プチポルターガイスト体験 親を見送る
先月の末に母を亡くしました。
その前の前の前の月には、わたしの心の一部であり同志でもあった愛犬を見送ったばかりだった。
元保護犬でしたが完全にわたしがあの子に保護されていた側でした。
なんだかなーという言葉が今の感情を表現するのに結局は一番しっくり来るような気がしている。
死がいきなり自分ごとになると、いろいろなことが腑に落ちるし、目の前で自分の映画を見ているみたいで、頭の中がずーっとずーっとボンヤリしてしまうのだけど、このボンヤリ時間を過ごすことはとても必要な大事なことなんだと時間の経過とともにわかってきた。
20年くらい前に義実家のあるニューヨークのブルックリンで、友人が車で迎えにきて出かけた直後に横から車を思い切りぶつけられたことがある。住宅街の交差点で一切ブレーキなしで真っ直ぐにわたしたちの車の後部に突っ込んできたのだった。大きな音と壊れた車を見ていつの間にかたくさんの人だかりが出来ていて誰かが警察と救急車を呼んでくれていた。相手の車は運転手のおじいさん1人。彼は数日前に息子さんを亡くしたばかりだったそうで、駆けつけた警察に話しているのが小さく聞こえてきた。おじいさんは無傷。こちら側は運転手の友人も、助手席に座っていた我が夫も、後部座席のわたしの横に同乗していた当時小さかった息子にも幸い怪我はなく、ぶつけられた場所に一番近かったわたしだけが肩が上がらないような打撲と軽い鞭打ちだったが、事故の規模から見てもむしろそれだけで済んでよかったのだった。おじいさんの息子さんが助けてくれたのかもしれないな。自分に纏い付いているボンヤリした空気感がタイムマシンを作動させて久しぶりにその時の記憶の扉を開けた。あの時にはわからなかったあのおじいさんの気持ちがよくよくわかった。
こうなってみると、いままでわからなかった目に見えないことが次々見えてくるような、今まで認識されなかった場所がはっきりと脳の中に確認できるような感じがします。
愛犬を亡くしてからすごく不思議な体験をしたのだけど、母の場合は、もともと仏教を信仰する人だったり、とても幼い頃に自身を出産した後の肥立ちが悪くて母親を亡くしたとされる長年抱えていたトラウマや、看護師という仕事柄からも死生観がかなり早いうちからはっきりとしていた人だった。また更にわたしの出産時に臨死体験の一歩手前のようなことも経験していて、亡くなったお母さんが仏壇の中から手を横に振って「こっちに来るな、こっちに来るな」と言っていたのが見えたという。次の瞬間「おぎゃー」という産声とともにわたしが生まれて現実にヒューッと引き戻されたという話をよくしていた。そんな母だから目には見えない世界のことを肯定していたので、もう亡くなったら真っ先になにかわたしにサインを送ってくるだろうと思っていた。
それでも現実に対応しなくてはいけない事は目の前に山ほどあり、慌ただしく葬儀までの一連の儀式が終わり、ようやく久しぶりに我が家に帰宅できた日のこと。お線香の匂いが染み付いた服やバッグを陰干ししたり、あの日から止まったままになっていた家の中でゆっくりキッチンのリセットをしていたら、いきなり「ごめんね」と母の声が聞こえた。その「ごめんね」は母の話し方のアクセントやトーンもそのまま。全くのノーマークでいきなりやってきたサインに、今か!とものすごく驚きまくった。
慌てて部屋にいた息子に話しに行くと、息子も今朝寝ている最中に誰かにポンポンと肩を叩かれて起きたという。息子は寝ぼけることはなく浅寝の人で、もちろん家族は部屋にすら入っていない。息子は「マミーのこと頼むね、と言われた気がした」と言っていた。
その後、さて、ゆっくり自宅のお風呂に入ろうと電気をつけたらお風呂場の中の2つの電気うち1つの電球がパチっと切れてしまった。慌てて電球を取りに行ったらその部屋の電気も切れて点かない。笑。これは母からのサインかもしれないと笑いながらそのままにしておいて、普通に声を出してここ数日のいろいろ大変だったことをゆっくり母に話しかけていた。
コロナ明けでお見舞いの強い制限がなく母に会いに行けていたのも有り難かった。もう母が言いたいことは全部聞いていた。亡くなる前日も今思えば、まるで辞世の句を読むように一人一人に向かって手を握って励ましと感謝と。「ありがとう。もう十分生きた。我が人生に悔いなし。娘たちがいてくれてよかった」を繰り返し言っていた。遺族に遺恨を残さないという幼い頃からの自身の辛かった経験と、長年たくさんの死に立ち会って来た元看護師長の母の美学だったのかもしれない。わたしは母と電話で毎日話しが出来ていたことから、最期となったその日は、仕事で忙しくしていた妹や1人残されることになる高齢の父に時間を譲ったのを気遣ってきっと挨拶に来たのだと思った。その様子も母らしいし、母はすべてわかっていたのだと思う。
その夜、わたしは不思議な夢を見た。わたしの首の後ろから急に大きな蛇のようなものが入ってきたのだ。映画「マトリックス」を観たことがある人はキアヌ・リーブス演じる主人公のネオが首の後ろにプラグを指す場所。盆の窪(ぼんのくぼ)と言われて急所でもあり、エネルギーの出入り口だとも言われている場所。あまりにも大きな蛇だったので自分の体がはち切れるかとびっくりして目が覚めた。
あれはなんだったんだろう?でもあれから悪いことはないし、むしろ死亡後の手続きとやらが沢山ありすぎて(区役所ではマイナンバーカードの仕組みがまだまだ生かされておらず、一つ一つの部署別に番号札を引いて待たなくてはいけなくて大変!後から聞き忘れて戻っても小さな場所なのに担当者が見つからず再度引いて待つように言われたり...おかげで今日は7枚も引いちゃったよ!)一日あっという間に暮れていくくらい忙しいのだけど、風邪ひとつ引かずに元気でいられて直感が少しだけ冴えるようになったので、出来れば良いエネルギーだと思いたい。
ボンヤリといえば、つい最近わたしはコンクリートの歩道でひどい転びかたをした。思いっきり右腕からコンクリートに着いてしまい、手に持っていたiPhoneのガラスの画面シールドが割れたのに、本体は無事。服はどこも破れず、軽い打撲だけで怪我一つ無かったということがあった。もうすぐ60歳。運動神経が良いわけではない。咄嗟のことで記憶が飛んだのだが、一瞬、持ち堪えたような時間があって、その後転んだようだった。隣で歩いていた息子が「えええー!マミーどしたの⁈」と驚いて仰け反るくらいなアクロバティックな転び方でした。そして偶然にもその様なカタチで疲労を体現することとなったおかげもあってか?いつにも増して家族は優しいです 笑
ありがとうございます(*Ü*)*.¸¸♪