「トイレに行きたいんです」と言った後に担当の人が「チッ」という顔をしたのを見てしまった。「もうね、スケジュールが詰まってるんで」という感じで、ここにもコロナ禍明けの大変だった名残りがあった。最後、見慣れた身体から焼け残った母とは到底認識しづらいお骨を拾う時だけ、終わってホッとしたかのようにゆったりと厳粛だったのも不思議だった。


「こちらから見ると沢山の中の1人、でも向こうから見ると私は1人」
忙しいと流してしまいがちなことだが、わたしが長いことアパレルで仕事をしていた時に接客で気をつけていたことをふと思い出した。

近年、忙しい人ばかりが増えてセカセカした世の中になってしまい、みんなが一瞬「え?」と思っても「仕方ないか」とサッと次の瞬間には飲み込むことが多くなった一見物分かりのいい世の中。

なんとかかんとか頑張ってる人たちが多いからこそ、なるべく人に優しいシステムになりますように、と願うばかり。



母のお骨をお墓におさめた日のお空模様



ますます

国外、アブロード的なこと。ミックスカルチャーな我が家のわたしから繋がる海外を。

今年からは下の子の進学に合わせてニューヨークとの2拠点生活もはじまります。


ますますマスク?


ニューヨーク州のキャシー・ホークル知事がニューヨーク市の地下鉄内でのマスクの禁止を考えているそうだ。いまの日本在住者にしたら驚く人も多いニュースだとおもう。

もともとニューヨーク市の地下鉄の中でマスクをつけてはいけないという決まりがあり(かなり昔には写真もだめとかもあったな)、これは簡単に言えば犯罪を防ぐため。

マスクがヘイトクライムを犯す者の身元を隠す可能性があるという懸念から、ニューヨーク市の地下鉄でのパンデミック前のマスク着用禁止を再び導入することを検討しているらしい。

そこで義実家ニューヨークに聞いてみたところ、
『マスクをするのは犯罪者』という考えがまだまだ多いそうだ。コロナ禍前、もともとマスクをする人のイメージはアメリカ映画を見てもわかる通りフード付きトレーナーのフードを目深にかぶってマスクをしている印象が強く、それがマスクが浸透しづらい原因の一つであるのだろうという見立てだった(なんで長年に渡ってわかりやすい犯罪者ですよ的な格好をして犯罪したがるのか不思議ではあるが)。

実際この動画ニュースをいくつか見たなかでのインタビューでも街の様子は思った通りの極端な印象だった。

日本のようにもともとマスク文化があってTPOで付け外ししたり派は少なく、ファッションの一部になっている様子は皆無に近い。むしろマスクをしないで普通の生活に戻っている人たちが多く、私が見たニュースでインタビューされた人はN95やKN95など医療従事者やそれに準じた人が使いそうな高性能のマスクをしている人とノーマスクで義実家と同じ話をしていた人の2人だった。そういう人を探してインタビューしているのもマスコミ的にはコントラストを撮りたいんだろう。

実際のところこの件に関しては物議を醸している。これはマスクを外すのを推奨しますという優しいレベルではなく、知事が検討しているのはニューヨーク市の地下鉄の中ではマスクを外すことの義務化のことだからだ。ニューヨークの地下鉄の中でマスクをしていたら場合によっては職務質問も受ける可能性が高いですよ+αということ。

例外は健康状態もしくは文化的宗教的にマスクが必要な人ということだが、パンデミックという思いもしなかった生命を脅かされる恐怖を味わった後では、さて犯罪が〜とかいうことだけで以前に戻ろうと簡単にはいかないのではないかと思う。

あまりにも国によってマスクの立ち位置が違いすぎてメディカルな検証とかも飛び越えていたりして、あらためて人間界って不思議だなあと思った次第である。


チューしちゃう双子の仔猫たち
「あたちたちはマスクいらない派なの」


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